エピローグ
――11月16日(水)
「春太、ちょっといい?」
「どうぞ」
昼休み、変わらず春太がいつもの場所で本を読んでいるとひょっこり鈴が姿を現した。
かと思うと、春太のすぐ隣に腰を下ろす。
「……」
「……」
春太がページを繰る音と、時折吹く風が揺らす木々のざわめき。隣り合う二人の間に会話はない。
そのゆっくりと流れる時間の中、控えめな調子で鈴が沈黙を破った。
「あの、さ」
「ん?」
春太は依然として本から顔を上げず生返事を返す。
「えっと、その……ごめんなさい」
「そうか。分かった」
「え、あれ!?それだけ!?」
あまりにも軽い春太の反応に、嫌味の一つでも言われる覚悟でこの場を訪れていた鈴は思わず狼狽してしまう。
「そりゃ、それだけ、と言われてもそもそも謝られるいわれがないからな」
やはり顔を上げることはなく春太が付け足す。
「いや、けどだって……春太のことを魔法使いだどうのって言って……」
「あぁ、この間の。もともと気にしてないって」
それだけならもう帰ってくれよ、というオーラをガンガンに発しつつ春太は読書を続ける。
しかし期せずして春太の態度は、鈴が口にするつもりのなかったことまで引き出してしまった。
「むぅ……じゃあ言うけどさ、やっぱり春太は魔法使いだったんでしょ」
「この流れでそういうこと言っちゃうの?」
「だってお客さんを増やしてくれたもん」
「なんのことだかさっぱりだな」
そう言う春太の視線は本に落とされたままだが、露骨にページの進みが遅くなる。
「あの後……日曜日くらいからかな?だんだんお客さんが来てくれるようになってさ」
「それは鈴たちがお父さんの穴埋めを頑張ったからだろ?」
「私も最初はそうなのかなーって思ってたんだけどね」
鈴は一度そこで言葉を止め、かみしめるように続きを口にする。
「だけどね、一個だけ不思議なんだよ」
「ほう?」
「宣伝を聞いて食べに来た、ってお客さんが言うんだけどさ、どこでその宣伝を聞いたーとか、誰に聞いたーとか、そういうのをみーんな覚えてないの」
「確かに不思議だな」
「うん。だから魔法なのかなって」
「もしそうならずいぶんと素敵な魔法だな」
「ねー」
鈴がほっこりと笑うと、それきり会話が途切れる。吹く風は季節相応に冷たかったが、二人の周りだけは暖かな空気に包まれていた。
「さてと、言いたいことも言ったし私は戻ろうかなー」
鈴が春太の隣から腰を上げて校舎へ戻ろうとすると、この会話の中で初めて春太が本から顔を上げて。
「うん、やっぱり鈴はそうしてるのが一番だよ」
「え?」
その言葉に、鈴が驚いた表情を見せる。
「のほほんとした鈴が、一番落ち着く」
「たはー、情けないところを見せちゃったかな……」
その頬にわずかな朱が差していることに気づける春太ではなく。しかして春太はそういうやつだと鈴は知っていて。
「今度また遊びにおいでよ。お母さんも会いたがってたし」
「そうさせてもらうよ」
今はそんな春太の返事ですら満足そうに受け止めた鈴は、普段通りの足取りでその場を後にした。
春太から見えない位置まで来たところで鈴は立ち止る。
「はぁ……あんなこと言うんだもんなぁ……」
昔から温厚篤実の極みであった鈴だが、一度だけ今回のように取り乱したことがあった。
「みんな、みんな、みんな!私のことをとろいとかどんくさいとか!私だって頑張ってるんだよ!」
のほほんとした空気は鳴りを潜め、常日頃は語調も穏やかそのものである鈴が、この時ばかりは語気を荒げていた。そんな横で、春太は静かに本を読んでいた。
「春太もそう思ってるんでしょ!?」
「ぼく?」
我関せずを決め込んでいた春太は、そこで名前を呼ばれたことでようやく顔を上げると。
「僕はいつも通りの鈴が一番落ち着くんだけどなぁ……」
そんなことを言ってのけたのだ。
「だぁぁぁ……」
春太は魔法使いなんでしょ?なんて、今思えばとてつもなく意味の分からない食い下がりだったことだろう。それでも、春太なら何とかしてくれる。春太なら、と。
それは鈴の奥底に眠るどこまでも女々しい思いの発露だった。
在りし日に芽生え、今日この日までずっとしまい込まれていた気持ち。鈴本人すら気づいていなかった気持ち。
「やっぱり春太は魔法使いだよ」
教室に戻る道すがら。
鈴は高鳴る胸をおさえながら、たいそう嬉しそうに、そうつぶやいた。