その4
――11月5日(土)
「持って行かなきゃいけない教科書はこれで全部いれたし……」
「宿題もお忘れなく」
「分かってるよ」
土曜日の夜、春太は自室で荷物の整理をしていた。春太の場合、ここで月曜日の準備を怠ればこの間の二の舞を演じることになってしまうからだ。
「あー、やっぱ使わなきゃよかったかなぁ……」
使わなきゃよかった。その言葉が差すのは、週頭に力を使って宿題を取り寄せたことである。
「緊急事態だったわけですし。仕方なかったと思いますよ、私は」
「そうは言うけどな?どう考えても釣り合ってないんだよ」
「しかしそれこそがグリモワール=オブ=ウィークエンドの力であり代償なのですから」
『使用者が最も効率よく週末一日を利用したとして実行可能なこと』それを最大値として、その範疇においてあらゆる行いを瞬時に具現化する魔法。それがグリモワール=オブ=ウィークエンドの力の正体である。
「代償……週末のエネルギーを云々って話だろ?」
「よくその認識で今まで力を使ってきましたね……」
おおむね万能のようにも見えるグリモワール=オブ=ウィークエンドだが、もちろん力の行使には制約が存在する。
前提として、その力を使用できるのは週に一回までであること。そして使用した場合、その使用者の週末は一日分スキップされるのだ。
「誰か他人のために力を使ったんならまだいいんだけどな?今回は自分のためだからなぁ……」
「僕の時間は僕の自由にする。以前春太さんがおっしゃっていたことですよ?」
「それを今持ち出すのは反則じゃないのか」
「そんなことはないと思うんですけどね」
僕――春太の時間。春太の週末。
仕事量の計算において必ず時間を考慮に入れるように。グリモワール=オブ=ウィークエンドの力も効率を突き詰めればそれなりに大きな事を可能にする。
さればこそ春太の時間の使い方は週末さんからしてみればとても無駄が多く感じられてしまうのだが、週末さんは春太がそうする理由を知っている。けれど、その経緯は理解できないでいる。
だから週末さんはいつも茶化すようにこう言うのだ。
「せっかく週末を代償とするのならもう少し大きなことを望まれればいいのに」
「僕は元来週末はゆっくりと本を読んでいたい生分なんだよ」
机の上に開きっぱなしで置いてあった本を春太はパタンと閉じて。
「……そろそろ布団に入っておかないとな」
春太の視線の先、壁掛け時計の長針はまもなく頂点を示そうとしていた。春太の時間は、時計が日曜日の零時ちょうどを告げた時から、日付が変わるその瞬間まですっぽり抜け落ちる。
「少々おしゃべりが過ぎましたね。申し訳ありません」
「いいよ、別に」
布団に体を預けた春太が目を閉じる。そして時計の長針がてっぺんを通り過ぎると、まるで糸が切れた操り人形のように春太は動かなくなるのだ。
「ゆっくりお休みください」
最大限慈しみを込めた調子で週末さんがつぶやいた。
それ以後、部屋に春太の寝息はなく。ただ時計が時を刻む音だけが空間を包んでいた。
――11月7日(月)
「んぁぁぁー終わっっったぁーー!」
終業を告げるチャイムの音とともに大きく伸びをする春太。
月曜日が憂鬱なのは日曜日の次の日だからである。そんな話を何の本かで読んだなぁ、などと考えつつ、日曜日がなくともそれは変わらないということを春太はつくづく感じていた。
「……帰るか」
春太は特に部活動に所属しているわけでもないため、授業の終わりは帰宅を意味する。
今日も今日とて家路につこうとする春太だったが、そんな彼を一人の女子生徒が呼び止めた。
「あー、春太。ちょっといいかなー?」
その声に春太が振り向くと、そこには鈴の姿が。
「別に構わないけど……どうかしたのか?」
「たぶん、あんまり時間はとらせないと思うからー」
言い終わるや否やスタスタと歩き始めてしまう鈴。
「ちょ、ちょっと待てって」
「あんまり他人には聞かれたくない話だからさー。ついてきてくれる?」
「……」
鈴の様子に小さな違和感を抱きつつ、春太はその背を追った。
「で、僕のベストプレイスにまで連れてきて……一体何の用なんだ?」
春太のベストプレイス。鈴に連れてこられたのは、言わずと知れた昼休みにおける春太の読書空間だった。
すでに放課後ということもあり、この場所はすっかり校舎の影に入ってしまっている。
それ故か、いつも昼休みに訪れている春太にもこの場所は他より薄暗く、気温も低く感じられた。
「……私の家が小料理屋なのは知ってるよね?」
「伊達に子供の時から遊びに行ってないからな」
なんだかんだ春太と鈴は小学生のころからの腐れ縁である。しかしそれこそ昔は毎日のように遊びに行っていたものだが、いつからか春太は鈴の家に足を運ばなくなっていた。
――だから、春太は知らなかった。いかに鈴の抱える問題が大きなものなのかを。
「最近ね、お父さんが入院しちゃったんだ」
そう口にする鈴の声は別人かと疑いたくなるほどに暗いもので。
「……っ!」
それは知らなかった。今度お見舞いに行くよ。
そんなのんきなことを言いそうになり、春太は慌てて口をつぐんだ。
ようやく、違和感の正体に気がついたのだ。
「今までは家族みんなでなんとかやってきてたんだけどね……」
訥々と話を続ける鈴。それを聞く春太。
しかしその両者には、絶対的な温度差が存在する。その元凶は今春太の眼前に立つ少女が纏う重く冥い空気。
そしてそんな鈴がわざわざ自分を呼び止め、あまつさえ場所まで移動して話しかけてくる理由。
「ねぇ、春太」
「……」
春太の背に冷たいものが流れた。
しかし。
「もし、もしだよ?もし春太に魔法が使えるなら……春太が魔法使いなら、助けてほしいんだ……」
週末さんのことがばれてしまったのかもしれない。その懸念すらも瑣事に感じられるほど、春太は鈴の言葉から鬼気迫るものを感じ取った。
知らぬ仲ではないのだ。できることならば助けてあげたい。いや、きっとやろうと思えば助けられてしまうだろう。
けれど今の鈴を人の道を外れた力に頼らせるわけにはいかない。もしそうなればきっと鈴はもう自分で立てなくなってしまうから。
その思考が、藁をもすがる思いで懇願する鈴とは対照的に、春太をひどく落ち着かせていた。
「残念だけど僕は魔法使いなんかじゃないよ。鈴と何も変わらない。ただの人間だ」
「でもあの宿題の時……!」
とても普段の鈴からは想像もつかない、荒げられた声。それはなおさら春太の意志を固めるだけだった。
「僕は、魔法使いなんかじゃないんだよ」