その2
「毎朝いい気付けになるよ……それ」
「体は朝日で目覚めるんです」
週末さんは体があれば胸を張っているであろう調子で答える。
「にしたってもう少し優しく起こしてくれてもいいんじゃないか?」
「この起こし方もかれこれ半年は続けてるんですから。そろそろ慣れてもらいませんと」
カレンダーは十月最後の一日を示し、いよいよ十一月になろうかというところ。
「あぁ、もうそんなに経つのか」
「春太さんの場合は人一倍早く感じるのも致し方ないことではありますが」
「今でも信じられないんだけどな」
週末を司る魔導書、グリモワール=オブ=ウィークエンド。そしてその精霊を自称する週末さんとの出会い。
草萌ゆる4月のことを春太はふと思い返していた。
――4月24日(日)
その日、うららかな陽気に誘われて、春太は少し遠方にある山間の古書堂を目指していた。
最寄りの駅からでも徒歩三十分。そして道中は都会人には少々厳しい山道が続くというとてつもない立地の古書堂だ。
けれどそれでこそ掘り出し物がある、と春太は意気揚々と地図を頼りに進んでいた。
それから時計は進み、かれこれ歩き始めて二時間を過ぎたものの。
「おかしいな……」
依然として古書堂にたどり着くことなく春太は山道をさまよっていた。
とある読書家の集会で知りあった男性に教えてもらった地図の通りに進んでいるはずなのだが、どこにもそれらしきものが見当たらない。
そもそも今春太がいる場所には人の生活感というものが皆無だった。
「デマをつかまされたのかなぁ」
体力的にもそろそろ引き際だと考え下山しようとしたとき、春太はなんとなく自分が誰かに見られているような気配を感じた。
「……誰かいるのか?」
声を投げかけつつ辺りを見渡してみるもやはり人の気配はない。
「気のせい、かな」
しかし山を下りようとして、普段ならば絶対に気にすることの無い様な小径が春太の目に止まった。
「こんな道あったっけ?」
きっとその小径は前からそこにあったのだろう。しかし春太の目にはなぜかその小径だけが他とは違うように感じられた。
「行ってみるか」
散歩日和の天気ということもあり、次の瞬間にはもう春太の足はふもとではなくその小径へと向いていた。
どこまでも続くかのように感じられるその道を、もはや何かに導かれるようにして進んで行く。
行けども行けども景色は変わらず、いよいよもって春太の心に引き返す気持ちが芽生え始めたころ。
「……!」
森が突然開けたかと思うと、春太の前に小さな西洋風の家が姿を現した。
崩れているように見えて、デザインだといわれれば納得できてしまうレンガ造りの外壁。ところどころ曇ってはいるものの基本的にきれいな窓ガラス。手入れをしてあるといわれればそうなのかもしれないと思える庭の草木。
これがどのような建物なのか、誰かが住んでいるのか。それを外観から判断することはできなかったが、ただ一つ『おーぷん』という札が玄関にかかっているところから、何かしらのお店であることが想像できた。
「ごめんください」
ギギギときしむ木製のドアを開けて中へ入る。
その途端、やわらかく歴史を感じさせる、古書の香りが春太を出迎えた。
「ここだったんだ……」
春太が何よりも愛し、春太にとって何よりも落ち着く香り。この空間の空気はまさに古書堂のそれであった。
しかし他の古書堂とは明確に違う点。ここには“人”の気配というものだけが絶対的に欠如していた。
整然と並ぶ蔵書の数々は明らかに古いと思われるものが多い。そしておそらくその年数も百や二百は下らない本たちだろう。
これだけの歴史ある書物は放置されればすぐにボロボロになってしまう。
「明らかに人の手が入ってるはずなんだけど……」
それに玄関にかかっていた『おーぷん』の札。一体あれの意味はなんなのだろうか。
その答えを求めて春太はぐるりと店内を一周した後、最後に店の最奥へとたどり着いた。
そこは通常ならば店主が座す場所。けれどこの古書堂においては、明らかに異彩を放つ一冊の本がそこに鎮座していた。
「グリモワール=オブ=ウィークエンド……?」
かすれてしまっているが辛うじて表紙の字が読めるその本を手に取る春太。
普通の紙ではないのか、見た目よりもずっしりとその重みが感じられる。
しかし本の中身はさらに春太を驚かせた。表紙とは対照的に、中身のページは全て新品と言っても差し支えない保存状況だったのだ。
それに加え、
「なんて読むんだ……これ」
数多くの本を読んできている春太は、それが何語で書かれ、大体何を意味しているのか分かる程度の言語力は有していた。けれどこの本に記された文字には全く見覚えがない。
「ふむ……」
なぜだかこの場所に人の気配はない。
ならば――
「借りて帰ってもばれないかな……?」
「ばれるに決まっているでしょう」
「!?」
ここにいるのは自分だけだと思っていたところに突然声をかけられ、春太は本を取りこぼしそうになってしまう。
「ちょ、ちょっと危ないですね!落とさないでくださいよ?」
なんとか抱き留めた本が、春太の腕の中で慌てたような怒ったような声を出す。
山道で春太を見つめていた気配。それが今春太の手元にある一冊の本に宿っていた。
「本もついにしゃべるようになったの……?」
「ええ、しゃべりますとも」
「そうなんだ……」
あまりのことに何かがマヒした春太は再びページをめくっていく。
「うん、やっぱり読めない。これどこの文字なんだろう」
表音文字とも象形文字とも判別がつかない。そればかりかパッと見たところでは語法にすら統一性が無さそうだった。春太にとってこれはもはや落書きを疑いたくなるレベルであると言えた。
「文字系統は私にも分からないんですよ」
「文字系統は、ってことは何が書かれてるかは分かるの?」
「ええ、それなら分かりますよ」
「じゃあなんて書いてあるの?……って違うよ!そうじゃないよね!」
いつのまにか本との会話を繰り広げていた自分に驚く春太。現状において春太に分かることはあまりにも少なかった。
「えっと、それで君はこの本の意識なの?」
「う~ん、それはちょっと違うんですよね。何と言えばいいのか……」
しばしムムム、と悩んだ後。
「魔導書の精霊と言ったところでしょうか」
「魔導書?」
「うんうん、これはしっくりきますね。魔導書『グリモワール=オブ=ウィークエンド』の精霊、週末さんってことで、ここはひとつ」
「じゃあひとまず週末さんって呼べばいいのかな」
「それでお願いします!」
その時の週末さんの声はとても弾んでいた。
――10月31日(月)
「……やっぱ慣れちゃだめでしょ」
「あらら、それは残念です」
回想から戻り、ゆっくりと朝の支度を整える春太。
週末さんに強引な起こし方をされる朝は良くも悪くも、ゆっくりとした時間が取れる程度に春太の生活習慣を早めていた。
しかし今日ばかりは事情が違ったようだ。
「春太さん、わかってます?しばらく物思いにふけっていらしたせいで今朝は時間がおしてますよ」
「え?」
気づけば、学校まで走って間に合うかどうかという時間。
「ふふっ、週末にランニングでもしてみますか?」
週末さんは他人事のように笑っている。
「月曜日の朝イチから週末さんの力には頼りたくないかな」
「おっとと、もう少し優しく扱ってくださいよ」
春太は週末さんを鞄へ突っ込むと学校へ向けて走り出した。