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こちらニュースカイエア航空110便、緊急事態を宣言します

作者: 悪一

※この物語は実際に起きた出来事を参考にしたフィクションです。登場人物、国家、組織、メカニックは全て架空のものです。

 航空事故が起きる確率は地上における交通事故の発生率より低い、という話がある。

 それは実際「事実」である。


「アメリカ国内における1年間の交通事故死者数よりも、ライト兄弟が人類史上初の動力飛行に成功したときから現在に至るまでの航空事故死者数の総計の方が少ない」


 なんて言葉もあるくらいには、航空事故、殊死者を伴う航空事故というのは少ない。


 1985年には「航空業界の厄年」と呼ばれたように、立て続けに航空事故が続いた年があったが、現在ではそれもあまり聞かない。あるとすれば、ゲリラやテロリストによって航空機が撃墜された事例や、パイロットが意図的に落とした事例が挙げられるが、それは航空事故と言うよりは「事件」と言った方が正確である。

 そしてその事件も、セキュリティ強化や危険空域(紛争地域など)を迂回するなどで対策されており、頻発するものではない。


 航空機と言う乗り物は、安全と言っても良いだろう。


 だが航空機に関わらず、「安全の歴史」というものは翻って「事故の歴史」でもある。

 自動車、船舶、鉄道、発電所、そして日常に関わる様々な安全基準は、実際に起きた「事故」を教訓に設定されている。


 事故が安全を生み出す。


 そしてその歴史が、未来の乗客を救うのである。




---




 ニュースカイエア航空(NSA航空)に所属するパイロット、エドワード・ミカサ程「パイロットになるべくして生まれた存在」はいない。


 エドワードの父親と祖父は共にパイロット。母親も客室乗務員であり、そして親戚にも航空管制官、整備士、空港職員など多くの航空関係者がいる。

 そしてエドワードもごく自然な流れとしてパイロットとなった。


 しかし彼は、左目に障害があった。


 今となっては考えられないことではあるが、エドワードは左目の視力がないのである。彼の左目は義眼だったのである。それでも当時の航空業界の国際基準では「問題ない」とされており、実際彼はその障害をものともせずに事業用パイロットの免許を取得したのである。


 その後1万時間以上、彼は空の中にいた。


 彼が属するNSA航空は、それほど大きな航空会社と言うわけでもなく、かと言って小さな航空会社でもない中堅航空会社。

 所有する機体の殆どがアメリカ製。


 そして198X年Y月Z日、彼が機長として乗務することになったNSA110便も、アメリカ製のCF-730という中型ジェット旅客機だった。

 中米エルサルバドルから、アメリカルイジアナ州にあるウッドメア空港までの旅路である。


 このCF-730は当時最新鋭の旅客機であり、既に多くのCF-730が世界中を飛び回っていた。NSA航空もCF-730を4機購入し、NSA110便はNSAで初めて飛んだCF-730でもあった。


<NSA110、こちらウッドメア進入管制アプローチ。使用滑走路は35L、最終進入コースインバウンド。パイロットの判断で降下し、高度4000ftを維持せよ>

<了解。NSA110、高度4000ftまで降下>


 その時、110便はウッドメア空港への着陸コースにあった。

 航空管制官と交信するのは、副操縦士のジョン・シャルメット。彼はエドワードには及ばないものの、やはり1万時間以上の飛行経験を持つベテランであり、何度もエドワードと共に飛んでいた。


「……にしても、酷い嵐だ。この時期じゃ珍しいな」


 そしてエドワードとジョンの後ろでそう呟いたのは、フライトインストラクター(教官)のアラン・ホワイト。ベテラン2人を乗せた航空機に教官たるアランが乗る理由は、単に新しく納入されたCF-730の操縦を間近で見て勉強するためであった。


「処女飛行で新車に傷なんて、会社になに言われるやら」

「雹で塗装が剥がれたから自己負担、なんてことがあったら嫌ですよ」


 航空機が嵐の中を飛ぶのは、ままあることである。

 冗談を口々に言うパイロットたちだったが、無論危険には変わりない。状況が許せるのであれば迂回するが、今は着陸進入中である。

 また、機上の気象レーダーでは雨雲を完全に掌握できないこともあり、回避したと思っても雨雲の中を飛び続けていた、ということもよくある。


 嵐の中にあって、飛行機に多数の雹が打ちつけられ、強風が機体を揺さぶっていた。

 シートベルト着用サインは当然点灯したままであり、乗客は窮屈な旅を強いられたことだろう。


『客室乗務員は席についてください』


 副操縦士は、さらに天候が悪化することを予想して、そしてウッドメア空港に着陸進入中であることを考慮して、客室に対してそう放送した。


「……まさか落ちたりしないわよね」


 乗客の誰かが、不穏なことを言う。

 嵐のせいで航空機が墜落する、というのはこれまでもよくあったことは事実。


 とは言っても、嵐の中を飛行したから即墜落、ということにはならないはずである。特にCF-730は当時最新鋭の機体なのだから。


 だが、NSA航空110便が高度1万7000ftまで降下した時、それは起きた。


「…………なんだ?」


 ウッドメア空港のレーダーから、NSA航空110便の機影が消えたのである。


<NSA110、現在の高度は?>


 管制官は、110便を呼び出す。だが応答がない。


<NSA110。こちらウッドメア進入管制アプローチ。現在の高度を教えてください。聞こえますか?>


 変わらず、応答なし。

 管制官としては最も回避すべきことで、最も経験したくない事態に直面したのではないか。そう考え、彼は嫌な汗を流した。


 しかし「レーダーから機影が消えた」ことと、「墜落した」ことは同じ意味ではない。


 一般的に想像されるレーダーの原理は「電波を照射し、機体が電波を反射。その反射波を捉える」である。

 だがこれは厳密には「1次レーダー」に区分される。

 航空管制で利用されるレーダーは「2次レーダー」と呼ばれている別物である。


「2次レーダー」は、管制側が発信した質問信号に、航空機側が発信した応答信号を受信するシステムである。

 つまり航空機側がなんらかの理由で応答信号を返せない状況にある、もしくは応答信号発信装置トランスポンダがない旧型機であれば、2次レーダーには映らないのである。


 CF-730型旅客機は当時最新鋭であり、全ての新造旅客機にはシステムの搭載が義務付けられていることを考慮すれば、後者の可能性は消える。

 となると、なんらかのトラブルによって発信できない状況にあると言うこと。


<NSA110、こちらウッドメア進入管制。応答してください>


 だが理由がいずれであれ、最悪な空の旅が始まろうとしていたことは、間違いない。 

 その時、NSA航空110便に何があったのか。


 実はこの時、NSA航空110便はある理由によって、トランスポンダによる応答どころか無線による交信も不可能な状況に追い込まれていたのである。


 その時、機内は暗闇に包まれていた。そして不安の声を上げる客の声と、雷鳴と、雨と雹が機体にぶつかる音「だけ」が乗客に聞こえていた。


 航空機に乗ったことのある人間ならわかるだろうが、航空機に乗っていれば必ずある音が聞こえる。


 両翼にぶら下がる「エンジンの音」である。

 にも拘らず、機内はとても静かだった。


 それは、直視できないほどまでの絶望的な現実を全員に突きつけることであった。


 副操縦士のジョンが、静まり帰った機内において悲鳴に似た報告をする。


「――両エンジン停止! 推力が0です!」


 CF-730に2つついているエンジンが突然、ほぼ同時に停止したのである。


 航空機において、エンジンはとても重要な装置である。


 エンジンによって推力を得て、航空機は空を飛ぶことを可能にしている。だがそれが完全に失われれば、航空機はただの「数十トンの金属の塊」と化す。


 そしてエンジンは推力を生み出すと同時に、電気を生み出す発電機でもある。

 発電機たるエンジンが止まれば当然、電気も生み出せない。

 電気が生み出せなければ、客室や操縦席内の照明も、計器類も、操縦に必要な油圧も、トランスポンダも、無線でさえも使用不能になる。


 唯一の例外は、予備のバッテリーが内臓されている姿勢指示器と高度計。

 辛うじて生き残っている高度計は、現実を確実にパイロットに伝える。


「降下率、毎分1500ft!」


 1分間に1500ft降下――いや落下している110便。既に高度は1万5000ftを切っており、このままでは10分足らずで墜落する。


 しかし逆に言えば、「墜落を回避する時間が10分も与えられている」ということでもある。


「――APU、作動オン!」


 APU 〝Auxiliary Power Unit〟 補助動力装置と訳されるこの装置は、地上駐機時、あるいは緊急時において主要な機器にエネルギーを供給する補助発電機である。CF-730はこのAPUを機体尾部に搭載している。

 そのため正常に動作すれば、エンジンを再び動かすために必要なエネルギーも得られるのだ。


 しかし、エンジン停止状態から始動するため時間がかかる。その間はパイロットにできることはなく、機体は地面に向かって落下する。

 またAPUも航空燃料を消費して発電するエンジンである。故に、もしエンジン停止の原因が燃料切れだった場合、APUも始動しない。その場合、燃料不足の警告が鳴るはずだが、今回はなかった。機器の故障でなければAPUは作動するはずである。


 APUが無事作動してくれるまでの時間、エドワードにとってそれは無限のように感じられた。


 そしてしばらく経った後、客室内、操縦席内の照明、計器類が復活する。

 燃料は十分あるという意味でもあった。


「APU、作動確認」


 計器類が正常に動作していることを確認して、アランは安堵の笑みを浮かべながらそう報告した。


「だがエンジンはまだ停止したままだ」


 APUはあくまで緊急用の発電機であり、推力を確保するためにはない。

 そのエネルギーを使ってエンジンを再始動できなければ、結局のところ機体は降下し続けるしかない。


 エンジンの再始動には、機種によって手順が異なる。


「アラン、手順書マニュアルを頼む」

「わかった」


 操縦席に常備されている手順書に従い、エンジン再始動のプロセスを開始する。


「……まず、スラストレバーを0の位置に戻します」


 CF-730の場合、まずエンジン出力を操作するスラストレバーを元の位置、つまり出力0の位置に戻して30秒以上待つのが最初の手順であった。


 APU再始動まで時間がかかり、エンジン再始動のためにさらに時間を食われる。

 その間、110便は無動力状態のグライダーであり、さらに落下していた。高度は5000ftを切る。


 時間は貴重であり、多くの事を同時にこなさなければ落ちる。エドワードはできるだけのすることにした。


「私が操縦する。ジョンはウッドメア空港に連絡、滑走路への誘導を求めてくれ。――I have」

「You have. ――管制塔に連絡します」


 APUのおかげで、無線は再び使用可能となっている。

 またトランスポンダも復活しており、管制塔のレーダーには再びNSA110便の機影が映っているはずだ。しかし、管制官は事の事態を掌握していない。


 両エンジン停止という、誰が見ても緊急の事態に、副操縦士はその危機を明確に伝える符号を無線機に向かって叫んだ。


<MAYDAY、MAYDAY、MAYDAY。こちらNSA110、NSA110、NSA110。MAYDAY、NSA110。現在嵐の中、エンジン停止! 両エンジン停止です! 降下率、毎分1500ft、緊急着陸許可を要請、滑走路への誘導を。乗員乗客58名。MAYDAY、NSA110。オーバー>


 MAYDAYメーデー。緊急事態を知らせる符号である。

 もしこの符号が発せられた場合、交信中の無線周波数はメーデーを発信した航空機が独占する。管制塔は消防隊や救急隊に連絡し非常時に備え、メーデーを受信した管制官もそれに付きっきりになる。


 管制官の仕事は早く、すぐに管制塔にいた同僚や上司を呼び対応した。


<了解、NSA110。両エンジン停止を把握した>


 メーデー受信時、管制官のする仕事は最寄りの滑走路に当該航空機を可能な限り早く降ろすことにある。NSA110便の近くにある空港は管制官のいるウッドメア空港、そしてウッドメアより近くにあるアメリカ海軍スプリングヒル航空基地だった。


<NSA110、方位280へ左旋回。海軍スプリングヒル基地21R滑走路へ誘導する>

<管制塔、NSA110了解。方位280へ左旋回。基地までの距離は?>

<NSA110、管制塔。スプリングヒル21R滑走路までは17マイル、ウッドメア35L滑走路までは20マイル>


 管制官からの情報に、アランは計算した。

 降下率と滑走路までの距離から、現状の高度から無動力で着陸できるかを。しかしそれは、計算するまでもないことだった。


「エドワード、エンジンが再始動しなければどちらにも到達できないぞ」

「……」


 滑走路に降りられない。航空機にとっては最悪の事態であった。

 苦悶の表情を浮かべるエドワードとアランの横で、副操縦士のジョンはカウントを続けていた。


「28……29……30秒経ちました」

「よし、エンジン点火!」


 30秒経って、右エンジンの点火ボタンを押した。これでエンジンが再始動しなければ、NSA110便の命運は決まったも同然である。

 しかし、そうはならなかった。機内に、いつもの音が戻ってきたのである。


 いつもは煩わしく思うあの五月蠅いエンジンの音を。

 そしてエンジンが始動する音と共に、エドワードらの目の前にあるエンジン出力計の針が動いていた。


「――出力上げ、加速」


 この時高度1500ft。ニューヨーク、エンパイアステートビルの高さまで落下していたNSA110の右エンジンはようやく息を吹き返した。


「右エンジン再始動確認。左エンジンも試そう。それと、管制塔に連絡を」


 安堵の息が、3人から漏れる。


<ウッドメア管制塔、こちらNSA110。右エンジン再始動、ウッドメアへ誘導してくれ>


 ジョンの報告を聞いた管制官も、パイロットと同じように安堵の息を漏らした。その息は無線機越しにジョンらにも届いた。


<NSA110了解。ウッドメア空港滑走路35Lへ誘導する。方位290へ旋回し、雷雲を回避してください>

<管制塔、NSA110了解。方位290へ旋回、雷雲を回避。誘導に感謝します>


 両エンジンが回復し、エンジン出力が戻る。速度と高度を確保できればウッドメア空港へ安全に着陸できるはずだった。


 だがこの時、エドワードはあることに気付いた。


「おかしい」


 スラストレバーと操縦桿を操作し、管制塔の指示した方位に機体を動かそうとしていたときである。


「――推力が出ない」

「……えっ?」


 エンジンが回復し、出力が戻った。なのになぜか推力が発生しないのである。

 自動車で例えるのであれば、エンジンが動きタイヤが回転しているのになぜか車が前に進まないということである。


 どう考えてもおかしいその出来事に、パイロットは混乱する。

 そしてその時、操縦席にけたたましい音が鳴り響く。


「火災警報! 両エンジンから火災! オーバーヒートしています!」 

「なに!?」

「火災遮断機作動!」


 エンジン火災。出力が戻り安堵していたパイロットに、追い打ちをかける事態だった。

 エンジンの火災は深刻である。もしそのまま放置すれば、火が機体内蔵の燃料タンクに回って爆発する危険がある。

 それを防ぐためには、エンジンを緊急停止しなければなず、そしてそれはパイロットが最もやりたくない操作であった。


 その最もやりたくない仕事を、パイロットではないアランが行った。


「自動消火器作動、両エンジン停止確認。エンジン出力0」

「……クソッ」


 せっかく戻ったエンジン出力をまた失った。その事態に、ジョンは悪態をつくしかなかった。しかも先程とは違い、エンジン再始動という希望が完全になくなった状態であった。


 高度は一時的にエンジンが動いたため上がってはいたものの、それでも3000ftを切っていた。誰がどう考えても、空港や基地までたどり着けないとわかった。


<管制塔、こちらNSA110。両エンジンから出火し停止! 推力0です!>

<NSA110。方位350、距離11マイルにウィルボット空港がある。そちらに誘導を――>

<無理だ。現在高度3000ft、降下中! 緊急事態を宣言!>


 NSA110便は、再び緊急事態を宣言する。


 選択の余地はなかった。

 幸い、雷雲を回避したおかげで視界は晴れてきた。滑走路以外の着陸場所を探す余裕はある程度あった。しかし現在高度3000ftで降下率は毎分1500ft。すぐに着陸場所を決めなければ、NSA110便は墜落する。


「どこかに、降りられる場所はあるか?」

「探しています。ですがこれでは……」


 ウッドメア空港周辺は湿地帯にあり、運河と川と、洪水を防ぐ人口堤防に囲まれており、縫うように住宅街が広がっている。中型旅客機が降りられそうな場所などなかった。


<管制塔、着陸できそうな場所はあるか?>


 ウッドメアの管制官は地図を引っ張り出し、着陸場所を探す。

 CF-730型機の着陸滑走距離は1800メートル。1800メートルにわたって平坦で、周囲に何もなく安全に着陸できる場所などそう多くもなく、NSA110便が着陸できる場所となるともっと少なかった。


<NSA110。地上目標は確認できますか?>

<見える>

<12時の方向、7マイル先に幹線道路ハイウェイがあります>

<わかった。確認する>


 道路への着陸というのは、最終手段である。

 確かに幹線道路ともなれば、幅も広く真っ直ぐであることも多い。しかし道路には当然、標識や信号があり、さらには道を走る自動車が多くいる。近隣には民家もあり、着陸は不可能だった。

 着陸したとしても、多くの人間を巻き込むことになる。


幹線道路ハイウェイへの着陸は不可能だ>


 エドワードはそう言うと、覚悟を決めた。


<……着水する>


 不時着水。それは、通常の旅客機では最も危険な不時着である。

 着水することを前提に設計された飛行艇でさえ、着水は危険な行為なのだから。


 水というのは、一見すれば衝撃を吸収してくれるように見える。だが航空機のように、速度が速く、高空から落下する重量物である場合だと、水はコンクリートと同じくらい固いものとなる。


 機体を水面に対して水平にし、着水直前に機首角度を適切に傾ける。


 もし期待が水面に対して左右どちらかに傾いていたり、機首角度が足りなかったら、水に攫われて機体のバランスが崩れ、横転し、バラバラになる。


 その顕著な例が、エチオピア航空961便ハイジャック事件である。


 1996年、エチオピア航空961便がハイジャックされ、ハイジャック犯は燃料がないという機長の言葉を信じず、オーストラリアへ行けと命令した。実際に燃料はなく、961便はインド洋で本当に燃料切れを起こした。

 インド洋で着水を試みた機長であったが、機体は左に10度傾いた状態で着水することになり、左翼が水に攫われて横転、機体が分解し死者123名を出した。


 着水は危険であると、エドワードもジョンもアランも知っている。

 だが、それ以外に選択肢はなかった。


「――あそこの運河に着水しよう」


 乗客乗員合わせて58名の運命は、エドワード・ミカサ機長の両腕にかかっていた。


 それと同じくして、ウッドメア空港管制塔は慌ただしくなった。

 NSA110便が不時着水するとなれば、すぐに救助活動ができるよう万全の状態にしておかなければならない。管制官は受話器を取ると、すぐに通報した。


「ウッドメア管制塔です。緊急事態発生、CF-730型機が不時着しようとしています。乗員乗客合わせて58名、至急消防隊と救急隊を。位置は――」


 さらに管制官は、別の航空機に対して無線を開く。

 NSA110便が低空飛行をしているため、管制塔のレーダーからは既に110便が消えていたからである。


<ERA26、ウッドメア管制塔。東から3マイルの地点を確認してください。CF-730型機をロストしました。確認したら報告を>

<ウッドメア管制塔、ERA26了解。やってみる>


 管制官は、それ以上なにもできなかった。

 ただ、自分の信じる神に祈るしか、なにもできなかった。



 NSA110便は、既に高度1500ftを切っていた。1分ももたない。

 その中でエドワードは、前方にある運河への着水に備えていた。できるだけ水平に、徐々に高度を下げていた。


 だがその時、副操縦士のジョンが何かに気付いた。


「エドワード、あそこを。2時方向!」


 ジョンが指差したのは、運河に並行してあった堤防だった。

 エドワードらの目には十分な長さがあるように見えた。だが当然、舗装はされていない。


「……草地に着陸できるのか?」

「着水よりはマシだ。やってみせるさ!」


 機体は、どんどん降下する。

 高度1000ftを切り、対地接近警報が鳴り響く。煩わしいことこの上ないが、警報を解除する時間もない。


「着陸態勢に入る。降着装置を下ろせ」

「了解。ギアダウン」

高揚力装置フラップを2に」


 エドワードの指示に従い、ジョンは着陸手順を進める。


 だが問題があった。堤防は、運河の右側にあったのである。しかしNSA110便はまだ、運河に向かって降下していた。

 堤防へ不時着するためには針路を変えなければならないが、この時110便は堤防に近すぎた。


「このままでは無理だエドワード。堤防を通り過ぎる可能性がある」

「わかってる。……スリップをやる」


 アランの問いにエドワードはそう答えた。その脇で、ジョンは一瞬自分の耳を疑った。


 スリップとは、航空機動の一種である。


 通常の旋回では主翼の補助翼と尾翼の方向舵を同じ方向に(右旋回ならそれぞれを右に、左旋回ならそれぞれを左に)切る。

 しかしスリップは、補助翼と方向舵をそれぞれ反対に操作する機動である。今回の場合だと、機体を右に傾けながら、方向舵は左に切るのである。


 そうすることで、機体は滑るような機動を描く。

 機体は右にある堤防に滑るように着陸コースに入る。そして空力的な抵抗力が増え、不時着時における最適な速度まで落ちる。


 しかしこれは、本来は小型の軽飛行機や戦闘機等で行われる機動であり、CF-730型機のような中型旅客機が行うには不向きな機動である。

 それでも、エドワードはそれしかないと考え、機体をスリップさせた。


 機体は右に傾き、滑るように着陸コースに乗る。エドワードは土壇場で、しかもエンジン推力0でやり直しの利かない状況でそれをやってのけた。


「よーし……いい子だ。客室準備」


 エドワードは客室乗務員に連絡し、乗客に対応させる。残り50秒。乗務員は手順に従い、乗客に手短に説明する。


「膝を抱えて、頭を足の間に下げて。靴を脱いで、アクセサリーを外してください!」


 不時着時の衝撃で怪我をするおそれがあるため、そのような指示を出す。当然、シートベルトは締める。着水の場合は救命胴衣を身に着け、空気はまだ入れない。

 不時着の準備をしつつ、乗客は、乗務員は、そしてパイロットは眼下に広がる草地を見る。


 高度700――500――


 堤防の前には、10メートルほどの高い壁。


 それを通り過ぎると、やや右に傾いたぬかるんだ堤防。


 エンジンは動かず、着陸距離を短くする逆噴射が使えない。


 沼地でも機体をコントロールできるようにするため、ブレーキも使わない。


 左目に障害があるエドワードは、堤防の奥行きが掴めない。


 不時着するのに十分な長さは、ないかもしれない。


「――父さん!」


 エドワードは、ここにはいない父に向かって叫んだ。

 祈りか、遺言かはわからない。


 ただ、叫んだ。


「エドワード、左に勾配」


 ジョンは、左目の見えないエドワードに注意を促す。


「――――大丈夫、見える!」


 そしてエドワードは、見えないはずの左目で、それを確認した。


 高度100ftを切り、けたたましく警報が鳴り続ける。


着陸する(タッチダウン)!」


 エドワードが叫んだ瞬間、機体に大きな衝撃が走る。


 最初は左の主脚、次に右の主脚、そして最期に前輪。降着装置ギアからウッドメアの草地の感触を伝えてくる。

 揺れる機体の中で、エドワードは操縦桿から手を離さず、必死に機体をコントロールした。


 地面との摩擦で、機体は徐々に速度を落とし、


 そして堤防が終わる直前で、機体は完全に停止した。



 停止の瞬間は、とても静かだった。

 乗客も乗員も、信じられない出来事を体験したために、唖然としていた。そして半秒経って、歓声があがった。


「……やったな、エドワード。100点だよ」


 エドワードの後ろから、教官らしい声がした。


「ありがとうございます、教官殿」


 皆、笑って答えた。


<ウッドメア管制、こちらERA26。NSA110便を目視で確認、機体に損傷なし>

<ERA26、ウッドメア管制了解。ありがとう>


 乗員乗客58名、全員無事。負傷者0。

 両エンジン停止と言う極限状態を経験したのに、被害はほぼ0だったというのは奇蹟だった。




---




 事故の原因は、嵐だった。

 嵐の中を、CF-730型機は飛んでいた。


 嵐の中を飛ぶことは、稀であるがありえない事態ではない。NSA110便以前にも似たような事故があったため、対策されていたのである。

 雨や雹をエンジンが吸い込んでも大丈夫なように、エンジンは設計されているし、テストもされている。


 だが問題は、出力が高い状態でテストされていたということだった。


 エンジン出力を絞った状態では、雨や雹がエンジン内で溜まってしまい、水で溢れてしまうことが調査の結果判明した。水で溢れたエンジンは、燃料の燃焼を持続できずに沈黙してしまった。


 実際NSA110便も、事故当時着陸進入を開始し始めていた。着陸進入の為に高度を落とす。その際、通常の手順ではエンジン出力を絞るのである。そこに大量の水が入り込み、エンジンが止まった。


 つまり、設計時は想定外だったのである。


 エンジン再始動後にオーバーヒートした理由も判明した。「ホットスタート」である。

 エンジンを正常に動作させるためにはジェット燃料と冷却用空気が適切な比率でなければならない。しかしこの時、エンジンは正常ではなく、エンジン内は燃料で溢れていた。そのため温度が上がりすぎており、そしてその状態でエンジンを動かすと異常に熱くなり……オーバーヒートを起こす。


 結果、エンジンは溶けてしまった。火災が起き、二度と動かなくなってしまったのである。


 これを防ぐために、機長は予めエンジン内燃料を投棄しなければならないのだが……両エンジン停止状態で既に高度がなかったことを考慮すると、そんな暇はないだろう、という結論に至った。




 調査によって、最新鋭CF-730型機には新たな欠陥が見つかった。

 製造元はエンジンの改修を実施、それによってCF-730型機の信頼性は更に向上した。


 そして今日も、CF-730型機は過去に起きた事故を教訓に、世界中の空を飛んでいる。

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― 新着の感想 ―
[良い点] フィクションじゃないのかよ、騙された!
[一言] FND!! 不時着機が飛んで帰るのとても好き
[良い点] 面白かった [一言] F N D ! フィクダマ! ん
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