ーーーただ走れ
彼女が瞼を閉ざすのが見えた。
…やめろ。それは絶対に、現実にしてはならない。
全速力で雨の中を駆ける。
雷を帯びた彼の速度は音にも勝る勢いで、さながらそれは一筋の光。
走りながらに、手にした杖に魔力を捧げる。
次の瞬間…彼の体を、白い謎の、布に似た何かが覆いだし…1度彼の体を締め付けると、彼の姿を消した。
そして其処に、彼の代わりに現れたのは…銀と金の髪を長いツインテールにした少女。その瞳には、規則正しく円を描くように動く、機械仕掛けの動く針…。
彼女の瞳は、時計になっていた。
…彼があの世界で手に入れたのは“変化の杖”。後日その経緯、少女の辿った歴史について語るが、今は省略する。
その杖が持つ力は…少女とバトンタッチする力。
そしてその少女が持つ力は…。
勢いそのままに交代した為、なんとかフィーリアの元へノーブレーキで辿り着く。
そして魔力を集中…瞳の時計の針が加速していき、内に込められた魔力が溢れ出す。
すると少女の背には大きな…長さの違う不恰好な翼が広げられた。
いや、正確には…魔力を翼にも回したことで、姿を顕現させたようだ。
そして頭上には薄ぼんやりとした、光の輪っかが浮かび上がる。
そう、少女は…別の世界では“天使”と呼ばれる種族だった。
「……。」
もう必要は無いらしく杖を横に置き、体から溢れる光をフィーリアへ放ち、包み込ませる。
その魔法は間違いなく、最上位の治療だ。
…然しそれは、モノの傷は治せない。…死んだ者は、蘇らせられない。
彼の体の主導権は現在少女に移っている。
彼は意志だけの体で、祈ることしかできない。
…そして、フィーリアは目を開けた。
ーーー
彼女の傷が塞がっていく。光は彼女を包み込み…傷跡を一切残さず、まるで時間が巻き戻ったかのように…完全に元の姿へと戻した。
その大き過ぎる奇跡は…彼の心臓を大きく飛びあがらせた。
役目は終わったと少女が体の主権を明け渡し、彼の意識が世界へ出で来た。
横に転がった杖に光が戻っていく。それを“何処か”へしまった。
雨の為、傘の投影も忘れずに。
…ゆっくりとフィーリアの瞼が上がった。
ーーー。
視えた。
その世界では…彼女は目を覚まさなかった。
だがこの世界では…生きている。
「ます、たぁ…?あれ?私、は…」
彼女の声が、ヒビの入った心に届く。
それはそのヒビを塞ぎ…灰色のハートは色を取り戻す。
その瞬間に彼の赤黒の雷は消え失せた。
体を起き上がらせ周りを見渡す少女は、状況を察したらしい。
黙ったままの彼へ身を前に出し、瞳を覗き込もうとした。
「つぅ……おまえぇ…!」
憎らしそうに、しかして泣きそうに声を絞り出すと、無我夢中で少女を両腕の内に閉じ込めた。
「ま、マスター!?」
「なんで、来たんだっ…!いい加減にしてくれ…!どうして、そうやって…!」
怒りその他諸々の激情にに身を任せ、持つ限りの力で少女の小さな体を締め付ける。
「…マスター?怒って、ます…よね」
「…ぁあ。当たり前だ。…いいか。今後2度と…捨て身の行動は許さない。誰かが死ぬことになってもお前だけは死ぬな。…頼む」
…彼から見て、彼女は最初から怪我を承知で敵の元へ飛び込んだように見えた。
治療の魔法さえあれば、怪我なんて大したことじゃない。
故に、あの世界での戦士の戦い方としては間違っていないのかもしれないが…彼は少なくとも彼女には、それをして欲しくなかった。
フィーリアは、自身を締め付ける仁の腕が震えだしていることに気付いた。
…余程、無理をしたのだろう。
或いは…それだけ心を震わせてくれているのか。
どうあれ、自分の為に、心と体を必死に動かし続けたことだけは解っていた。
「…ごめん、なさい。もう…きっとしません」
「きっとじゃだめだ。絶対だ。約束しろ」
耳と視線を垂れながらそう心から謝るが、仁はそれでは許さない。
「しなかったら…」
「しなかったら…?」
互いの顔が見えるように少し距離を取る。ジッと真っ直ぐ彼女を見据え…
「…嫌いになる。それだけだ」
喉に溜まったその、捻り曲がった“嫌い”という感情をぶつけた。
改めて言葉に出して出されて、冷たいものが伝った気がした。
「ご、ごめんなさいっ、マスター…っ!」
それを聞いた途端に怯えた様子で、しがみつくように彼に縋り寄る。
目と目が合う。
瞳の奥、心の内、そこには“何か”があった。
もう一度、きつくフィーリアを抱き締める。
泣きそうな、怯えた小動物…それを安心させるように。
生きている、その実感を求めて。
「今は…まだ、好きだ。けど…俺の心は、弱い。ある程度はすぐ好きになって、そして何かですぐ嫌いになる」
それが本当のことか否か、彼自身解らない。
左手で抱き締めながら傘を持ち、右手でフィーリアの濡れた髪を撫でる。やがてそれだけでは足りなくなり、頬と頬をピタリと合わせて、その温かみに触れていた。
…ある程度以上ずっと共に在れば、そんな好き嫌いの概念は越えられる。
そのことを、フィーリアはまだ知らない。
「…そういえば、急に赤黒い電気が身体から出てきたんだが…知らないか?」
二人、傘をさして家までの帰路を行く。
「私達の世界での仁様は、そのような力は持っていませんでしたが…そういえば、気になることを仰っていたのを覚えています」
『白くなる…それだけじゃ足りない。もっと出せる。もっと燃やせる…そんな気がするんだ』
…とのこと。
恐らく“心の違い”があるからだ。
2人は同じ名前だが、その歩んだ歴史は違う。
なら“灰への適性”みたいなものも違うだろう。
「マスターのさっきの杖は…変化の杖、ですね?」
「知っているのか?」
「はい。私達の世界でずっと昔…とある王族の方が趣味で開いていた展示会で見たことがあります。自由に姿を変えられる唯一の魔道具ですよね?」
印象に残るその杖は、どうやら別の世界にも存在していたらしい。
だが…
「いや、違う。この杖は…中にいる天使と交代する力だ」
ある意味では変化でも間違いないのかもしれないが…体が変わるだけで無く、意識、心も交代する。
「…どうしてそうなっているのかは知りませんが、きっと別の世界だとそういう役割を果たしたのでしょう。…きっとその女の子にも物語があるはずでしょうから…聞いてみてはいかがですか?」
「ああ…その内そうするよ」
ふらふらの体に鞭を入れる。
とてつもない眠気が襲い、足は重かったが…帰らなければ。
のんびりと話しながら、二人でゆっくり家まで歩いた。
変化の杖について…
魔力を溜め込む必要がある。彼女は一種の魔法だから。
また、変化だけでなく、1人の天使として顕現させることもできるが、使う魔力量がかなり多くなる。
時計は正確な時刻を刻む。
最大変化時間は不明。また、魔力を使う行動をすると加速度的に制限時間が減る。
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家の扉を開ける。フィーリアが入るのを待って扉を閉め、靴を脱ぎ、居間へ。
途端に、帰って来たんだ…という実感が湧いてきた。
いつも通りの家。電気をつけると、夜の世界だろうとその空間は光に包まれる。
「ま、マスター…っ!」
わぁあ…!と瞳を輝かせ、三歩後ろにいたフィーリアが仁の背中に抱きついてきた。
「ど、どうした…?」
ふらふらの頭がその急な状況で叩き起こされる。後ろに首を回して、密着してきたフィーリアの見上げた瞳と目を合わせた。
「いえ、あの…嬉しくて。…マスター、気付いてないんですか?」
えへへ…とハッとして体を離したフィーリアが照れくさげに頬をかく。
彼女は小さな手鏡を投影し、それを彼に向けた。
「帰ってる最中から…少しずつ、髪が黒くなっていますよ?」
曇りのない鏡に、反転した自分の姿が映った。今の髪の色は…8割が黒、2割が白。染まり方は、今までの黒白を反転させたような感じ。
目は元の黒へ戻っていた。
「…本当だ…。これは…」
きっと…救えたからだ。
彼女の為に淵に辿り着き、彼女のお陰で素の近くへ戻った。
今日のことで説教の時間かと思ったが、それよりも…。
「えへへ…マスター、おめでとうございますっ!」
満面の笑みで祝福の言葉を掛けてくれたフィーリア。
その笑顔は部屋の電気よりも遥かに眩しい。
素直に喜んでいいのかは解らないが…
「ああ…ありがとう」
そう、今でも側に居てくれている少女に、取り敢えず礼を告げることにした。




