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ああ、そうか――俺はこのとき初めて彼女に同情したのだ。
世界最強、最高、最悪の魔術師を。この世の法則から逸脱した怪物を可哀想だと思ってしまったのだ。
「起きた? ゆきりん」
声は胸元から届いた。見れば俺の乳首を吸っている中学生がいる。
二人とも裸で、一昔前のドラマのようにやっちまった!
と頭を抱えるのもいいのだけれどもそんな心配はないので却下。至極冷めた頭で状況の確認を行う。
枕元に置かれたケータイを取ろうとして、左腕を失ったことを思いだした。
なので反転して壁掛けの電子カレンダーとその上の時計をチェック。俺の下で悲鳴を上げている真白を無視して起き上がる。
姿見に映る俺の身体には、包帯が不格好に巻かれていた。というか半分ミイラと化している。
「やっべ、クリスマスじゃん」
それも既に夜の十時だ。計算として二日近く眠ってしまったことになる。
昨日の刺客はどうなったのだろうか。考えるだけムダだろう。俺たちが生きている以上は、なんともなかったのだ。
今日が最後――これを過ぎたら真白を止める手段が消えてなくなってしまう。
焦燥がくたびれた身体を強制的に起き上がらせた。真白の寝室は綺麗に片付いていて、あの魔術師の残骸はなくなっている。
痛みが広がる左の二の腕を撫でながら適当に服を着て部屋をでる。
冷蔵庫を漁って腹の空白を埋めよう。長時間眠った所為か、それとも血を失い過ぎた所為なのかは判然としないが、頭がうまく回らない。
寒さと疼痛に苛まれながら辿り着いた台所には、トーストとコーヒーが用意されていた。真白だろうか、と振り向いた俺に最強の魔術師は微笑みかける。
「これからは真白がひとりで朝ご飯を作らなきゃダメになるでしょ? 練習してみました。もう冷めちゃってるけれど」
「……そっか」
今まで一度も台所に立とうとしなかった真白がコーヒーを淹れてくれた。親心の類だろうか、無性に泣きたくなってくる。
「あー、ゆきりん泣いてる。感動? 真白に感激した?」
俺の周りを走り回る真白。感傷的になっては駄目だと言い聞かせる。
私情を挟んではいけない。いやそれこそ真白を大切に想うのなら、ここで命を断つべきなのかもしれない。
今後、真白を理解してやれる人間なんて現れないだろうから。
「ゆきりん」
それは震えた、しかし芯の通った声だった。
「真白を殺さなくていいの?」
真白が小首を傾げる。小動物のような瞳が当惑する俺を映していた。
「ゆうきりんりんは、パパに依頼されて真白を殺す為にきたんでしょう?」
「人をアンパンマンみたいに言うな」
「ゆきりんはアンパンマンだよ。真白がお腹を空かせたら顔を千切ってくれるでしょう?」
「……そこまで身を削れないなぁ」
「そんなことないよ」
「そんなことあるし、俺は正義の味方なんて柄じゃない」
「ううん。真白がやろうとしていることは悪いことで、ゆきりんがやろうとしていることはいいことなんだって、本当は真白、わかってるよ」
「オマエがやろうとしていることって?」
「世界を作り変える。この世界から魔術なんてものを消し去って、支配構造を変える」
「デッケェ」
抑止力として在り続けると真白は言った。でもその在り方はあまりに……。
「その目的を達成する為には、多くの人を殺さなければならないんだ。でもそしたらきっとゆきりんは、この前みたいな顔をするから」
「だったらそんな計画をなくしちまえばいいだろ。俺と何処か遠くで、委員会から隠れながら住もうぜ」
「それプロポーズ?」
「違う……いや、そうなのかもしれない」
「嬉しい。でもダメだよ。真白はゆきりんが大好きだけれども、それと同じくらいこの世界が大嫌いなんだ」
頬を掻いてはにかむ真白はトーストを食いちぎるなり、踵を返して俺に背を向ける。
漆黒の髪の毛に埋め尽くされたその小さな背中は寂しげで、あの日の真白を思い出させる。
「タイムリミットは今日の十二時だよ。それで魔法は解ける。夢のような日々が終わる。よく考えたほうがいいよ」
あの日、あの晩、真白は一体何を思い、何を考えて、俺なんかの命を助けたのか。
未熟者と一心同体になるなんてタダの自殺行為だろうに――。
――真白を殺さなくていいの?
そうか、と思い至る。
真白は死のうとしているのだ。ガソリンを撒いて、火を放とうとしていた彼女の横顔が脳裏を過ぎる。
孤独故に孤高で、孤高故に孤独な魔術師は、死に焦がれている。
そうはさせるか。
真白の思い通りにことが運ぶなんて面白くない。俺は真白のワガママにうんざりしているのだ。
勝手に人を助けて、勝手に死のうとするなんて許せない。
御門真白は死ぬべきなのだと、俺の上司は言った。
確かにそうなのかもしれない。世界の為には、人類の為には、真白のような怪物はいない方がいいのだろう。
俺が正義の味方なら真白を殺すべきなのだと思う。
でも違う。俺は正義の味方なんかじゃあない。俺は御門真白の味方だ。
「どこに行くの?」
廊下を走る俺にかかったその声に後ろ手で応える。
「まだお遣いが済んでないだろ?」
なんてセカイ系な思考なのだろうとついつい苦笑してしまう。
飛び込んだ冬の冷気になくしたはずの左腕が疼く。
もう真白を抱きしめることはできなくなってしまったけれど、手を繋ぐくらいはできるはずだから。
孤独でも、孤高でもないということを教えてやれるはずだ。
山を下りるなり駅へと向かう。
この辺りのお店は二十一時には閉まってしまうので、真白のお遣いを完遂することができないのだ。
赤く滲んだ包帯の片手男はクリスマスには不釣合いなようで、幸福に浸っている連中から刺々しい目を向けられる。
人の輪にも入れず、魔術師からも疎まれる真白は、きっといつもこんな気分だったのだろう。
暖房の効いた車内に入る。
相変わらずの乗車率に辟易しながら三駅分の移動。カップルで賑わう夜の街に降り立つとちょうど白い結晶が降ってきた。
ホワイトクリスマスなんて寒いだけだろうに、はしゃいでいる子供が視界の端に映って思わず頬が緩んでしまう。
真白もこの雪を見ているだろうか。あの子供のようにはしゃいでいるのだろうか。
お目当てのショッピングモールの中央広場では、青色に煌めくクリスマスツリーが飾られていて、そんなイルミネーションをバックに、見知らぬ歌手がクリスマスソングを奏でている。
一階の食品売り場でありったけのプロ野球チップスを購入。
カートを押しながら二階の雑貨屋に足を運ぶ。
――道中、真白へのプレゼントは髪留めがいいと考えていた。
幽霊のような前髪を纏めれば、真白の可愛らしい顔がいつでも見られるようになるから。
少々値段は張るけれど、琥珀の髪留めを買ってラッピングをしてもらった。
帰り道は悲惨だった。
何せクリスマスにプロ野球チップスを箱買いである。
憐憫を多分に含んだ衆人環視に若干、心が折れそうになる。
馴染みの町に無事に戻れて、その安堵感と疲労に一つ息を吐く。
白く濁った吐息は溶けるように中空へと消えた。
血を失い過ぎているのだろう。
眩暈がする中、恒例の山登りを始める。時刻は既に二十三時を回っている。
急がないとクリスマスが終わってしまう。
愛を注文してきた真白に応えよう。
ポケットに突っ込んだ髪留めに心が温かくなっていく。魔術なんて捨てて、大学も中退して、二人で生きよう。
「随分と間抜けな顔をしているじゃねぇか」
そんな未来を踏みにじるような声がシンと冷える夜に響いた。
目の前の坂道には長いブロンドの髪を後ろで結った西洋人の青年。
ジーンズに黒いトレーナーというラフな出で立ちだけれど、彼が魔術師だというこは明白。要するに刺客。そして最後の。
目の前に現れるなんて馬鹿な野郎だ。
片手で抱えていたプロ野球チップスの箱を投げ捨てて、ケータイを素早く取り出す。もうこんな物に用はない。最後なのだから武器にする。
高速で伸ばして三十メートル先の男を叩く。
そんな一撃はけれども、男の身体に直撃した瞬間に粉々に砕け散る。
思わず飛び退いていた。
得体の知れない魔術――ではない。むしろ俺はあの魔術を知っている。
最後の一人に相応しい魔術師だ。草薙宮子は情け容赦なく、俺と真白を殺しにきている。
勝てるだろうか? あらゆる魔術と物理攻撃を無効にするあの男に。
そんな自問には哄笑で応える。
勝てる。俺の魔術ならばあの男の皮膚をも貫けるはずだ。
直接触れられれば、だが。
問題はどのように近づくかだ。
ともすれば最強の矛と最強の盾を持つあの男を相手に。
迂闊に踏み込めば一発でこの世から退場。オマケに俺は片腕を失っている。
無意識に右腕に巻きつけられた時計を見ていた。
現在時刻、二十三時五十分。
男が爆ぜるように疾走してくる。
傾斜を利用した速度は俺の認識に僅かなズレを生じさせた。足を捌いて横に重心を預けて――そんな回避の最中に男の指先が頬をかすめて俺の身体は十数メートル後方へと弾け飛ぶ。
坂道で後転を披露する大学生。
硬くなっているとはいえ、雪が降り積もっていたのが幸いした。回転に合わせて立ち上がり、身体の異常をチェック。
問題なしという結論をだしたのも束の間、右目が見えていないことに気が付いた。
右手を添えれば、粘着性の高い液体が手のひらに付着する。
「――あー……」
かすめただけで、顔の右側を幾らか持っていかれたらしい。
興奮と寒さのお陰で痛みは殆どないが、俺の予測が甘かったことを存分に思い知る一撃だった。
触れただけでヤバイのはこちらも一緒。
それどころかある程度の時間を要する俺と一瞬で片がつく彼とを比べる方が間違っていた。
となれば逃げるしかない。残り十分。
どうにかしてあの男から逃げる必要がある。十二時を回ったら特攻を決めて相討ちに持っていくか――そんな作戦を思いついた瞬間に、真白の泣き顔が瞼の裏側で再生される。
俺が死んで泣いてくれるとはやっぱり思えないけれども、俺が殺されたら真白は本当に一人ぼっちになってしまう。それは嫌だと思った。
相討ちなんて上等な手段ではなく、無様に逃げて逃げて逃げ延びるしかない。
殆ど角度のない崖を駆け上がって近道。
真白を連れて逃げなければ。俺一人が逃げたところで意味がない。
魔術が効かない以上は、真白にだって勝機はないのだ。
あの夜とは違って月光の届かない深い木々の中を走る。
背後にピッタリとついてくる男の呼吸に疲労の色は見えない。対する俺はといえば、既に疲れがピークに達している。
満身創痍で駆け回るには厳しい斜面と足許の雪。
それでも追い付かれたら待っているのは死であり、それは真白の命にも直結している。
当たり前のことを知らない真白に教えてやりたい。幸福や愛を。ああ、なんて臭いんだろう。どうにかしている。
本来なら守ってくれるはずの親から命を狙われる真白は、人間の温かさを知らない。
やたらとボディタッチが多いのはその反動なのだと思う。
誰からも愛されずに死んでいくなんて、そんなのは哀しすぎるから。寂しすぎるから。
愛が欲しいと言った真白に愛を届けるのだ。
ポケットの琥珀を握る。
その刹那、背後から受けた爆発するような衝撃に、意識が三秒飛んだ。
覚醒したとき、俺は空の中にいて、落ちて行く。
地面との衝突は思考の全てを持っていって、起き上がろうとする気力さえ霧散する。
死ぬのか――漠然と思う。走馬灯なんて物は流れないけれども、涙と共にこぼれてくるのは真白と過ごした日々で。
ああ、そうか。俺はこんなにも真白が好きだったのだ、と思い知らされる。
彼女と過ごした一年間は本当に、楽しかった。