第終章 北へ
――ぼくたちは、一人ずつ生まれて、一人ずつ「私」になった。
けれど夜の底では、みんな、同じ水に触れている。
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森は、朝の光をほとんど通さなかった。
イレーナは、三日のあいだ歩き続けていた。腹の傷は、レオンを包んでいた膜がすでに塞いでくれている。けれど、体の芯には鉛のような疲労が沈んでいて、一歩ごとに、腐葉土が足首まで柔らかく沈んだ。遠くで、名も知らぬ鳥が一声だけ鳴き、それきり黙った。
腕の中で、レオンは眠っているように見えた。
けれど、イレーナは知っていた。この子は眠らない。閉じた瞼の奥で、生まれたばかりの脳が、休むことなく世界を測り続けている。木々の間隔を、風の向きを、母の足取りの乱れを。
――お母さん。少し、休んだほうがいい。
「まだ、平気よ」
――嘘だ。心臓の音が、さっきより速い。
イレーナは、小さく笑った。この子に嘘はつけない。母の鼓動さえ、レオンには読めてしまう。
「……ずるい子ね」
――ごめんなさい。でも、心配なんだ。
その「心配」が、どこまでこの子自身のもので、どこからがイレーナ自身の不安の反射なのか、彼女にはもう分からなかった。二人の境界は、生まれる前から曖昧だった。今は、もっと。
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小さな沢のほとりで、イレーナは足を止めた。
冷たい水で顔を洗い、傷の上に張りついた土を落とす。水面が揺れて、やがて凪いだとき、そこに自分の顔が映った。
栗色の髪。痩せた頬。――けれど、瞳の奥に、見覚えのない光があった。
それは、彼女が一度も見たことのない戦場を映していた。山岳の稜線、燃える塔、灰の街。誰かが確かに見て、確かに覚えている、けれどイレーナのものではない光景。スライムが運んできた、死者たちの記憶の残響だった。
「これは……私の目じゃない」
呟いて、彼女は水面から目を逸らした。
背中の、肩甲骨のあいだ。そこに張りついた薄い膜が、呼吸に合わせてかすかに脈打っている。レオンとの絆であり、同時に、彼女がもう「ただのイレーナ」ではないことの証だった。
(私は、この子を産んだ。それとも、この子と一緒に、生まれ直したの?)
答えは、返ってこなかった。ただ、膜が、なだめるように一度、温かく波打った。
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日が高くなった頃、レオンが、ふいに言った。
――お母さん。ぼく、夢を見るとき、ひとりじゃないんだ。
「……どういう意味?」
イレーナは、抱いた腕に力を込めた。
――ぼくの夢の中に、知らない人たちがいる。ぼくと同じ、水に触れた人たち。みんな、ばらばらの場所にいて、お互いのことを知らない。でも、夜の底では、同じ水に触れているから――ぼくには、その人たちの夢が、少しだけ見えるんだ。
イレーナは、背筋が冷たくなるのを感じた。
この世界のどこかで、同じことが起きている。一人や二人ではなく。
――北の、雪の山に、片方の腕をなくして、それを取り戻した人がいる。その人は、鏡の中の自分が自分じゃないみたいで、ずっと、「自分は誰だ」って訊いてる。誰も答えてくれないのに。
(あの戦場の……あの子のような、スライムに?)
――記憶をたくさん抱えた女の子もいる。自分の記憶じゃない記憶を、宝物みたいに大事に持ってる。忘れられた人たちのことを、たったひとりで、覚えてあげている。
――男の人の言葉で話す女の子もいるよ。その子は、一度死んだのに、知らない体で目を覚ました。自分の名前を、まだ、選びかねてる。
レオンの声は、静かだった。けれど、その静けさが、かえってイレーナを震わせた。生後わずかな我が子が、遠い他人の孤独を、まるで自分のことのように語っている。
「……その人たちは、みんな」
――うん。ぼくたちと同じ。人でもあって、人じゃなくもある。一人ずつ、「自分は誰だろう」って、問いかけてる。誰にも聞こえない声で。
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風が変わった。
北から、湿った、雪の匂いのする風が吹き下りてきた。その風に乗って、ひどく遠くから、鐘の音が届いた。
一つ、二つ。低く、長く尾を引く音。
イレーナには、それが何の鐘なのか分からなかった。祈りの鐘か、弔いの鐘か。あるいは――誰かを狩り出すための、鐘か。
――お母さん。
レオンの声に、初めて、緊張のようなものが混じった。
――北のほうに、冷たい人たちがいる。祈りの言葉を持っているのに、心が凍っている人たち。その人たちは、ぼくらみたいなものを探してる。見つけて、消すために。
(大審問……)
イレーナは、その言葉を知らなかった。けれど、レオンの中の誰かが――スライムが吸い込んだ、名も知らぬ兵士の記憶の誰かが――その名を、恐れと共に知っていた。
――でも、その同じ北に、ぼくと同じ夜を見てる人たちもいるんだ。腕を取り戻したあの人も、たぶん、そっちにいる。
風は冷たく、行く手は険しい。追う者と、待つ者が、同じ方角にいる。
それでも、イレーナは、腕の中の子を抱き直した。
「じゃあ、行きましょうか」
――こわくないの?
「怖いわ。でも――」
イレーナは、初めて、はっきりと微笑んだ。それは、癒し手のイレーナの優しさと、彼女の中に根を張った誰かの静かな強さが、混ざり合った微笑みだった。
「あなたが一人じゃないなら、私も、一人じゃない。それに――あなたと同じ夜を見ている人たちが、この世界のどこかで、たった一人で震えているなら」
――会いに、行くの?
「ええ。だって私たちは、もう」
言葉が、途切れた。「家族」と言おうとして、その言葉が、あまりに小さすぎる気がしたからだ。母と子。人とスライム。生者と、死者の記憶。その全部を抱えた、まだ名前のない何か。
――ぼくたちは、もう、ぼくたちだけじゃない。
レオンが、母の言えなかった言葉を、そっと継いだ。
夜明けに村を捨てた母子は、今度は、朝の光の中を、北へ向かって歩き出した。二人の影は、一つでありながら二つ、二つでありながら一つの、不思議な形をして――そのうしろに、まだ会ったことのない幾つもの影を、静かに引き連れているようだった。
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