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怠惰な天才令嬢と公爵令息の餌付け婚約

作者: ぴょる
掲載日:2026/03/30

アルマ・ベルナー子爵令嬢は、怠惰である。

物心ついた頃……否、物心つく前から怠惰だった。


赤子は泣くものである。空腹でも、眠くても、不快でも。

しかしアルマは泣かなかった。

泣くのは疲れるからだ。疲れることはしたくない。

それがアルマの生後間もない時点での結論だったらしく、とにかく泣かなかった。


その代わり、ご飯と睡眠への執着は凄まじかった。

与えられた食事は残さず平らげ、満足したらすぐ寝た。起きたらまた食べ、また寝た。


このような赤ちゃんは見たことがない、と使用人談。


物心がついてからは、さらに怠惰に磨きがかかった。

読書よりも寝るほうがいい。

散歩よりも食べるほうがいい。

庭で遊ぶくらいなら、芝生に寝転がって空を眺めていたい。


活発とか勤勉とか向上心とか、そういった言葉はアルマの辞書には存在しなかった。

両親は、たいそう困惑した。


しかし子爵家の令嬢として、それなりの教育は必要である。

両親はそう判断し、家庭教師を雇った。

初日、家庭教師はアルマと向き合い、にこやかに言った。

「では始めましょうか、アルマお嬢様」


が、しかしアルマはすでに半目だった。

授業中、アルマは起きているのか寝ているのかわからない顔をしていた。返事はする。問いかけには答える。しかしその目はどこか遠くを見ており、おそらく夢の中の食卓あたりを眺めているのだろうと、教師は三日目に悟った。

たまに、完全に寝た。


困り果てた家庭教師がある日、ふと思いついて言った。

「アルマお嬢様、このテストで満点を取れたら、今日の授業はそこで終わりにしましょう」


その瞬間だった。

それまで虚ろだったアルマの目に、光が灯った。

爛々と、それはもう爛々と輝いた。

アルマはペンを取り、答案を埋めた。


満点だった。


家庭教師は口を開けたまま固まった。

アルマはすでにペンを置き、いそいそと立ち上がっていた。

「では、失礼します」

「あ、は、はい……お疲れ様でした」


自室のベッドに潜り込んだアルマは三秒で寝た。


それから幾度となく同じことが繰り返された。家庭教師の「終わりにしていい」という言葉が条件のときだけ、アルマは本気を出した。

条件がなければ寝た。


アルマは天才だった。


月日は流れ、アルマが王立アルデア学院への入学を検討される年齢になった。

が、アルマは当然拒否した。


学院は名門である。

国が運営する王立の学校であり、そこに子女を送り込むことはベルナー家にとって大きな意味を持つ。

将来の人脈、高度な教養、そして何より、アルマが将来困らないための礎になる。


学費は決して安くはないが、払えない額でもない。

何より、この娘の将来が心配だった。

このまま寝かせておくわけにはいかない。親心というものである。


しかしアルマは動じなかった。

行きたくない。寝ていたい。と譲らなかった。


とうとう父が咳払いをして、切り札を出した。

「学院の食堂は、うまいらしいぞ」


アルマの目が、変わった。

「……どのくらい、うまいの」

「王立だからな。食材も料理人も、一流を揃えていると聞く」

「…………」

アルマの喉が、動いた。


母が畳み掛けた。

「それに、成績上位者には奨学金が出るの。もし取れたら……浮いた学費の分は、食堂に使っていいわよ」

静寂。


アルマは、慌てて口元を拭い、居住まいを正し、両親を見た。

その目は爛々とした光をたたえていた。

「行く」


「奨学金も必ず取る。約束する」


こうしてアルマ・ベルナーは王立アルデア学院への入学を決意した。

動機は学食のみ。

以上。


---


入学式は滞りなく行われた。


新入生代表として壇上に立ち、祝辞を述べたのはレオン・ラングヴェルト公爵令息。

漆黒の髪に、切れ長の灰青の瞳。すらりとした長身に制服を纏った姿は、絵画から抜け出してきたかと見紛うほどだった。

公爵家の嫡男という家柄も相まって、講堂のご令嬢たちの視線は一身に彼へと集まっていた。頬を赤らめる者、扇で口元を隠しながら囁き合う者、うっとりと目を細める者。


ただし、一名だけ例外がいた。

アルマ・ベルナー子爵令嬢は、講堂のふかふかの椅子の上で大爆睡をかましていた。

入学式という人生の節目にも関わらず、安らかな寝息を立てていた。


平和な顔だった。


---


王立アルデア学院は、入学試験を課さない。

その代わり、入学後に学力を測るためのテストが行われる。

成績上位者には奨学金が与えられる、最初の関門だ。


入学者たちは真剣だった。ペンを走らせ、額に汗し、唇を噛んだ。一瞬たりとも気を抜けない。


……一名を除いて。


「君、試験中ですよ」


試験官の声が、静まり返った教室に小さく落ちた。小声という配慮はあった。しかし教室の静寂の中では十分すぎるほど響いた。


レオン・ラングヴェルト公爵令息は、視線だけを隣の席へ向けた。


机に突っ伏して、眠っている生徒がいた。


答案用紙の上に突っ伏しており、ペンは転がったままだった。穏やかな寝顔だった。

試験中であることを欠片も意識していないようだった。

試験官がそっと肩を揺すった。反応なし。

もう少し強く揺すった。わずかに身じろぎして、また沈んだ。


試験官は困惑した顔で周囲を見回し、それからやがて静かに自席へ戻った。


諦めたらしかった。


レオンは視線を答案用紙に戻しながら、内心で切り捨てた。


言語道断だ。


テストで寝るなど、もはや論外である。しかもこの序盤で、ということは端から解答する気がないということだ。そんな人間が王立学院に入学するなど、烏滸がましいにもほどがある。


一通り呆れてから、レオンは問題に集中した。


基礎を押さえた構成だが、ところどころに引っ掛けと応用が混じっている。ケアレスミスは許されない。時間の限り見直す。


教室にはペンの走る音だけが響いていた。

隣の席からは、かすかな寝息が聞こえていた。


---


数日後、レオン・ラングヴェルト公爵令息は驚愕していた。


廊下の掲示板の前に立ち、そこに張り出された順位表を見つめ、動けずにいた。


2位。レオン・ラングヴェルト。


視線を上へずらす。1位の欄に、見知らぬ名前があった。


アルマ・ベルナー。


「……誰だ」


思わず声が出た。聞いたことのない名前だった。どの家の令嬢だろうか。

レオンはもう一度、掲示板を見た。


1位。アルマ・ベルナー。

2位。レオン・ラングヴェルト。


冷静沈着を旨とする彼の眉が、かすかにひそめられた。


---


昼休みの廊下は、人の熱気で満ちていた。


レオン・ラングヴェルト公爵令息にとって、それは苦痛だった。

「レオン様、よろしければご一緒に」

「ラングヴェルト、少しよいか。うちの父が是非」


令嬢が寄ってくる。令息が近づいてくる。

誰もが笑顔で、誰もがレオンではなく公爵家を見ていた。

これは先が思いやられる。


レオンは愛想のかけらもない顔のまま人波をすり抜け、人気のない裏庭へ逃げ込んだ。

古い石畳に、手入れの行き届いた草木。人の声が遠くなる。ようやく息ができる気がした。

レオンは歩きながら、ふと足を止めた。

庭の奥、大きな木の根元に何かがある。


いや、誰かがいる。制服を着た生徒が、草の上に横たわっていた。


倒れているのか。

レオンは眉をひそめ、近づいた。

「おい」

声をかけた。返事がない。

「おい、大丈夫か」

もう一度。

返ってきたのは、あくびだった。

「……ん゛ぁ」

大きな、遠慮のないあくびだった。横たわっていた生徒がのそりと身を起こした。髪はぼさぼさで、制服のあちこちに葉っぱがついていた。気だるげな目がゆっくりとレオンを見上げた。


レオンはその顔に、見覚えがあった。

試験中。隣の席。答案用紙の上に突っ伏して、微動だにしなかったあの生徒。


「……君は」

「んー?」

気だるげな声だった。

「名前は」

「アルマ・ベルナー」

レオンは固まった。


アルマ・ベルナー。


掲示板の、1位の欄に書いてあった名前だ。

「……アルマ・ベルナー」

「うん、そうだけど。あなたは?」

「……レオン・ラングヴェルトだ」

「へー」

ひどく気のない反応だった。公爵家の名を聞いてそれだけか。

レオンは僅かに呆気に取られながら、それより先に確認しなければならないことがあった。

「君が……1位なのか」

「お、そうだったの? よし、奨学金ゲット」


あり得ない。

レオンの中で、何かが崩れる音がした。

何かの間違いではないか。同姓同名の別人では。

しかし目の前のこの令嬢は1位と聞いて少しも驚かなかった。

当然のことのように受け取った。


「……試験中、寝ていただろう」

「ちゃんと解いてから寝たよ」

即答だった。

「ほら、めっちゃ簡単だったじゃん?」

レオンは返す言葉を失った。


めっちゃ簡単。


確かに最高難度ではなかった。しかし基礎の上に引っ掛けと応用を重ねた、決して侮れない構成だったはずだ。レオン自身、見直しに相当の時間を割いた。それでも2位だった。

その試験を、この令嬢は解き終えて、眠った。

「…………」

言葉が出ないレオンの前で、アルマはのそりと立ち上がった。スカートを軽く払い、ついていた葉を一枚、二枚と落とす。それから空腹を思い出したように腹のあたりに手を当てて、

「そろそろ学食空いたかな」

呑気な独り言だった。

「……は?」

「1位記念にデザートもつけちゃおっと」

アルマはそう言って、ルンルンとした足取りで歩いていった。

葉っぱをまだ一枚、制服の背中につけたまま。

レオンはしばらくそこに立ち尽くしていた。


---


その次のテストでも、アルマは1位だった。

掲示板の前で、レオン・ラングヴェルトはわなわなと震えていた。


今回は完璧だったはずだ。

前日は夜通し復習し、当日は時間の許す限り見直しを重ねた。ケアレスミスはなかった。引っ掛けも全て見抜いた。

これ以上の答案はないと、自信を持って出した。


それでも2位だった。


いや。

レオンは己に言い聞かせる。

2位であること自体が不満なのではない。

もし1位の人間が、自分を上回る努力を重ねた人物であったなら、この結果にも納得ができた。

健闘を讃え、次は負けないと爽やかに宣言することもできただろう。


だが1位は、「あれ」だ。


授業中に居眠りをし、食堂では人の倍の量を平らげ、空き時間は裏庭で昼寝をしている、あの令嬢だ。


到底、納得がいかない。


しかし。

レオンは奥歯を噛んだ。認めざるを得ないことがある。彼女の頭脳は、本物だ。

先週の歴史の授業中、アルマは教科書を枕に舟を漕いでいた。教師が目ざとく見つけ、嫌味たっぷりに難問を投げかけた。教室中が固唾を飲んだ。

アルマはゆっくりと顔を上げ完璧に答えた。


教師は何も言えなかった。


さらに先日のレポート課題では、優秀者として教師から名前を呼ばれていた。

アルマは照れたように頬をかいて「いやぁ、それほどでも」とデレデレしていた。


あれだけ怠惰を極めた令嬢が、優秀者として紹介される光景。

レオンには理解が追いつかなかった。

「……化け物か」

掲示板の前で、思わず呟いた。


「誰が?」

背後から声がした。

振り返ると、アルマが立っていた。

アルマは順位表を見ると「お、今回も1位だ。」などと呟いている。

「で、誰が化け物?」

「……君に決まっているだろう」

「え、私?」

「授業中あれだけ堂々と寝ておいて、試験では当然のように1位を取る。他に何と呼べというんだ」


アルマはしばらくきょとんとしていたが、やがて頬に手を当てて、

「でへへ」

と笑った。


レオンは究極に呆れた。化け物と言われて照れる人間を、初めて見た。

「……全く理解できない」

「まあまあ。あ、今日の学食、新メニュー出るんだよね」

話が終わったとばかりに、アルマはくるりと踵を返した。

廊下の向こうへ歩いていく。その背中はどこまでも呑気で、レオンの苦悩など欠片も知らなかった。

レオンは掲示板に向き直った。


1位。アルマ・ベルナー。

2位。レオン・ラングヴェルト。


「……次は負けない」


---

王立アルデア学院の親睦パーティーは、年に一度開かれる。


大広間には色とりどりのドレスが花のように咲き乱れ、楽団の奏でる音楽が会場を満たしていた。令息たちは燕尾服に身を正め、令嬢たちは今日という日のために誂えた最上の一着を纏っていた。


その中心に、レオン・ラングヴェルトはいた。

本人は中心に居たいとは全く思わない

しかし自然と人が集まってくるのだ。


「レオン様、よろしければ次の一曲を」

「ラングヴェルト様、少しよろしいでしょうか」

令嬢たちが入れ替わり立ち替わり近づいてくる。

レオンは当たり障りのない返事を繰り返しながら、密かに出口を探していた。


そのとき、会場の扉が開いた。

一人の令嬢が入ってきた。

レオンの視線は、そこで止まった。


淡い金色のドレス。丁寧に結い上げられた髪に、細やかな細工の髪飾り。薄く施された化粧が、普段は気だるげな目元を柔らかく際立てていた。


アルマ・ベルナーだった。


いつもは制服のリボンが曲がっており、髪はぼさぼさで、化粧っ気など微塵もない。それがどうだ。同一人物とは到底思えなかった。


「……あれは」

レオンは思わず呟いた。


周囲の令嬢たちも気づいたらしく、ひそひそと囁き合う声が聞こえた。

「ベルナー子爵家の令嬢じゃない……?」

「いつもと全然違う……」

「でも所詮は子爵家でしょう」

最後の一言には棘があった。


アルマは会場をぐるりと見渡し、迷わず料理のテーブルへ向かった。ローストビーフの前で目を輝かせ、皿に盛り始めた。実に迷いなく、実に嬉しそうに。


レオンはそれを見て、何故か肩の力が抜けた。

レオンは静かに動いた。人垣をすり抜け、料理テーブルへと近づいた。


アルマはローストビーフを口に運び、幸福そうな顔をしていた。

「ベルナー」

「ん? あ、ラングヴェルト」

振り返ったアルマは、まだローストビーフを咀嚼していた。ドレスと全く釣り合わない状況だったが、本人は気にしていないようだった。

「一曲、踊ってほしい」

アルマは少し考えた。

「……ローストビーフ食べてからでいい?」

レオンは、吹き出した。

こらえようとしたが無理だった。こんなところで笑ったのはいつぶりだろうかと思った。


背後では令嬢たちが絶句していた。あのレオン・ラングヴェルトが笑った。しかも相手は、ローストビーフを食べながら返事をしたベルナー子爵令嬢だった。

「……ああ、構わない。ゆっくり食べろ」

レオンはそう言って、アルマの隣に並んだ。

令嬢たちは誰も近づいてこなかった。

アルマはもう一切れ、ローストビーフを皿に乗せた。


---


それから、月日が流れた。

テストでは相も変わらず、アルマ1位、レオン2位の図が繰り広げられた。レオンが夜通し準備しようと、抜け目なく見直しを重ねようと、結果は変わらなかった。


二人は度々、図書館で勉強会を開く仲になった。

といっても実態は、机に突っ伏して眠るアルマをレオンが叩き起こし、解法を問い質すというものだった。アルマは起こされるたびに「んあ」と唸り、それでも問われれば正確に答えた。眠そうな目のまま、淀みなく。レオンはその度に呆れ、感心し、また呆れた。


ある穏やかな午後のことだった。

裏庭の木陰に、見慣れた光景があった。アルマは草の上に大の字で寝転がり眠っていた。


レオンはその隣に立ち、少しの間黙って見下ろしてから言った。

「起きろ」

「……んぁ」

「起きろ、ベルナー」

「……もう少し」

「今すぐ起きろ」

アルマはのろのろと目を開け、眩しそうに空を見上げた。

「……なに。珍しい、用事?」

「ある」


レオンは隣に腰を下ろした。アルマが寝たまま首だけ傾けてこちらを見る。レオンは前を向いたまま、静かに言った。

「俺と婚約してほしい」


間があった。


「……めんどくさ」

予想通りの返事だった。レオンは内心で苦笑しながら、続けた。

「聞け。条件がある」

「……条件」

「我が家には一流のシェフがいる」

アルマの体が、ぴくりと動いた。

「公爵夫人といっても、基本的には何もしなくていい。社交の場には出てもらう。しかしそれ以外のことは、俺がやる」

「…………」

「つまり」レオンは一拍置いた。「好きなだけ寝ていていい」


アルマがゆっくりと起き上がった。髪に葉っぱをつけたまま、レオンを真っ直ぐに見た。その目に、あの光が灯っていた。試験で満点を取るときの、食堂で新メニューを見つけたときの、あの目だった。

「……一流のシェフ」

「ああ」

「好きなだけ食べていいの?」

「ああ」

「好きなだけ寝ていい?」

「好きなだけ」

「婚約する」

アルマはきっぱりと言った。

レオンは静かに息を吐いた。肩から力が抜けていくのがわかった。上手くいった。

アルマのことは、もう大体わかっているつもりだった。天才的な頭脳を持っていながら、その実を動かすのは食欲と睡眠欲だけ。単純で、純粋で、ある意味で誰より正直な人間だった。


だからこそ。

レオンはアルマの横顔を横目で見た。

条件で動かすのは簡単だった。しかしそれだけでは足りないと、レオンは思っていた。

食事でも、怠惰な生活でもなく。

ちゃんと、アルマ自身の心を落とさなければならない。


それがどれほど時間のかかることか、レオンにはまだわからなかった。

しかしアルマは今、草の上に戻って寝転がりながら「一流のシェフかぁ……」と幸福そうに呟いていた。

レオンはそれを見て、少しだけ笑った。

まあ、急ぐ必要はないか、と。

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