怠惰な天才令嬢と公爵令息の餌付け婚約
アルマ・ベルナー子爵令嬢は、怠惰である。
物心ついた頃……否、物心つく前から怠惰だった。
赤子は泣くものである。空腹でも、眠くても、不快でも。
しかしアルマは泣かなかった。
泣くのは疲れるからだ。疲れることはしたくない。
それがアルマの生後間もない時点での結論だったらしく、とにかく泣かなかった。
その代わり、ご飯と睡眠への執着は凄まじかった。
与えられた食事は残さず平らげ、満足したらすぐ寝た。起きたらまた食べ、また寝た。
このような赤ちゃんは見たことがない、と使用人談。
物心がついてからは、さらに怠惰に磨きがかかった。
読書よりも寝るほうがいい。
散歩よりも食べるほうがいい。
庭で遊ぶくらいなら、芝生に寝転がって空を眺めていたい。
活発とか勤勉とか向上心とか、そういった言葉はアルマの辞書には存在しなかった。
両親は、たいそう困惑した。
しかし子爵家の令嬢として、それなりの教育は必要である。
両親はそう判断し、家庭教師を雇った。
初日、家庭教師はアルマと向き合い、にこやかに言った。
「では始めましょうか、アルマお嬢様」
が、しかしアルマはすでに半目だった。
授業中、アルマは起きているのか寝ているのかわからない顔をしていた。返事はする。問いかけには答える。しかしその目はどこか遠くを見ており、おそらく夢の中の食卓あたりを眺めているのだろうと、教師は三日目に悟った。
たまに、完全に寝た。
困り果てた家庭教師がある日、ふと思いついて言った。
「アルマお嬢様、このテストで満点を取れたら、今日の授業はそこで終わりにしましょう」
その瞬間だった。
それまで虚ろだったアルマの目に、光が灯った。
爛々と、それはもう爛々と輝いた。
アルマはペンを取り、答案を埋めた。
満点だった。
家庭教師は口を開けたまま固まった。
アルマはすでにペンを置き、いそいそと立ち上がっていた。
「では、失礼します」
「あ、は、はい……お疲れ様でした」
自室のベッドに潜り込んだアルマは三秒で寝た。
それから幾度となく同じことが繰り返された。家庭教師の「終わりにしていい」という言葉が条件のときだけ、アルマは本気を出した。
条件がなければ寝た。
アルマは天才だった。
月日は流れ、アルマが王立アルデア学院への入学を検討される年齢になった。
が、アルマは当然拒否した。
学院は名門である。
国が運営する王立の学校であり、そこに子女を送り込むことはベルナー家にとって大きな意味を持つ。
将来の人脈、高度な教養、そして何より、アルマが将来困らないための礎になる。
学費は決して安くはないが、払えない額でもない。
何より、この娘の将来が心配だった。
このまま寝かせておくわけにはいかない。親心というものである。
しかしアルマは動じなかった。
行きたくない。寝ていたい。と譲らなかった。
とうとう父が咳払いをして、切り札を出した。
「学院の食堂は、うまいらしいぞ」
アルマの目が、変わった。
「……どのくらい、うまいの」
「王立だからな。食材も料理人も、一流を揃えていると聞く」
「…………」
アルマの喉が、動いた。
母が畳み掛けた。
「それに、成績上位者には奨学金が出るの。もし取れたら……浮いた学費の分は、食堂に使っていいわよ」
静寂。
アルマは、慌てて口元を拭い、居住まいを正し、両親を見た。
その目は爛々とした光をたたえていた。
「行く」
「奨学金も必ず取る。約束する」
こうしてアルマ・ベルナーは王立アルデア学院への入学を決意した。
動機は学食のみ。
以上。
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入学式は滞りなく行われた。
新入生代表として壇上に立ち、祝辞を述べたのはレオン・ラングヴェルト公爵令息。
漆黒の髪に、切れ長の灰青の瞳。すらりとした長身に制服を纏った姿は、絵画から抜け出してきたかと見紛うほどだった。
公爵家の嫡男という家柄も相まって、講堂のご令嬢たちの視線は一身に彼へと集まっていた。頬を赤らめる者、扇で口元を隠しながら囁き合う者、うっとりと目を細める者。
ただし、一名だけ例外がいた。
アルマ・ベルナー子爵令嬢は、講堂のふかふかの椅子の上で大爆睡をかましていた。
入学式という人生の節目にも関わらず、安らかな寝息を立てていた。
平和な顔だった。
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王立アルデア学院は、入学試験を課さない。
その代わり、入学後に学力を測るためのテストが行われる。
成績上位者には奨学金が与えられる、最初の関門だ。
入学者たちは真剣だった。ペンを走らせ、額に汗し、唇を噛んだ。一瞬たりとも気を抜けない。
……一名を除いて。
「君、試験中ですよ」
試験官の声が、静まり返った教室に小さく落ちた。小声という配慮はあった。しかし教室の静寂の中では十分すぎるほど響いた。
レオン・ラングヴェルト公爵令息は、視線だけを隣の席へ向けた。
机に突っ伏して、眠っている生徒がいた。
答案用紙の上に突っ伏しており、ペンは転がったままだった。穏やかな寝顔だった。
試験中であることを欠片も意識していないようだった。
試験官がそっと肩を揺すった。反応なし。
もう少し強く揺すった。わずかに身じろぎして、また沈んだ。
試験官は困惑した顔で周囲を見回し、それからやがて静かに自席へ戻った。
諦めたらしかった。
レオンは視線を答案用紙に戻しながら、内心で切り捨てた。
言語道断だ。
テストで寝るなど、もはや論外である。しかもこの序盤で、ということは端から解答する気がないということだ。そんな人間が王立学院に入学するなど、烏滸がましいにもほどがある。
一通り呆れてから、レオンは問題に集中した。
基礎を押さえた構成だが、ところどころに引っ掛けと応用が混じっている。ケアレスミスは許されない。時間の限り見直す。
教室にはペンの走る音だけが響いていた。
隣の席からは、かすかな寝息が聞こえていた。
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数日後、レオン・ラングヴェルト公爵令息は驚愕していた。
廊下の掲示板の前に立ち、そこに張り出された順位表を見つめ、動けずにいた。
2位。レオン・ラングヴェルト。
視線を上へずらす。1位の欄に、見知らぬ名前があった。
アルマ・ベルナー。
「……誰だ」
思わず声が出た。聞いたことのない名前だった。どの家の令嬢だろうか。
レオンはもう一度、掲示板を見た。
1位。アルマ・ベルナー。
2位。レオン・ラングヴェルト。
冷静沈着を旨とする彼の眉が、かすかにひそめられた。
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昼休みの廊下は、人の熱気で満ちていた。
レオン・ラングヴェルト公爵令息にとって、それは苦痛だった。
「レオン様、よろしければご一緒に」
「ラングヴェルト、少しよいか。うちの父が是非」
令嬢が寄ってくる。令息が近づいてくる。
誰もが笑顔で、誰もがレオンではなく公爵家を見ていた。
これは先が思いやられる。
レオンは愛想のかけらもない顔のまま人波をすり抜け、人気のない裏庭へ逃げ込んだ。
古い石畳に、手入れの行き届いた草木。人の声が遠くなる。ようやく息ができる気がした。
レオンは歩きながら、ふと足を止めた。
庭の奥、大きな木の根元に何かがある。
いや、誰かがいる。制服を着た生徒が、草の上に横たわっていた。
倒れているのか。
レオンは眉をひそめ、近づいた。
「おい」
声をかけた。返事がない。
「おい、大丈夫か」
もう一度。
返ってきたのは、あくびだった。
「……ん゛ぁ」
大きな、遠慮のないあくびだった。横たわっていた生徒がのそりと身を起こした。髪はぼさぼさで、制服のあちこちに葉っぱがついていた。気だるげな目がゆっくりとレオンを見上げた。
レオンはその顔に、見覚えがあった。
試験中。隣の席。答案用紙の上に突っ伏して、微動だにしなかったあの生徒。
「……君は」
「んー?」
気だるげな声だった。
「名前は」
「アルマ・ベルナー」
レオンは固まった。
アルマ・ベルナー。
掲示板の、1位の欄に書いてあった名前だ。
「……アルマ・ベルナー」
「うん、そうだけど。あなたは?」
「……レオン・ラングヴェルトだ」
「へー」
ひどく気のない反応だった。公爵家の名を聞いてそれだけか。
レオンは僅かに呆気に取られながら、それより先に確認しなければならないことがあった。
「君が……1位なのか」
「お、そうだったの? よし、奨学金ゲット」
あり得ない。
レオンの中で、何かが崩れる音がした。
何かの間違いではないか。同姓同名の別人では。
しかし目の前のこの令嬢は1位と聞いて少しも驚かなかった。
当然のことのように受け取った。
「……試験中、寝ていただろう」
「ちゃんと解いてから寝たよ」
即答だった。
「ほら、めっちゃ簡単だったじゃん?」
レオンは返す言葉を失った。
めっちゃ簡単。
確かに最高難度ではなかった。しかし基礎の上に引っ掛けと応用を重ねた、決して侮れない構成だったはずだ。レオン自身、見直しに相当の時間を割いた。それでも2位だった。
その試験を、この令嬢は解き終えて、眠った。
「…………」
言葉が出ないレオンの前で、アルマはのそりと立ち上がった。スカートを軽く払い、ついていた葉を一枚、二枚と落とす。それから空腹を思い出したように腹のあたりに手を当てて、
「そろそろ学食空いたかな」
呑気な独り言だった。
「……は?」
「1位記念にデザートもつけちゃおっと」
アルマはそう言って、ルンルンとした足取りで歩いていった。
葉っぱをまだ一枚、制服の背中につけたまま。
レオンはしばらくそこに立ち尽くしていた。
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その次のテストでも、アルマは1位だった。
掲示板の前で、レオン・ラングヴェルトはわなわなと震えていた。
今回は完璧だったはずだ。
前日は夜通し復習し、当日は時間の許す限り見直しを重ねた。ケアレスミスはなかった。引っ掛けも全て見抜いた。
これ以上の答案はないと、自信を持って出した。
それでも2位だった。
いや。
レオンは己に言い聞かせる。
2位であること自体が不満なのではない。
もし1位の人間が、自分を上回る努力を重ねた人物であったなら、この結果にも納得ができた。
健闘を讃え、次は負けないと爽やかに宣言することもできただろう。
だが1位は、「あれ」だ。
授業中に居眠りをし、食堂では人の倍の量を平らげ、空き時間は裏庭で昼寝をしている、あの令嬢だ。
到底、納得がいかない。
しかし。
レオンは奥歯を噛んだ。認めざるを得ないことがある。彼女の頭脳は、本物だ。
先週の歴史の授業中、アルマは教科書を枕に舟を漕いでいた。教師が目ざとく見つけ、嫌味たっぷりに難問を投げかけた。教室中が固唾を飲んだ。
アルマはゆっくりと顔を上げ完璧に答えた。
教師は何も言えなかった。
さらに先日のレポート課題では、優秀者として教師から名前を呼ばれていた。
アルマは照れたように頬をかいて「いやぁ、それほどでも」とデレデレしていた。
あれだけ怠惰を極めた令嬢が、優秀者として紹介される光景。
レオンには理解が追いつかなかった。
「……化け物か」
掲示板の前で、思わず呟いた。
「誰が?」
背後から声がした。
振り返ると、アルマが立っていた。
アルマは順位表を見ると「お、今回も1位だ。」などと呟いている。
「で、誰が化け物?」
「……君に決まっているだろう」
「え、私?」
「授業中あれだけ堂々と寝ておいて、試験では当然のように1位を取る。他に何と呼べというんだ」
アルマはしばらくきょとんとしていたが、やがて頬に手を当てて、
「でへへ」
と笑った。
レオンは究極に呆れた。化け物と言われて照れる人間を、初めて見た。
「……全く理解できない」
「まあまあ。あ、今日の学食、新メニュー出るんだよね」
話が終わったとばかりに、アルマはくるりと踵を返した。
廊下の向こうへ歩いていく。その背中はどこまでも呑気で、レオンの苦悩など欠片も知らなかった。
レオンは掲示板に向き直った。
1位。アルマ・ベルナー。
2位。レオン・ラングヴェルト。
「……次は負けない」
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王立アルデア学院の親睦パーティーは、年に一度開かれる。
大広間には色とりどりのドレスが花のように咲き乱れ、楽団の奏でる音楽が会場を満たしていた。令息たちは燕尾服に身を正め、令嬢たちは今日という日のために誂えた最上の一着を纏っていた。
その中心に、レオン・ラングヴェルトはいた。
本人は中心に居たいとは全く思わない
しかし自然と人が集まってくるのだ。
「レオン様、よろしければ次の一曲を」
「ラングヴェルト様、少しよろしいでしょうか」
令嬢たちが入れ替わり立ち替わり近づいてくる。
レオンは当たり障りのない返事を繰り返しながら、密かに出口を探していた。
そのとき、会場の扉が開いた。
一人の令嬢が入ってきた。
レオンの視線は、そこで止まった。
淡い金色のドレス。丁寧に結い上げられた髪に、細やかな細工の髪飾り。薄く施された化粧が、普段は気だるげな目元を柔らかく際立てていた。
アルマ・ベルナーだった。
いつもは制服のリボンが曲がっており、髪はぼさぼさで、化粧っ気など微塵もない。それがどうだ。同一人物とは到底思えなかった。
「……あれは」
レオンは思わず呟いた。
周囲の令嬢たちも気づいたらしく、ひそひそと囁き合う声が聞こえた。
「ベルナー子爵家の令嬢じゃない……?」
「いつもと全然違う……」
「でも所詮は子爵家でしょう」
最後の一言には棘があった。
アルマは会場をぐるりと見渡し、迷わず料理のテーブルへ向かった。ローストビーフの前で目を輝かせ、皿に盛り始めた。実に迷いなく、実に嬉しそうに。
レオンはそれを見て、何故か肩の力が抜けた。
レオンは静かに動いた。人垣をすり抜け、料理テーブルへと近づいた。
アルマはローストビーフを口に運び、幸福そうな顔をしていた。
「ベルナー」
「ん? あ、ラングヴェルト」
振り返ったアルマは、まだローストビーフを咀嚼していた。ドレスと全く釣り合わない状況だったが、本人は気にしていないようだった。
「一曲、踊ってほしい」
アルマは少し考えた。
「……ローストビーフ食べてからでいい?」
レオンは、吹き出した。
こらえようとしたが無理だった。こんなところで笑ったのはいつぶりだろうかと思った。
背後では令嬢たちが絶句していた。あのレオン・ラングヴェルトが笑った。しかも相手は、ローストビーフを食べながら返事をしたベルナー子爵令嬢だった。
「……ああ、構わない。ゆっくり食べろ」
レオンはそう言って、アルマの隣に並んだ。
令嬢たちは誰も近づいてこなかった。
アルマはもう一切れ、ローストビーフを皿に乗せた。
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それから、月日が流れた。
テストでは相も変わらず、アルマ1位、レオン2位の図が繰り広げられた。レオンが夜通し準備しようと、抜け目なく見直しを重ねようと、結果は変わらなかった。
二人は度々、図書館で勉強会を開く仲になった。
といっても実態は、机に突っ伏して眠るアルマをレオンが叩き起こし、解法を問い質すというものだった。アルマは起こされるたびに「んあ」と唸り、それでも問われれば正確に答えた。眠そうな目のまま、淀みなく。レオンはその度に呆れ、感心し、また呆れた。
ある穏やかな午後のことだった。
裏庭の木陰に、見慣れた光景があった。アルマは草の上に大の字で寝転がり眠っていた。
レオンはその隣に立ち、少しの間黙って見下ろしてから言った。
「起きろ」
「……んぁ」
「起きろ、ベルナー」
「……もう少し」
「今すぐ起きろ」
アルマはのろのろと目を開け、眩しそうに空を見上げた。
「……なに。珍しい、用事?」
「ある」
レオンは隣に腰を下ろした。アルマが寝たまま首だけ傾けてこちらを見る。レオンは前を向いたまま、静かに言った。
「俺と婚約してほしい」
間があった。
「……めんどくさ」
予想通りの返事だった。レオンは内心で苦笑しながら、続けた。
「聞け。条件がある」
「……条件」
「我が家には一流のシェフがいる」
アルマの体が、ぴくりと動いた。
「公爵夫人といっても、基本的には何もしなくていい。社交の場には出てもらう。しかしそれ以外のことは、俺がやる」
「…………」
「つまり」レオンは一拍置いた。「好きなだけ寝ていていい」
アルマがゆっくりと起き上がった。髪に葉っぱをつけたまま、レオンを真っ直ぐに見た。その目に、あの光が灯っていた。試験で満点を取るときの、食堂で新メニューを見つけたときの、あの目だった。
「……一流のシェフ」
「ああ」
「好きなだけ食べていいの?」
「ああ」
「好きなだけ寝ていい?」
「好きなだけ」
「婚約する」
アルマはきっぱりと言った。
レオンは静かに息を吐いた。肩から力が抜けていくのがわかった。上手くいった。
アルマのことは、もう大体わかっているつもりだった。天才的な頭脳を持っていながら、その実を動かすのは食欲と睡眠欲だけ。単純で、純粋で、ある意味で誰より正直な人間だった。
だからこそ。
レオンはアルマの横顔を横目で見た。
条件で動かすのは簡単だった。しかしそれだけでは足りないと、レオンは思っていた。
食事でも、怠惰な生活でもなく。
ちゃんと、アルマ自身の心を落とさなければならない。
それがどれほど時間のかかることか、レオンにはまだわからなかった。
しかしアルマは今、草の上に戻って寝転がりながら「一流のシェフかぁ……」と幸福そうに呟いていた。
レオンはそれを見て、少しだけ笑った。
まあ、急ぐ必要はないか、と。




