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子午線の下で―私の時間を見つける物語―  作者: 明石竜


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第六章 書き留める人

 翌朝、柚月はノートを一冊取り出した。

 無地の、使いかけのノートだった。祖母が家計簿に使っていたらしい、少し厚みのある紙。

 机に向かい、しばらくペンを持ったまま考える。

 何を書けばいいのか、分からない。

 けれど、昨夜の月は、確かにそこにあった。

 ページの上に、日付を書く。

 四月十二日。

 少しだけ迷ってから、その下に書いた。


 ・月(上弦に近い)

 ・クレーターの影が思ったより濃い

 ・双眼鏡より、輪郭がはっきりしていた


 文字は揃っていない。感想なのか記録なのかも曖昧だ。

 それでも、書き終えたとき、昨夜がちゃんと残った気がした。

 ノートを閉じる。

 ただ星を見るだけだった時間に、輪郭が生まれた。


           *


 数日後、夜空は薄い雲に覆われていた。

 それでも柚月は庭に出た。

 望遠鏡を組み立て、空を探す。

 月は雲の向こうに滲んでいる。木星も見つからない。

 何度か角度を変え、接眼レンズを覗き直す。

 

 見えない。


 焦りのようなものが、胸に浮かぶ。


 観望会で見た月は、あんなにも鮮明だったのに。

 しばらくして、柚月は手を止めた。

 空は、雲の動きに任せてゆっくりと流れている。

 見えない夜もある。

 望遠鏡を片付け、縁側に座る。


 しばらく、ただ暗い空を見上げた。

 部屋に戻り、ノートを開く。


 四月十五日。


 ・雲が多くて、何も見えなかった。

 ・望遠鏡の向きを変えすぎて、少し疲れた。

 ・でも、外に出た。


 書きながら、小さく笑った。

 見えなかったことも、記録になる。

 星がない夜も、ちゃんと夜だ。


           ☆


 観測は、少しずつ習慣になっていった。


 晴れた夜、柚月は庭に椅子を出す。

 望遠鏡を出す日もあれば、ただ双眼鏡を膝に置くだけの日もある。


 その夜は、望遠鏡を出さない夜だった。


 空は澄んでいる。

 街の灯りの向こうに、いくつかの星が見えていた。

 双眼鏡を手に取る前に、柚月はしばらく肉眼で空を見上げる。

 すると、視界の端で光が動いた。

「……あれ?」

 流れ星ではない。

 尾を引かない。

 点のまま、ゆっくりと空を横切っていく。

 飛行機とも違う。

 音がない。

 星の間を、一定の速さで進んでいく。

 柚月は立ち上がった。

 光は、空をまっすぐ横切っていく。

 やがて、住宅の屋根の向こうに消えた。


 しばらく、その空を見てから、呟く。

「……人工衛星かな」

 何百キロも上を、人が作ったものが飛んでいる。

 星とは違う。

 けれど、同じ空にある。

 空は、また静かになった。

 そのとき、東の空にひとつ、少しだけ色の違う星が見えた。


 白い星の中に、ひとつだけ混じった橙色の光。

 柚月は双眼鏡を持ち上げる。

 レンズの中で、その星は少しだけ大きくなる。


「……アークトゥルス」


 観望会で聞いた名前が、自然と口に出た。

 春の星。

 静かな光だった。


           ☆


 その数日後、柚月は望遠鏡を庭に出していた。

 木星を探す。

 明るい星をいくつか見つけては、望遠鏡を向ける。

 違う。

 もう一度、星図を確かめる。

 視界の中に、小さな円盤が現れた。


「……あ」


 点ではない。

 わずかに丸い。

 その横に、細い一直線の光が並んでいる。


 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 よっつ。


 柚月は、数え直した。

 ピントを少しだけ調整する。

 小さな木星の横に、四つの光が並んでいる。

 ガリレオ衛星。


 イオ。

 エウロパ。

 ガニメデ。

 カリスト。


 どれがどれかは分からない。

 でも確かに、そこにある。

 惑星のまわりを回る、小さな世界。


 柚月は、接眼レンズから目を離した。

 もう一度、覗く。

 光はまだそこに並んでいる。

「……本当に並んでる」


 ノートを開く。

 日付を書く。

 ・木星

 ・衛星四つ確認

 ・本当に並んでいた


           ☆


 さらに数日後、空はよく晴れていた。

 柚月は望遠鏡をゆっくり動かす。

 星図で見た位置に、少し黄色い光があった。

 ピントを合わせる。

 最初は、ただの点だった。

 つまみを少し回す。

 像が、わずかに広がる。


「……あ」


 点ではない。

 楕円の形をしている。

 そのまわりに、細い線がついていた。

 まるで、小さな飾りのように。

 柚月は、しばらく動かなかった。

 もう一度、ピントを合わせる。


 楕円の星。

 その周りを囲む、薄い輪。

「……輪、だ」

 土星。

 その輪が、望遠鏡の中に浮かんでいる。

 教科書でも、写真でも見たことはある。

 それでも。

 この小さな望遠鏡で見る土星は、まったく別のものだった。

 何億キロも離れた惑星が、

 庭の望遠鏡の中に収まっている。


 柚月は、ゆっくり息を吐いた。


 ノートを開く。


 ・土星

 ・輪、確認


 少しだけ迷って、もう一行書き足す。

 ・思っていたより、きれい。


 箇条書きは、感情よりも事実が多い。

 それでも、その日の空気や気持ちは、文字の隙間に残っている。

 書くことで、夜が自分のものになる気がした。

 

 ノートを閉じる。 

 時間は流れていく。

 けれど、ノートの中では、立ち止まる。

 

 柚月は空を見上げた。

 庭の上の空は、思っていたよりも広かった。


           ☆


 それから数日後、天文科学館で星野さんにノートを見せた。

 ページをめくる指先は静かだった。

「ちゃんと見てますね」

 評価というより、確認だった。

「ここ、いいです」

 星野さんが指さしたのは、“でも、外に出た”の一行だった。

「見えなかった夜も、書いてるんですね」

「……見えなかったことも、覚えておきたくて」


 星野さんは、小さく頷いた。

「研究ノートみたいです」

 柚月は、少しだけ首を振る。

「研究じゃないです。ただ、忘れたくなくて」

 星野さんは、それ以上言わなかった。

 ただ、ノートを閉じて、丁寧に返した。

「続けてください。たぶん、それが一番いいです」


           ☆


 帰り道、柚月は子午線の上に立った。

 時間の基準。

 ここを通る線は、日本中の時計を支えている。

 けれど、自分の時間は、ノートの中にある。

 誰かに提出するわけでも、評価されるわけでもない。

 ただ、自分の夜を残していく。

 それだけで、十分だった。

 その夜も、庭に出る。


 望遠鏡を組み立てる手つきは、少しだけ迷いが減っている。

 月は薄く、空は静かだった。

 接眼レンズを覗きながら、柚月は思う。

 見える日も、見えない日もある。

 それでも、ここに立つ。

 ノートを開き、日付を書く。

 ペン先が、紙に触れる音がした。


 それは、秒針の音よりも、ずっと静かだった。


           ☆


 ある夜、ノートを書き終えたあと、柚月はスマホを手に取った。

 画面の明かりが、少し眩しい。

 これまで、仕事の連絡以外で投稿することはほとんどなかった。

 何を書くわけでもなく、写真フォルダを開く。

 今夜撮った月の写真。

 望遠鏡越しに撮ったそれは、少しぼやけている。

 完璧とは言えない。

 それでも、消さなかった。

 投稿画面を開く。


 しばらく、空白のまま。


 やがて、短く打ち込む。

 「月。クレーター、はっきり。」

 ハッシュタグもつけない。

 誰かに見てもらおう、という気持ちはなかった。

 ただ、ノートとは別の場所に、もう一つ残してみたくなっただけだ。

 投稿ボタンを押す。

 それだけで、少し鼓動が速くなる。

 画面を閉じ、縁側に出る。

 空は、静かだった。

 通知は、しばらく来なかった。

 来なくても、困らない。

 ノートのページをめくる。

 紙の感触の方が、ずっと確かだった。

 それでも。

 自分の夜が、どこかの空と、ゆるく繋がった気がした。

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