第五章 庭の望遠鏡
双眼鏡を使うようになって、数日が過ぎた。
晴れた夜は、自然と庭に出る。
椅子を置き、双眼鏡を構え、空を見上げる。
それが、柚月の日課になりつつあった。
星は確かに増えて見える。
肉眼では一つだった光が、双眼鏡ではいくつにも分かれる。
それでも、限界はある。
月を見た夜、双眼鏡では影の輪郭までは追えなかった。
観望会で見た月が、頭に浮かぶ。
比べるつもりはなかったのに、身体が覚えてしまっている。
昼間、図書館へ行った。
天文学の棚を眺め、何冊か手に取る。
ページの中に、何度も「望遠鏡」という文字が現れる。
夕方、商店街の小さな家電量販店の前で足が止まった。
ショーケースに、白い筒が一本だけ置かれている。
「……まだ、早いよね」
そう呟いて、通り過ぎる。
夜、再び双眼鏡を覗く。
きれいだ。十分だ。
それでも思ってしまう。
——もう少し近くで、見たい。
欲しい理由は、それだけだった。
望遠鏡を見に来ただけだった。
店内の一角に、小さな天体観測コーナーがある。
白い筒が、いくつも並んでいた。
値札を見る。
29,800円。
42,000円。
78,000円。
「……」
思っていたより、高い。
双眼鏡は家にある。
なくても困らない。
今は無職だ。
貯金はある。でも、減る。
スマホで「初心者 望遠鏡」と検索する。
“最初は小口径で十分”
“出すのが面倒だと使わなくなる”
“赤道儀は初心者には難しい”
知らない言葉ばかりだ。
赤道儀。経緯台。倍率。口径。
数字が並ぶ。
倍率が高い方がよく見えるのかと思えば、
“倍率より口径が重要”と書いてある。
分かったようで、分からない。
高いものを買えば後悔しないのか。
安いもので満足できるのか。
しばらく、棚の前で立ち尽くした。
頭の中で、東京の会議室がよぎる。
三か月かけた企画。
評価されなかった時間。
あのときは、時間を差し出していた。
今は、自分の時間を買おうとしている。
それに、いくら払えるのだろう。
29,800円の望遠鏡に、もう一度視線を戻す。
無理をすれば、上のモデルも買える。
でも——
もし続かなかったら?
数回使って、押し入れに戻ったら?
“やっぱり私は続かない人間だ”と思うかもしれない。
それが、少し怖い。
「望遠鏡、見てきました」
「どうでした?」
「……高いですね」
正直に言うと、星野さんは笑った。
「趣味って、だいたいそうですよ」
「どれがいいのかも分からなくて」
「最初は、小さくていいです」
即答だった。
「性能より、出すのが面倒じゃないこと」
「面倒じゃない……」
「大きいほどよく見えます。でも、重いと出さなくなります」
少し間を置いてから、続ける。
「続けられることの方が、大事です」
数日後、柚月はもう一度店に行った。
上位モデルを、もう一度だけ見る。
やっぱり、よく見えそうだ。
でも、その横に置かれた小さな望遠鏡に目が止まる。
軽い。
持ち上げられる。
値段は、手が届く。
29,800円。
レジへ向かう途中、少しだけ胸がざわつく。
でも、不安よりも、期待の方がわずかに大きかった。
これは贅沢ではない。
これは、時間への投資だ。
レシートを受け取りながら、思う。
東京で失った時間の代わりに、これからの夜を買ったのかもしれない。
その夜、庭で組み立てる。
思ったより簡単だった。
月を探す。
接眼レンズを覗く。
買ったのに、月が視野から外れる。
ピントが合わない。
でも、諦めずに調整する。
「……」
言葉が出なかった。
影の境目。
凹凸。
これは、自分で見つけた月だ。
木星の小さな光も、確かにそこにあった。
時間を忘れて、星を追った。
「……買ってよかった」
その夜が、柚月の最初の夜になった。




