第三章 星を見上げる場所
週末の夜、柚月は再び天文科学館を訪れていた。
昼間とはまるで別の建物のようだった。
塔はライトアップされ、夜空に静かに浮かび上がっている。
昼は多かった来館者の姿も、今はまばらだ。
受付を済ませると、参加者は二十人ほど集まっていた。
年齢もばらばらで、小学生くらいの子どもを連れた家族もいれば、一人で来ている人もいる。
柚月は、少しだけ緊張しながら、その輪の端に立った。
「今日は天気に恵まれましたね」
聞き覚えのある声がして、振り返ると星野さんがいた。
昼間のブレザーとは違い、動きやすそうな上着を羽織っている。
「こんばんは」
「こんばんは。来てくれて、ありがとうございます」
その言葉に、柚月は小さく頷いた。
来てよかったのかどうか、まだ分からない。
でも、ここにいること自体は、不思議と悪くなかった。
簡単な説明のあと、参加者たちは屋上へと案内された。
外に出た瞬間、空気が変わる。
昼の暖かさが嘘のように、夜風が肌に触れた。
「まずは、月を見てみましょう」
屋上の中央には、大型の望遠鏡が据えられている。
白い筒が、夜空に向かって静かに構えていた。
順番に、望遠鏡を覗いていく。
柚月の番が来て、接眼レンズに目を近づけた。
「……わ」
思わず、声が漏れた。
月が、そこにあった。
ただの白い丸ではない。
凹凸があり、影があり、立体として存在している。
「クレーターがよく見えますね」
星野さんの声が、すぐ近くから聞こえた。
「はい……思っていたより、ずっと」
「月は、いちばん身近な天体ですから。最初に見るには、ちょうどいいんです」
柚月はもう一度、そっと覗いた。
昼間に見たプラネタリウムの月とは、まるで違う。
本物は、少しだけ無骨で、でも確かだった。
次に見たのは、木星だった。
小さな円盤のような姿の横に、いくつかの光の点が並んでいる。
「ガリレオ衛星です」
そう教えられて、柚月は頷いた。
名前だけは知っていた星が、実際に目の前にある。
望遠鏡での観測がひと段落すると、今度は肉眼で星空を見る時間になった。
「街の明かりがあるので、全部は見えませんが……」
星野さんがレーザーポインターで空を指す。
「あのオレンジ色の星が、アークトゥルス。その下の白い星が、スピカです」
柚月は、空を見上げた。
昼間の星座解説と同じ名前。
でも、今見ているのは、本物の空だ。
星は、思っていたより少ない。
それでも、確かにそこにある。
「きれいですね」
誰かが、ぽつりと呟いた。
柚月も、同じことを思っていた。
東京では、夜空を見上げることすらなかった。
見ても、何も見えなかったから。
ここでは、違う。
星は少なくても、ちゃんと見える。
観望会は、ゆっくりと終わりに近づいていった。
参加者たちは、名残惜しそうにしながらも、少しずつ帰っていく。
屋上には、柚月と星野さん、それから数人が残っていたが、やがてそれも減っていった。
しばらくのあいだ、二人とも何も言わず、ただ夜空を見上げていた。
「……私、最初は研究者になりたかったんです」
星野さんは、空を見たまま、ぽつりと言った。
「大学では天文学を専攻して、大学院にも進みました」
語り口は淡々としていて、特別なことを話しているようには聞こえない。
柚月は、何も言わず、そのまま耳を傾けた。
「星を研究するのは、すごく楽しかったです。でも、途中で分かってしまって」
星野さんは、少しだけ間を置いた。
「向いてないな、って」
夜風が、屋上を通り抜ける。
望遠鏡の駆動音も、もう聞こえない。
「研究って、好きなだけじゃ続けられない仕事で。才能とか、運とか、タイミングとか……いろいろあって」
そう言ってから、星野さんは小さく息をついた。
「それで、この仕事を選びました」
天文科学館の塔が、視界の端に入る。
「最初は、正直、逃げたのかなって思ったこともあります」
声に、後悔は混じっていなかった。
ただ、事実をそのまま置いているようだった。
「でも、ここで星を見せて、誰かが立ち止まってくれる瞬間を見るのが、私は好きで」
星野さんは、再び空を見上げた。
「だから、今は……これで良かったんだと思っています」
それきり、言葉は続かなかった。
柚月は、空を見上げたまま、ゆっくりと息を吐いた。
星は、何も答えない。
それでも、夜空は静かにそこにある。
「そろそろ、下りましょうか」
星野さんが、いつもの調子で言った。
「はい」
柚月は短く答えた。
階段を下りながら、柚月は思った。
星を見る仕事にも、いろいろな形がある。
研究する人。
伝える人。
ただ、見上げる人。
どれも、間違いじゃない。
天文科学館を出ると、夜の空気がひんやりとしていた。
空を見上げる癖が、もうつき始めていることに、柚月は気づいていた。




