第一章 子午線の町に、帰ってきた
三月末の東京。
高層ビルの窓に映る夕焼けは、どこか他人行儀な色をしていた。
会議室の壁に掛かった時計の秒針が、やけに大きな音を立てて進んでいた。
カチ、カチ、と均一なリズムで。
柚月の声を待つこともなく、ただ淡々と時間だけを刻んでいる。
長机の向こうに並ぶ上司たちは、資料に目を落としたまま頷いたり、首を傾げたりしている。
三か月かけて温めた企画だった。何度も書き直し、何度も練習した説明を、柚月は予定通りに口にする。
ふと視線を上げると、会議室のガラス窓に、夕焼けが映っていた。
高層ビルの隙間に沈みかけるオレンジ色。
けれど、その色に気づいているのは、どうやら、自分だけのようだった。
「悪くない。でも、君じゃなくてもいい」
短い一言が、静かな会議室に落ちた。
誰も言葉を継がない。否定も、慰めもない。
時計の秒針は、止まらない。
夕焼けもまた、誰に待たれることなく、ゆっくりと色を失っていった。
*
「本当に辞めるの?」
退勤間際、同期の美咲からそう問われた。
「うん。少し、立ち止まりたくなって」
嘘ではなかった。
走り続けているのに、どこにも辿り着けない気がしていた。
夜の駅は、人で溢れていた。
終電に向かって急ぐ足音、スマホの光。
誰もが同じ方向を向いているのに、柚月だけが立ち止まっているような感覚だった。
ホームで電車を待ちながら、ふと空を見上げる。
東京の空は、驚くほど狭い。
ビルの間に切り取られた夜空には、星も見えなかった。
その夜、柚月は帰郷を決めた。
*
目を覚ました時、窓の外の光は、東京の朝とは違って見えた。
JR明石駅のホームに降り立った瞬間、潮の香りが鼻腔をくすぐった。
「ああ、帰ってきたんだな」
思わず、声に出た。
二十六歳の春。東京での会社員生活に区切りをつけて、生まれ故郷に戻ってきた。
改札へ向かう足取りは、不思議と軽かった。
無意識にスマホの時計へ向けていた視線が、途中で止まる。
時間を確認しなくても、別に困らないことに気づいた。
駅前の空が、広い。
視界の端まで、何も遮るものがない。
——ここなら、自分の時間を取り戻せる。
理由は分からない。ただ、そう思った。
実家は、駅から少し離れた高台にある祖母の家だった。
昨年、祖母が施設に入ってからは空き家になっている。
鍵を開けて中に入ると、懐かしい畳の匂いがした。
「ただいま」
誰もいない部屋に、そう言ってみる。
返事はないけれど、不思議と寂しさはなかった。
荷物を置き、縁側の窓を開ける。
春の風が、静かに部屋を通り抜けていった。
*
翌朝、柚月は早く目が覚めた。
特に予定はない。
それなのに、身体だけが先に起きていた。
縁側に座り、湯気の立つ湯のみを手にする。
庭の梅の木は、花を散らし終えたばかりのようだった。
何をしよう。
そう考えた時、ふと、子どもの頃の記憶が蘇った。
祖母と手を繋いで歩いた道。
暗い部屋の中で見上げた、満天の星。
名前を教えてもらった星座のいくつかは、もう思い出せない。
「……行ってみようか」
明石の天文科学館。
祖母に連れられて来たのは、もう二十年近く前だ。
思いつきだった。
けれど、その言葉は、不思議と胸にすっと収まった。
*
正面玄関の前に立つ。
開館時間には、まだ少し早い。人影はない。
足元に、一本の線が引かれているのに気づいた。
東経百三十五度。
日本の標準時を決める、子午線。
その線の上に、そっと立つ。
——時間の基準点。
東京で追われ続けていた時間が、ここでは静かに足元にある気がした。
柚月は、空を見上げた。




