9 境界
異変は、音もなく始まった。
チャイムが鳴る前。
教室の空気が、わずかに重くなる。
誰かが気づくほどじゃない。
ただ、慣れている者には分かる。
――近い。
「今日、嫌な日だな」
迅が、ノートを閉じながら言った。
「理由は?」
湊が聞くと、迅は肩をすくめる。
「数値が合わない」
それは迅なりの直感だった。
白羽は、席に座ったまま動かない。
今日は“動かない日”のはずだった。
でも、
白羽の視線は、机ではなく床に落ちている。
「……白羽?」
声をかけると、白羽は一拍遅れて顔を上げた。
「……来る」
短い言葉。
説明はない。
その直後、
頭の奥に声が落ちた。
「一年一課。処理区域へ」
朔夜の声だった。
⸻
処理区域は、学校から歩いて行ける距離だった。
それが最悪だった。
住宅と学校の境目。
部活帰りの生徒も、買い物帰りの大人もいる。
結界は張られている。
だが、薄い。
「対象、確認できない」
迅が言う。
「気配はある。でも、位置が定まらない」
ルナが前に立つ。
「見えないなら、
引きずり出す」
その言葉に迷いはない。
白羽は、最後尾にいる。
今日は、能力を使う予定はない。
由良の声も、聞こえない。
今回は、朔夜が監督だ。
「動くな」
朔夜の声が、全員の頭に落ちる。
「結界を揺らすな」
それは、
誰も前に出るな
という意味だった。
⸻
異変は、子どもの声から始まった。
「ねえ」
振り返ると、
公園のベンチに、子どもが座っている。
ランドセル。
半ズボン。
普通の小学生。
「ボール、取れない」
指差した先には、
フェンスの向こうに転がるボール。
ありふれた光景。
だが、
誰もそこに来るまで、その子に気づかなかった。
「……おかしい」
迅が言う。
「結界内に、“自然に”存在してる」
ルナが一歩出ようとして、止まる。
「待て」
朔夜の声。
「触るな」
触るな。
その言葉に、
湊の胸がざわつく。
子どもは、湊を見る。
「ねえ」
目が合う。
――遅れる。
分かっているのに、
視線を切れない。
「……ボール」
子どもが立ち上がる。
その瞬間、
空気が歪んだ。
子どもの影が、
地面に“落ちない”。
浮いている。
「来る!」
迅が叫ぶ。
影が伸びる。
地面を這うように、結界の縁へ向かう。
出たら、終わる。
一般人が巻き込まれる。
ルナが動こうとする。
でも――
間に合わない。
距離がある。
結界が薄い。
踏み込めば破る。
一拍。
誰も動けない。
その一拍で、
湊は前に出ていた。
考えていない。
命令もない。
ただ、
境界に立っていた足が、半歩前に出た。
「相良!」
迅の声。
朔夜の声は、
なかった。
⸻
湊は、子どもと影の間に立つ。
触れていない。
近づいただけだ。
それなのに――
影が、止まった。
完全に止まったわけじゃない。
進めない。
子どもの形が、
揺れる。
「……あれ?」
子どもが言う。
「動けない」
影が、伸びきったまま固まっている。
ルナが、目を見開いた。
「……止まってる?」
迅が即座に理解する。
「違う。確定してる」
何が?
子どもが、子どものまま。
化け物になりきれず、
人間にも戻れない。
変化できない状態。
境界。
湊は、自分の足元を見る。
影と、光の境目。
結界の縁でも、内側でもない。
「……相良」
朔夜の声が、
ようやく落ちた。
低い。
「動くな」
湊は、動けなかった。
動けば、
この状態が壊れる気がした。
「今だ」
朔夜の声が、短く響く。
ルナが踏み込む。
迷いのない一閃。
子どもの形が、
音もなく崩れる。
影が、遅れて消える。
「処理完了」
迅の声。
⸻
結界が、きしみながら戻る。
誰も死なない。
誰も気づかない。
湊は、その場に立ったまま、
息をするのを忘れていた。
「……相良」
ルナが言う。
「今の……」
「動くな」
朔夜の声が重なる。
命令ではない。
確認だった。
湊は、ゆっくりと一歩下がる。
その瞬間、
空気が元に戻る。
影も、境界も、消える。
「……何をした」
朔夜が問う。
湊は、首を振る。
「……分からない」
それは嘘じゃない。
触れていない。
命じていない。
ただ、立っただけだ。
迅が言う。
「相良が、“変わらない状態”を作った」
白羽が、静かに呟く。
「……遅延じゃない」
その言葉が、
湊の胸に刺さる。
違う。
遅らせていない。
止めてもいない。
ただ、
決まらせた。
「境界固定」
朔夜が、初めて言葉を置く。
仮の名前。
だが、意味は十分だった。
「相良」
朔夜は続ける。
「次から、勝手に動くな」
叱責だった。
でも、その次の言葉で、
全員が息を呑む。
「……だが、使える」
白羽が、ゆっくりと湊を見る。
「……私と逆」
由良の声は、まだない。
神無月も、言祝も、遠い。
でも、
戦場は確実に変わった。
湊は思う。
境界に立つというのは、
何もしないことじゃない。
立ったまま、
世界を決めてしまうことだ。
夜が、静かに深まる。
アフター・ダークの中で、
境界は初めて、
自分の意思で動いた。
それが、
祝福か、
破滅かは、
まだ誰にも分からない。




