6 遅らせるの、反動
白羽が来てから、校舎の空気が少しだけ変わった。
劇的な変化じゃない。
誰かが騒ぐわけでも、噂が広がるわけでもない。
ただ、放課後の沈黙が、ほんの少し長くなった。
湊はそれを、無意識に数えていた。
チャイムが鳴ってから、結界が張られるまでの時間。
任務の指示が降りるまでの間。
白羽が席を立つまでの、一拍。
どれも、微妙に遅い。
「……遅れてる?」
呟くと、前の席のルナが振り返った。
「何が」
「時間」
ルナは一瞬だけ考えたあと、肩をすくめる。
「気のせい」
そう言い切る声は、前と同じだった。
でも、湊には分かる。
ルナは「気のせいだと判断した」だけだ。
感じていないわけじゃない。
迅は、ノートを閉じながら言った。
「昨日の残りがある」
「残り?」
湊が聞くと、迅は短く答える。
「《遅延》の反動。
まだ、処理されてない」
その言葉で、湊の胸が重くなる。
処理。
遅延。
反動。
白羽は、救っていない。
ただ、間に合わせただけ。
なら、
間に合わなかった分は、どこへ行く?
⸻
その日の任務は、軽い――はずだった。
場所は、郊外の倉庫街。
人通りは少ない。
時間帯も深夜に近い。
「単体。
移動も遅い」
迅の報告は簡潔だった。
「白羽は、後方」
由良の声が、いつもの調子で響く。
「今日はねー、
使わないでいこっか」
冗談みたいな言い方。
でも、それは命令だった。
白羽は、何も言わずに頷いた。
その頷きも、やっぱり遅い。
湊は、白羽を横目で見た。
顔色が、少し悪い。
青白いというより、
“色が足りない”感じ。
「大丈夫?」
思わず声をかけると、
白羽は一拍遅れて答えた。
「……今は」
今は。
その言葉が、昨日の“助かった”を否定する。
⸻
対象は、倉庫の影に立っていた。
人の形。
腕が長く、脚が短い。
歩き方が、どこかぎこちない。
「……遅い」
湊が呟く。
迅が頷く。
「動作が、全体的に鈍い」
鈍い。
遅い。
その言葉が、嫌に重なる。
ルナが前に出る。
「終わらせる」
一歩。
距離は十分。
――のはずだった。
ルナが踏み込んだ瞬間、
対象の影が、あり得ない角度で伸びた。
「っ」
影が、ルナの足元を掴む。
「来る!」
迅が叫ぶ。
影が、引く。
強引じゃない。
ただ、確実に。
「ルナ!」
湊が叫びかけて、止まる。
ここで動けば、
また遅れる。
判断が、胸の奥でぶつかる。
切る?
助ける?
呼ぶ?
一拍。
その一拍で、
ルナの体勢が崩れた。
倒れない。
でも、踏ん張れない。
「……ちっ」
ルナが舌打ちする。
その時だった。
白羽が、前に出た。
「使うなって――」
由良の声が、途中で止まる。
白羽は、聞いていなかった。
いや、
聞いていて、無視した。
「……遅延」
声は小さい。
昨日より、さらに小さい。
世界が、またずれた。
影の動きが、鈍る。
引く力が、弱まる。
完全には止まらない。
ただ、遅くなる。
その隙に、ルナが体勢を立て直す。
「……ありがとう」
小さく言って、
ルナは影を切った。
対象が崩れる。
「処理完了」
迅の声。
でも、
空気が戻らない。
⸻
白羽が、その場で膝をついた。
音もなく。
倒れるというより、
力が抜けた感じ。
「白羽!」
湊が駆け寄る。
白羽は、顔を上げようとして、上げられなかった。
「……ちょっと、
遅れただけ」
由良が、すぐ隣に立つ。
軽い調子は、消えていた。
「うん。
ちょっと、ね」
由良は、白羽の手首に触れる。
脈を取る仕草。
でも、白羽に脈はない。
それでも、
由良は“確認”をする。
「……支払い、来てる」
由良が言った。
「昨日の分と、
今の分」
迅が眉をひそめる。
「蓄積?」
「そ」
由良は、笑わない。
「《遅延》はね、
先に借りる能力だから」
借りる。
その言葉が、湊の胸に刺さる。
「返さないと、
身体が持たない」
「返すって……」
湊の言葉は、途中で止まった。
返す方法なんて、
一つしかない。
遅らせた“死”を、
自分で引き受ける。
白羽は、目を閉じたまま言った。
「……まだ、平気」
「平気じゃない」
由良が即答する。
「平気って言う人ほど、
次で壊れる」
白羽は、何も言わなかった。
⸻
帰還後、
白羽は医務室のような場所に運ばれた。
治療はない。
回復もない。
ただ、
時間を置く。
それしかできない。
湊は、廊下の壁にもたれて座り込んだ。
「……これが、支払い」
迅が隣に立つ。
「遅らせた分、
どこかで帳尻が合う」
「それって……」
「救ってないからこそ、
起きる」
迅は、冷たい事実を言う。
「救ったなら、
完結してる」
湊は、何も言えなかった。
ルナが、少し離れた場所で立っている。
拳を、強く握っている。
前に立つ者は、
守られることに慣れていない。
だから、
守られた時に、
どうしていいか分からない。
「……俺」
湊は、声を絞り出す。
「俺は、
白羽に助けられた」
迅は、否定しなかった。
「事実だ」
「でも……」
「だから、
忘れるな」
迅は、湊を見る。
「助かった理由を」
理由。
救われたからじゃない。
奇跡が起きたからじゃない。
誰かが、
未来の自分を削ったから。
⸻
夜が深くなる。
校舎の明かりが、少しずつ消えていく。
湊は、一人で歩きながら考える。
境界に立つというのは、
誰かの選択の上に立つということだ。
切る者。
数える者。
遅らせる者。
そして、
選ばない者。
白羽は、選ばなかった。
ただ、遅らせた。
それでも、
全員が生きている。
その“成功”は、
誰かの内側を、確実に削っている。
「……おめでとう」
また、あの声が聞こえた気がした。
今度は、
少しだけ近い。
湊は足を止め、
暗い空を見上げる。
アフター・ダーク。
光が終わったあとに残る時間。
そこでは、
助かった理由が、
いつも遅れてやって来る。
そして、
支払いもまた、
必ず遅れて来る。
湊は思う。
境界に立つ自分は、
この“遅れ”を、
いつまで見ていられるのか。
答えは出ない。
ただ、
白羽が今日、
壊れなかった。
それだけが、
今夜の結論だった。




