5 遅れて間に合った
白羽は、自己紹介をしなかった。
教室の扉が開いて、
教師に名前を呼ばれて、
前に立って――それだけ。
「今日から入る白羽。
席、空いてるとこ使ってー」
柊木由良は、いつも通りの軽い調子だった。
白羽は一礼もしない。
視線を上げもしない。
ただ、指示された席に向かって歩く。
足取りが、遅い。
怪我をしているわけじゃない。
疲れている様子もない。
それでも、動きが一拍遅れている。
湊は、なぜか目を逸らせなかった。
――遅い。
それは欠点のはずなのに、
どこか意図的に見えた。
「……あの子?」
迅が、小さく言う。
「そうそう。
噂の“遅い子”」
由良は、笑っていた。
でも、
その笑い方は、現場で《猶予》を使った時と同じだった。
軽い顔をして、
取り返しがつかないものを見ている顔。
⸻
初任務は、最悪だった。
場所は、住宅街の真ん中。
時間は、夕食前。
対象は――不明。
「反応が、ズレてる」
迅の声が、張り詰める。
「単体じゃない。
でも、複数でもない」
意味が分からない、ということは、
“想定にない”ということだ。
結界は張られている。
だが、薄い。
「逃がせない」
ルナが言う。
「人、多すぎる」
現場は、袋小路だった。
逃げ場がない。
切り取るには、狭すぎる。
湊は、嫌な予感しかしなかった。
白羽は、最後尾に立っていた。
何もしない。
構えない。
見ているだけ。
それが、異様に見えた。
「白羽」
由良が呼ぶ。
「今日は、見学ねー」
白羽は、頷いた。
その動作も、やっぱり遅い。
⸻
対象は、突然現れた。
音もなく。
気配もなく。
ただ、
“そこにいる”ことだけが確定する。
人間体。
年齢不詳。
表情が、一定しない。
笑っているのか、泣いているのか、分からない。
「……帰れる?」
その声が、複数に聞こえた。
一人の声なのに、
重なっている。
「来る!」
ルナが叫ぶ。
次の瞬間、
空気が、内側から破裂した。
見えない衝撃が、路地を走る。
窓ガラスが、震える。
一般人が、立ち止まる。
まずい。
迅が即座に判断する。
「相良、下がれ!」
湊は反射的に動く――が、
遅れた。
足が、動かなかった。
違う。
動く理由が、決まらなかった。
助ける?
切る?
守る?
一拍。
その一拍で、
世界が一段、深く沈んだ。
対象の“中身”が、溢れ出す。
人の形の裏から、
言葉にならないものが噴き出す。
「……あ、」
誰かが声を漏らす。
遅い。
完全に、遅い。
⸻
その時だった。
白羽が、一歩前に出た。
走らない。
叫ばない。
ただ、前に出る。
「白羽!」
由良の声が、初めて少しだけ強くなる。
白羽は、対象を見る。
目を合わせない。
顔も見ない。
代わりに、
“時間”を見る。
「……遅延」
小さな声。
それだけ。
世界が、ずれた。
止まらない。
戻らない。
ただ、遅くなる。
爆発の速度が、落ちる。
衝撃の伝播が、鈍る。
悲鳴が、途中で引き延ばされる。
救われたわけじゃない。
対象は、まだそこにいる。
壊れたまま。
止まっていない。
でも――
今じゃなくなった。
「今だ!」
迅が叫ぶ。
ルナが踏み込む。
距離は、ギリギリ。
間合いは、足りないはずだった。
でも、足りた。
足りてしまった。
一閃。
対象が、崩れる。
音はしない。
派手さもない。
ただ、
終わった。
⸻
結界が、揺れながら戻る。
一般人が、何事もなかったように動き出す。
誰も死んでいない。
誰も壊れていない。
「……助かった」
誰かが、そう言った。
湊は、言葉が出なかった。
助かった?
何が?
誰が?
白羽は、その場に立ったまま、動かない。
肩で息をしているわけでもない。
苦しそうでもない。
ただ、
少しだけ、色が薄くなっている。
「白羽」
由良が近づく。
「やりすぎ」
白羽は、首を横に振る。
その動きも、遅い。
「……間に合った」
由良は、それ以上言わなかった。
代わりに、
白羽の肩に手を置く。
支える、というより、
そこにいることを確認するみたいに。
⸻
帰り道、
湊はずっと考えていた。
救われた人はいる。
確実に。
でも、
救われた“存在”はいない。
白羽は、誰も治していない。
何も元に戻していない。
ただ、
遅らせただけ。
それなのに、
全員が生きている。
「……なあ」
湊は、白羽に声をかけた。
白羽は、少し遅れて振り返る。
「……あれって」
言葉を選ぶ。
「救った、って言えるのか?」
白羽は、少し考えた。
その“考える時間”も、遅い。
「……言わない」
「じゃあ……」
「でも」
白羽は続ける。
「言わなくても、
助かることはある」
その言葉が、
湊の胸に、重く落ちた。
救ってないのに、助かった。
それは、
希望じゃない。
奇跡でもない。
現実だった。
⸻
夜が、深くなる。
アフター・ダークの中で、
湊は思う。
境界に立つ自分は、
切れない。
決められない。
でも――
遅らせることは、できるのかもしれない。
それが、正しいかは分からない。
ただ、
今日、誰も死ななかった。
それだけが、
確かな事実だった。
そしてそれが、
この世界で一番、厄介な“成功”なのだと、
湊はまだ知らない。




