4 まだ間に合うの、内側
放課後の校舎は、いつも同じ匂いがする。
チョークの粉、古いワックス、教室に残った熱。
それらが混ざって「日常」を作っている。
その日常が、湊にとっては一番不自然だった。
死んだあとも、授業があり、放課後が来る。
そして、任務が来る。
――それでも、今日の空気は少し違った。
「今日、監督役、変わる」
迅が言った。机の上のノートを閉じる音が、やけに大きく聞こえる。
「朔夜じゃないんですか」
湊が聞くと、迅は首を横に振る。
「今日は教師側が出る。
結界の維持、上が絡んでる」
上。
その言葉だけで、現場の温度が一段下がる。
「上って……柊木先生?」
ルナが短く言う。
迅は頷いた。
「柊木由良。
《猶予》持ち。今日の任務は、嫌な匂いがする」
ルナが小さく舌打ちする。珍しい反応だった。
「“嫌な匂い”って、どういう」
湊の言葉は、途中で途切れた。
頭の奥に、声が落ちたからだ。
「一年一課。
処理区域へ移動」
朔夜の声ではない。
もっと軽く、もっとだるそうで、でも芯の抜けていない声。
「はいはい。
お仕事のお時間でーす」
柊木由良の声だった。
軽い。ふざけている。
なのに、妙に安心する響きがある。
そして、その安心が――逆に怖い。
⸻
処理区域は、住宅街の外れにある古い歩道橋だった。
下を車が流れ、遠くに駅の灯りが見える。
人もいる。多い。
帰宅の時間帯。生活圏のど真ん中。
「結界、広く張れないよ」
由良の声が、頭の奥で笑う。
「今日の相手、位置が悪い。
だから“切り分け”で行くね。
はい、みんな深呼吸ー」
深呼吸。
湊は笑いそうになって、笑えなかった。
「対象、複数」
迅が状況を言葉にする。
歩道橋の上に二体。
下の側道に一体。
そして――一体は見えない。
見えないというのが、一番まずい。
ルナが足を止める。
「気配、変」
湊も感じた。
空気が妙に薄い。音が鳴っているのに、音が届かない。
《残相》の中でも、嫌なタイプだ。
「模倣型が混じってる」
迅が言う。
模倣型。
日常の言葉を吐き、日常の動きをする残相。
間違えたら、遅れる。
遅れたら、増える。
由良の声が、軽く落ちた。
「うんうん、嫌だねえ。
でも、嫌でもやるんだよねえ」
ふざけているのに、現場が引き締まる。
由良は、軽さで空気を壊さない代わりに、
軽さで「やるしかない」を押し付けてくる。
「行くよ。
結界、三枚。薄いから、破るなよー」
薄い結界。
破れると、一般人が巻き込まれる。
湊は喉が乾くのを感じた。
⸻
最初に動いたのはルナだった。
歩道橋の上、柵にもたれていた男に向かって、迷いなく踏み込む。
男は振り返り、穏やかな声で言った。
「すぐ終わります」
それが、あまりに職場みたいな言葉で、湊の背筋が冷えた。
「黙れ」
ルナは短く言って、切る。
音はしない。
男は崩れる。
その瞬間、下の側道にいた女が笑った。
「おつかれさま」
言葉が軽すぎる。
“軽口”ではない。
言葉が、中身を持っていない。
迅が一歩前に出る。
「こっちは俺」
位置取り。角度。距離。
迅は戦わない。配置で勝つ。
女は、ゆっくりとこちらを向いた。
「帰れる?」
湊に向けて言った。
湊の足が、わずかに止まる。
「……俺は」
言葉が出かけて、止まる。
迅が言った。
「相良、動くな。
観測だけ」
“動くな”は、命令というより救命だった。
湊が動けば、迷いが増える。
迷いは、遅れになる。
遅れは、死ぬ。
女の影が、膨らむ。
その影が、結界の縁に触れた瞬間、
結界が――きしんだ。
「来る」
ルナが言う。
そして、見えない一体が現れた。
歩道橋の階段の踊り場。
制服姿。
姿は普通。呼吸もあるように見える。
でも、目が、湊にだけ合った。
「……おめでとう」
耳元で聞こえた。
湊の胸の奥が、ひくりと鳴る。
由良の声が一段低くなる。
「相良くん。
そこ、見ない」
軽い声じゃない。
それは“指示”だった。
湊は視線を逸らす。
逸らした瞬間、背後で何かが動いた。
迅の肩が、わずかに沈む。
足元の地面が、抜けた。
「っ――」
迅が声を漏らすのは珍しい。
見えない攻撃。
足場を奪うタイプ。
落ちる。
歩道橋の下は車道だ。
落ちれば、終わる。
死後の身体は綺麗なままだとしても、終わる。
湊の身体が、勝手に動きそうになる。
助けたい。
引き上げたい。
でも、動けば、別の誰かが死ぬ。
その一拍の迷いが、湊の中で膨らむ。
「……迅!」
ルナが叫ぶ。
ルナは前に立つ。だから、迷わず助けに行ける。
だが――距離が遠い。
間に合わない。
由良の声が、軽く笑う。
「はいはい、落ちない落ちない。
落ちたらめんどいからね」
次の瞬間、空気が“引っかかった”。
時間が伸びたような感覚。
迅の身体が落ちる速度だけが、鈍くなる。
――《猶予》。
死を消していない。
ただ、今じゃないと言っているだけ。
迅が空中で体勢を整える。
指先が縁にかかる。
ルナが駆け寄り、引き上げる。
「……助かった」
迅が息を吐く。
由良の声は、いつもの軽さに戻っていた。
「でしょ。
先生、偉い」
偉い。
その言い方がふざけているのに、現場は笑えない。
湊は理解する。
《猶予》は万能ではない。
使えば救える。でも、救い切れない。
救うのではなく、“間に合わせる”だけ。
そして、その“間に合わせる”が、どれほど残酷かも。
由良の声が続く。
「今のは授業料。
次はないよー」
次はない。
その言葉が、湊の腹の底を冷やした。
⸻
迅が戻った瞬間、戦闘は一気に片付いた。
ルナが歩道橋上の残り一体を切り、
迅が側道の女を処理する。
見えない残相だけが逃げた。
逃げた、というより――溶けた。
日常の中へ、紛れ込んだ。
由良が舌打ちの代わりに、軽口を言う。
「はいはい、やだねえ。
ああいうの、増えると先生泣いちゃう」
泣かないくせに、そう言う。
「追跡しますか?」
迅が問う。
「しない」
由良は即答だった。
「今日の結界、薄い。だから、追えば破れる。
破れたら、生きてる子が巻き込まれる」
正しい。
正しすぎて、湊は胸が苦しくなる。
「相良くん」
由良が呼ぶ。
「さっき、声、聞こえた?」
湊は一瞬だけ言葉に詰まる。
「……はい」
「何て?」
「……おめでとう、って」
由良が笑う。軽い笑い。
「へえ。おめでたいね」
でも、次に続く声は、笑っていなかった。
「それ、今は気にしないで。
気にしたら、遅れるから」
遅れる。
今日、迅が落ちかけた。
遅れたら死ぬ。
死後の世界で、さらに死ぬ。
湊は頷くしかなかった。
⸻
帰り道、ルナは迅を見て言った。
「無傷?」
迅は肩を動かす。
「猶予が入った。
だから“今は”無傷」
今は。
その言葉が、妙に重い。
「支払いは?」
湊が思わず聞くと、迅は答えなかった。
由良が代わりに言った。
「後で来るよ。
いつも通り」
“いつも通り”の残酷。
湊は、今日初めて実感した。
回復じゃない。
救済じゃない。
《猶予》は、死を先に送るだけ。
それでも、必要だ。
間に合わないものを、間に合わせるために。
校門の前で解散する時、由良が軽く手を振った。
「明日からね。
うちのクラスに転がり込む子がいるの」
「転がり込む?」
ルナが眉をひそめる。
由良は笑う。
「生徒。
“遅い”子」
その言い方は冗談みたいだった。
でも、由良の目は冗談じゃない。
湊の胸の奥が、ざわつく。
遅い子。
それは――
今日の“猶予”と同じ匂いがした。
湊は夜空を見上げた。
暗い。
でも、完全な闇ではない。
アフター・ダークの中で、
何かが一つ、近づいてきている。
それは敵か、味方か。
救いか、支払いか。
少なくとも、
「間に合わせる」ための存在だ。
そして、その存在が来るということは、
これから先、
“間に合わない任務”が増えるということでもあった。
湊は息を吐く。
境界に立つ者は、
遅れた瞬間に切られる。
だから――
遅い子が来る。
それが、答えみたいで怖かった。




