14 もう1つの制限
呼び出しは、いつも“音”がない。
スマホが鳴るわけでも、廊下で名を呼ばれるわけでもない。
頭の奥に、決まった言葉が落ちてくる。
――上へ。
それだけで、湊の喉が渇いた。
喉が渇くはずがない。死んでいるのだから。
なのに、乾く。そう感じる。そう“覚えている”。
階段を上がるたび、校舎の匂いが薄くなる。
チョークとワックスの匂いが遠ざかり、古紙と錆の匂いが近づく。
灯りも、空気も、余計なものを削ぎ落としていく。
最上階の資料室。
使われていないはずの部屋の前で、足が止まった。
扉の向こうから、温度が来る。
冷たい、というより、熱がない。
そこにあるのは“判断”だけだ。
湊は、ノブに手をかけた。
手が震えているのが分かる。
震えは寒さじゃない。怖さでもない。
たぶん、怒りに近い。自分に対する。
――救えると思った。
その瞬間の、胸が軽くなる感じ。
あれが、どうしても許せない。
扉を開けると、机と椅子と、望月朔夜がいた。
朔夜は立っていた。座らない。
座る必要がないという姿勢。
指先にペンも書類もないのに、机上の全てが決定事項に見えた。
「座れ」
湊は椅子に腰を下ろす。
背もたれに触れる前に背筋が固まった。
自分の姿勢が、叱責される前から“反省”の形になっているのが嫌だった。
朔夜は、湊の顔を見ない。
目の高さより少し下――胸元のあたりを見ている。
あの視線は、人間を見る目じゃない。
“結果”を見る目だ。
「昨日の任務について」
朔夜の声が落ちる。
空気が、さらに薄くなった。
「結果は、失敗だ」
湊は頷いた。
頷きながら、喉の奥で何かが引っかかる。
失敗。
そうだ。失敗だ。
でも、その瞬間、誰も死なない未来が見えた。
あれを“見た”のは自分だ。
それが、失敗へ繋がった。
「だが、想定外ではない」
朔夜は続ける。
湊は目を上げた。
想定内。
その言葉が、胸の奥のどこかを押す。
想定内なら、なぜ自分はここに呼ばれている。
怒るためか。縛るためか。切るためか。
朔夜は淡々と、事実を並べる。
「敵が“救える状況”を作った。お前は応じた」
応じた。
その言葉が、湊に刺さる。
応じたということは、相手の手に乗ったということだ。
「これは能力の問題ではない」
湊は息を吸った。
「……判断、ですか」
自分の声が、思ったより小さかった。
この部屋では、小さくなる。
叫んだところで、空気が吸い込んでしまう。
「違う」
朔夜は即答した。
「性質だ」
性質。
湊はその言葉を、口の中で転がす。
判断は変えられる。性質は変えにくい。
つまり――お前はそういうやつだ、と言われている。
「お前は、“救えるなら使う”存在だ」
湊の胸が、わずかに跳ねた。
救えるなら使う。
それが悪だと言われている。
なのに、反論の言葉が出ない。
反論できるほど、胸が澄んでいない。
「だから、制限を追加する」
朔夜の声が、紙の端を切るみたいに乾いている。
制限。
首輪。
檻。
湊は膝の上で指を握りしめた。
握りしめる手に、温度がないのが嫌だった。
生きていたら、汗をかいて、手のひらが湿って、そこで緊張を自覚できたのに。
「制限四」
朔夜が番号を口にした瞬間、
湊はなぜか、胸の奥で数を数えた。
一、二、三、四。
縛りが増えるたびに、呼吸が浅くなる。
「対象が“救えると見える場合”、相良は能力を使用してはならない」
湊の思考が、少し遅れた。
遅れたのは理解ではなく、拒否だ。
救えると見えるなら、使うな。
救える瞬間こそ、使うな。
「……それは」
口から出たのは、言葉になり損ねた音だった。
怒りでも懇願でもない。
ただ、受け止めきれない時の空気。
朔夜は、それを待たない。
「お前の最大の弱点を塞ぐ制限だ」
弱点。
湊は、白羽の顔が浮かんだ。
遅延で倒れた白羽。
あの子は“助けた”のに、薄くなった。
自分は“救ったつもり”で、壊した。
「固定は、“切る前提”の能力だ」
朔夜が言う。
「救うために使う能力じゃない」
湊は、歯を食いしばった。
唇の裏が痛い。
痛みがあるのに、血の味がしないのが妙に腹立たしい。
「固定した時点で世界は進めなくなる。進めない世界は、必ず内側から壊れる」
女性の影が、内側から裂けた瞬間が蘇る。
救えた、と思ったその直後。
安堵の次に来た絶望。
絶望より先に来たのは――自分がやった、という確信。
「だから」
朔夜は言う。
「救えると思ったら、切らせろ」
切る。
その単語が、湊の腹の底に落ちる。
切るのは自分じゃない。
でも、切らせる判断に自分が関わる。
それは結局、同じだ。
湊は息を吐いた。
吐く息が、白くならない。
それが本当に、嫌だった。
そのとき、灯りが小さく揺れた。
揺れ方が、風じゃない。
結界の揺れとも違う。
もっと、肌の内側を撫でるような揺れ。
朔夜の気配が、変わる。
「……来たな」
言葉が短い。
短いほど、決定事項が増える。
湊は背中が固まった。
扉は閉まっている。窓もない。
なのに、空間に“入口”が開く感覚。
空気の端が、折れる。
「こんばんは、朔夜」
陽気な声が、部屋の中に落ちた。
軽い。
軽いのに、踏んだ瞬間に床が崩れるような軽さ。
神無月。
湊は知っている。
顔を見たことはないのに、声で分かる。
敵の声は、頭に残る。
残るように作られている。
神無月は、そこに立っていた。
扉を開けたわけじゃない。
入ってきたわけじゃない。
最初から“そこにいる”ように現れた。
「相変わらず、物騒な場所を選ぶね」
神無月は、笑っている。
笑っているのに、その目――というより、視線の温度が笑っていない。
朔夜が一歩前に出る。
湊の前に立つ位置。
守る、というより“遮る”位置だ。
「お前が来る場所じゃない」
神無月は肩をすくめる。
「そう? でもさ」
指先で空気をなぞる。
「境界が鳴った」
その言葉で、湊の喉の奥がひゅっと狭くなる。
鳴った。
自分が動いた。
自分が救えると思った。
その“音”が、敵に届いた。
「鳴ったら、来るでしょ」
神無月が言う。
当然のように。
それが一番怖い。
「……湊、だっけ」
神無月が湊を見る。
初めてちゃんと見られた気がした。
視線が肌に触る。
「いい顔してる」
「迷ってる顔だ」
褒めているのに、削ってくる。
湊は言葉を探す。
でも、言葉は全部、朔夜の制限に引っかかる。
朔夜が低く言う。
「話すな」
命令。
湊は頷けなかった。
頷いたら、神無月の言葉を“受け取った”ことになる気がした。
神無月は、楽しそうに朔夜を見る。
「制限、増やしたでしょ」
朔夜の目が、ほんの少し細くなる。
その細さが、怒りよりも鋭い。
「“救えるなら使うな”」
神無月は、わざと口にする。
湊が飲み込めなかった言葉を、他人の口で聞かされる。
「良い制限だ」
本気で感心したように言うから、なお悪い。
「でもさ」
神無月の声が、少しだけ柔らかくなる。
柔らかくなるほど、罠の匂いが濃くなる。
「救えなかった責任、誰が取るの?」
その問いが、湊の胸を撃つ。
救えなかった責任。
自分が救えると思った瞬間の軽さ。
それを恥じた。
でも同時に、自分は“救える”と見える未来を見てしまう。
見えるなら、見えた者が背負うべきじゃないのか。
朔夜が即答する。
「俺が背負う」
神無月が笑う。
「本当に?」
「いつまで?」
その二段目が、鋭い。
“いつまで”
朔夜は人間じゃない。死者だ。
いつまで、という概念が歪む。
それでも、いつまでもはない。
だから、その問いは刺さる。
朔夜は答えない。
答えないまま、正面に立つ。
答えないことが、朔夜の強さだ。
同時に、弱さにも見える。
神無月は、湊を見る。
「ねえ、境界くん」
境界くん。
その呼び方が、ぞっとするほど馴れ馴れしい。
「君、見えるんでしょ」
「間に合わない未来」
「助かる可能性」
「それを知ってて、使うなって酷だよね」
酷だ。
湊は、その言葉に救われそうになるのが嫌だった。
敵の言葉で救われそうになる自分が、怖い。
朔夜が言う。
「答えるな」
湊は、口を閉じた。
閉じたまま、胸の中で言葉が暴れる。
答えたくない。
でも、答えは胸の中にある。
――救えるなら、使いたい。
それは、正義でも悪でもなく、性質だ。
神無月は、さらに畳みかける。
「制限ってさ、守ってくれる」
「でも同時に、選ばせない」
「君は選びたい人間だ」
湊の喉が動く。
唾を飲み込んだ。飲み込めていない。
飲み込めるものがない。
選びたい。
選びたいから遅れる。
遅れるから死ぬ。
死ぬから守られる。
守られるから、選べない。
神無月は、最後に言った。
「また用意するよ」
「救える状況」
声が軽い。
軽いのに、胸が重くなる。
「今度は壊れないやつを」
朔夜が前に出る。
一歩だけ。
その一歩で、空気が切れる。
断、の気配。
言葉より先に、“切る意思”が来る。
「次は来るな」
神無月は笑う。
「無理だね」
「境界が鳴る限り」
そして、ふっと薄れる。
消えるのではない。
最初からそこにいなかったように、痕だけ残して消える。
資料室に残ったのは、灯りの揺れの余韻と、湊の心臓の音みたいな錯覚だった。
沈黙。
朔夜が、湊の方を向く。
「……怖いか」
その声には、ほんの少しだけ温度があった。
温度というより、湿り気。
朔夜も人だった頃があると、思わせる一滴。
湊は、すぐに答えられなかった。
答えたら、怖さが“確定”してしまう気がした。
一拍。
「……はい」
声が掠れる。
掠れるのは喉じゃない。
心が擦れている。
朔夜は頷く。
「だが、逃げない」
問いではない。断定だ。
湊は、頷いた。
頷くしかない。
逃げる先がない。
「だから、縛る」
朔夜の声が、元の冷たさに戻る。
「縛られたまま、前に進め」
それは守り方だ。
朔夜の守り方。
守るために、自由を奪う。
奪った自由の代わりに、責任を背負う。
「制限四は今日から適用だ」
湊は小さく息を吐いた。
「……破ったら」
自分でも驚くほど、素直な問いが出た。
恐怖でも反抗でもない。
確認。
自分がどこまで許されるかの確認。
朔夜は、一瞬だけ間を置いた。
「その時は、俺が止める」
止める。
救う、ではない。
止める。
湊は、肩の力が抜ける感覚がした。
抜けた瞬間に、怖くなる。
止められるということは、
いつでも切れるということだ。
資料室を出ると、廊下の匂いが戻ってきた。
ワックスとチョークの匂い。
懐かしい匂い。
生きていた頃の匂い。
それが、今夜は痛かった。
階段を下りながら、湊は自分の足音を数えた。
一段、二段、三段。
音が規則正しいほど、心の中が不規則になる。
神無月の言葉が、胸に残る。
――次は、壊れない救える状況を用意する。
救える。
その言葉の甘さを、湊はもう知っている。
胸が軽くなる。
軽くなった瞬間に、自分が壊れる。
そして、朔夜の制限が、胸の内側に金具みたいに嵌まっている。
救えると見えたら、使うな。
湊は笑いそうになって、笑えなかった。
救えると見えた瞬間こそ、
自分は一番、動きたくなる。
動きたくなる自分を、
縛るのが制限。
縛られても、
敵は用意してくる。
どこまでが守りで、どこからが罠なのか。
その境目が、もう見えない。
――境界。
湊は、校舎の窓から夜を見た。
街灯が、星より明るい。
夜が暗いのに、闇は薄い。
アフター・ダーク。
光が終わったあとに残る時間。
その時間の中で、湊は確かに感じる。
自分の中に、ひびがある。
ひびは壊れていない。
壊れていないから、音がする。
音がするから、誰かが来る。
湊は、拳を握った。
握っても、温度は変わらない。
でも、握ったという事実だけが、今夜の自分を繋いでいた。
「……選ぶな、って」
呟いた声は、廊下に吸い込まれて消えた。
選ぶな。
でも、選ばされる。
その矛盾の上で、
明日も湊は学校へ行く。
授業を受けて、放課後を迎える。
そして――
また境界が鳴る。
鳴ったら、来る。
来たら、縛られる。
縛られたまま、
前に進む。
その繰り返しが、
いつか“制限”を壊す。
湊はそれを、確信に近い形で知っていた。




