13 用意された救い
その任務は、最初から“軽い”顔をしていた。
時間帯は夕方。
場所は住宅街の端にある、古い公民館。
人の出入りは少ない。
結界も張りやすい。
「単体。反応も安定してる」
迅の報告は淡々としていた。
「……救えるな」
ルナが言う。
その言葉に、湊の胸が微かに揺れた。
救える。
この世界で、
その言葉はほとんど使われない。
「救えるというより、救えそうに見える」
朔夜の声が落ちる。
違いは、致命的だった。
⸻
結界は、完璧だった。
厚い。
広い。
一般人は完全に外。
「ここまで条件が揃うの、久しぶりだな」
迅が言う。
湊も、そう思った。
厚い結界。
単体。
逃げ場なし。
白羽は、後方にいる。
今日は“動かない日”だ。
「……相良」
白羽が、一拍遅れて呼ぶ。
「……気をつけて」
理由は言わない。
それが、彼女の警告だった。
⸻
対象は、公民館のホールに立っていた。
人間体。
年配の女性。
椅子が並び、
掲示板に行事予定。
あまりにも、
普通の場所。
「……帰れる?」
女性が言う。
声は、震えている。
「私、ここで待ってればいい?」
その問いに、
湊の足が止まりかける。
「相良、観測だ」
迅の声。
湊は、息を吸う。
女性の影は、
ほとんど揺れていない。
変化の兆候が、
極端に少ない。
「……変化が、遅い」
ルナが言う。
「遅延じゃない」
白羽が、小さく言う。
「……最初から遅い」
その言葉が、
湊の中で引っかかる。
⸻
「使える」
朔夜の声。
「相良。まだ使うな」
まだ。
その“まだ”が、
逆に重い。
「……助けて」
女性が、
今度ははっきり言った。
「私、何もしてない」
その瞬間、
湊の中で何かが“揃う”。
厚い結界。
逃げ場なし。
変化が遅い。
――救える。
そう思った瞬間、
それが用意された状況だと、
気づくべきだった。
⸻
女性の影が、
ゆっくりと伸びる。
だが、
外に向かわない。
内側で、
輪を描く。
「……内向き?」
迅が言う。
「自壊型か?」
「違う」
白羽が首を振る。
「……待ってる」
何を?
「……選択を」
その言葉と同時に、
頭の奥に、別の“声”が落ちた。
「ねえ」
聞き覚えのない声。
でも、
どこか懐かしい。
「それ、
救えると思った?」
湊の心臓が、跳ねる。
――敵だ。
直接の干渉。
言葉による侵入。
「相良!」
迅の声。
「聞くな!」
だが、
もう遅い。
「条件を揃えてあげたんだよ」
声は、優しい。
「切らなくていい、遅らせなくていい。君が、決めるだけでいい」
境界固定。
湊の能力を、
正確に理解している声。
「ほら。使えば彼女は“変わらない”。変わらなければ、切らなくていい………救えるよ」
その言葉は、
誘惑じゃない。
論理だった。
⸻
湊の喉が、乾く。
救える。
初めて、堂々とそう言える状況。
「相良」
朔夜の声が、
強く落ちる。
「使うな」
短い。
命令。
「……でも」
湊の声が、
震える。
「今なら……」
「今だからだ、今だから罠だ」
朔夜が言う。
女性が、一歩前に出る。
「お願い」
「帰りたい」
その言葉に、
影がほとんど反応しない。
「……時間が、足りてる」
迅が言う。
「間に合う」
間に合う。
湊の胸が、
締めつけられる。
間に合うのに、
切るのか?
⸻
「使えばいい」
敵の声が、
もう一度、囁く。
「君は、殺さなくていい。決めるだけでいい。殺すのは、他の人だ」
その言葉は、
朔夜の言葉を反転させていた。
「相良」
今度は、
白羽の声。
小さい。
「……私、使えない…今、遅延すると、壊れる」
白羽は、
はっきり言った。
「……だから、あなたが使うと救える」
それは、
彼女なりの事実だった。
全てが、
湊に集まる。
救える状況。
意図的に作られた、
逃げ道。
⸻
湊は、前に出た。
制限一。
自発使用禁止。
破る。
制限三。
使用後後退。
分からない。
それでも、
足が動いた。
半歩。
距離、二メートル。
女性と向かい合う。
「……ありがとう」
女性が、
先に言った。
その言葉が、
決定打だった。
境界固定。
湊の足元で、
空気が“定まる”。
女性の影が、
完全に止まる。
変化が、
消える。
「……できた」
誰かが、
呟いた。
「今だ!」
迅の声が、
反射的に出る。
だが――
ルナが、動かなかった。
切らない。
切れない。
切る必要が、
なくなったから。
沈黙。
女性は、
その場に立っている。
何も起きない。
「……救えた?」
湊の声は、
かすれていた。
⸻
次の瞬間。
女性の影が、
内側から裂けた。
外ではない。
内。
境界固定された“中”で、
崩壊が始まる。
「……違う!」
白羽が叫ぶ。
「それ、逃げ場を失っただけ!」
遅延も、
切断も、
できない。
固定されたまま、
壊れる。
「うそ……」
湊の声が、
震える。
女性は、
笑っていた。
「ね、救えたでしょ?」
声が、
別のものに変わる。
神無月の声だった。
直接ではない。
だが、
確実に届く距離。
「固定すると、内側が耐えられない。けれど、切れば終わった。遅らせれば逃げた。でもね、君は“止めた”」
影が、
爆ぜる。
内向きの破壊。
結界の中だけが、
歪む。
「相良、下がれ!」
朔夜の声。
湊は、足が動かない。
自分が、作った状態だから。
白羽が、歯を食いしばる。
「……遅延」
限界を越えて。
世界が、わずかにずれる。
完全ではない。
だが、一拍だけ。
その一拍で、ルナが動く。
切る。
影が、
完全に消える。
⸻
静寂。
結界が、
ゆっくり戻る。
誰も、
一般人はいない。
だが、
ホールの床には、
焦げた跡。
湊は、
膝をついた。
「……俺」
声が、出ない。
救えたと思った。
でも、
結果は同じだった。
いや――
もっと悪い。
白羽が、
その場に座り込む。
顔色が、
一気に落ちる。
支払い。
由良の声が、
初めて震えた。
「……やられたね」
朔夜は、
何も言わない。
ただ、
湊を見る。
その目に、
怒りも、失望もない。
あるのは、
確定した事実だけ。
「相良」
「……はい」
「救える状況は、敵が作る」
それが、
今回の結論だった。
神無月の声が、
最後に残る。
「次は、もっと上手くやろうね。境界くん」
夜が、
深く沈む。
アフター・ダークの中で、
湊は理解する。
救いは、
用意された瞬間から、
すでに歪んでいる。
そして――
自分は、
その歪みを
完成させてしまったのだと。




