11 ひび
違反は、いつも小さい。
誰も叫ばない。
誰も止めない。
ただ、決まりが静かに役目を失う。
その日の朝、白羽は教室に早く来ていた。
正確には、
“早く見えた”。
白羽はいつも遅い。
だから、他人より少しだけ早く座っていると、
時間の帳尻が合わなくなる。
「……おはよう」
湊が声をかけると、
白羽は一拍遅れて振り返る。
「……おはよう」
返事は、いつも通りだった。
だが、
その“間”が、
いつもより短かった。
湊は、言葉にしない違和感を飲み込む。
――慣れた、だけだ。
そう思おうとした。
⸻
任務は、午後だった。
場所は、商業施設の裏手。
昼と夜の境目。
人は多いが、流れは速い。
「対象、単体」
迅が言う。
「ただし、反応が薄い」
薄い。
弱いわけじゃない。
「……遅れてる?」
湊が呟くと、
迅は頷いた。
「遅れてるというより、間に合ってない」
意味が分かるようで、分からない。
朔夜の声が落ちる。
「制限を確認する」
形式的な確認。
それでも、全員が姿勢を正す。
「相良」
「はい」
「勝手に動くな」
「はい」
「白羽」
「……はい」
「併用は禁止だ」
白羽は、ゆっくり頷く。
それで、確認は終わりだ。
⸻
対象は、エスカレーターの下にいた。
人間体。
若い男。
スマホを握ったまま、立ち尽くしている。
「……遅いな」
ルナが言う。
「動かない」
男は、画面を見つめたまま、
指だけを動かしている。
「帰れない?」
湊の胸が、わずかに揺れる。
男の影が、
エスカレーターの段差に溶けている。
変化の途中。
完全ではない。
「……使う?」
迅が、低く聞く。
朔夜は即答しない。
数秒。
それが、判断の時間だった。
「まだだ」
朔夜の声。
「引き寄せる」
ルナが前に出る。
距離は、足りる。
――はずだった。
男の影が、
突然“跳ねた”。
空間が、歪む。
エスカレーターの動きが、乱れる。
一般人が、
足を取られる。
「来る!」
迅が叫ぶ。
結界は張られている。
だが、薄い。
ルナが踏み込む。
だが、一拍、遅れる。
その一拍で、
男の影が“外”に触れた。
破れる。
湊の身体が、動いた。
「待っ――」
迅の声は、途中で切れる。
湊は、前に出ていた。
命令は、ない。
許可も、ない。
半歩。
距離は、二メートル。
男の形が、止まる。
影が、固まる。
変化が、確定する。
「……今だ!」
朔夜の声が、遅れて落ちる。
ルナが切る。
男は、
何か言おうとして、
言えずに崩れた。
「処理完了」
迅の声。
結界が戻る。
人の流れが再開する。
誰も気づかない。
⸻
湊は、後退しなかった。
制限三。
使用後は後退。
分かっている。
分かっているのに――
足が、動かなかった。
白羽が、後ろから小さく言う。
「……相良」
その声で、
湊は我に返る。
一歩下がる。
空気が、元に戻る。
「……誰が指示した」
朔夜の声は、低かった。
怒りではない。
確認だ。
「……俺が、判断しました」
湊は、正直に言った。
「遅れたと、思ったから」
沈黙。
朔夜は、湊を見ている。
責めていない。
だが、
評価もしていない。
「制限一の違反だ」
朔夜が言う。
「自発使用」
「……はい」
「制限三の、半違反」
半違反。
完全ではない。
だが、軽くもない。
「理由は?」
「……人が、倒れそうだった」
「だから、決めたのか?」
朔夜の声が、少しだけ低くなる。
「お前は、“間に合わなかった未来”を見たな」
湊は、何も言えなかった。
否定できない。
「白羽」
朔夜が言う。
「使ったか」
白羽は、一拍置いて答える。
「……使ってない」
「本当か」
「……遅延は、発動してない」
それは、事実だった。
だが――
「……でも」
白羽が、続ける。
「……準備は、してた」
その一言で、
空気が変わる。
迅が、息を呑む。
「準備?」
白羽は、視線を落とす。
「……相良が遅れたら、使うつもりだった」
その言葉は、
制限二の縁に触れていた。
併用はしていない。
だが、
同時を想定していた。
それは、
ひびだ。
朔夜は、少しだけ目を細める。
「……想定した時点で、境界は不安定になる」
白羽は、何も言わない。
言い訳を、しない。
⸻
帰還後、
会議室。
由良が、初めて呼ばれた。
「聞いたよ」
軽い声。
だが、目は笑っていない。
「小さな違反」
朔夜は言う。
「だが、無視できない」
由良は、椅子にもたれて言った。
「小さいからこそ、増えるんだよね」
その言葉が、
湊の胸に刺さる。
「相良くん」
由良が見る。
「自覚は、あるのかな?」
湊は、少し考えてから答えた。
「……あります」
「どんな?」
「……俺、“見える”ようになってきてる」
「何が?」
「……間に合わない未来」
その言葉に、
由良は笑わなかった。
「それはさ、才能だよ」
軽く言う。
「でもね」
一拍。
「才能って、制限を壊す力でもある」
朔夜が言う。
「だから、縛る」
「……縛れてるの?」
由良が聞く。
朔夜は、即答しない。
その沈黙が、
答えだった。
⸻
夜。
湊は、一人で歩いていた。
今日の違反は、
成功だった。
誰も死ななかった。
被害も出なかった。
だから、
危ない。
成功は、
制限を軽くする。
「……おめでとう」
また、
あの声が聞こえた気がした。
今度は、
はっきりと。
祝福。
でも、
それは勝利じゃない。
白羽の言葉が、
頭に残る。
――準備してた。
自分が遅れたら、
彼女は使うつもりだった。
併用すれば、
どちらかが折れる。
それでも、
準備した。
それは、
信頼か。
それとも、
諦めか。
湊は立ち止まる。
境界は、
ひびが入った瞬間から、
役目を変える。
支えるか、
壊すか。
制限は、
まだある。
だが、
守られたのではなく、
試され始めたのだと、
湊ははっきり理解していた。




