1 放課後、処理開始
人は、死んだあと、三つの結末に分かれる。
ひとつ。
死因を核に、異能を得る者。
彼らは、生きている人間の世界を守るため、
死後も戦う役割を与えられる。
ひとつ。
能力に目覚めきれず、歪みだけを残した者。
それらは化け物となり、
人の形や言葉を保ったまま、世界を侵す。
そして、最後のひとつ。
どちらにもなれず、境界に立ち続ける者。
最も不安定で、
最も危険で、
最も切られやすい存在。
相良湊は、
その三つ目に属していた。
⸻
放課後の校舎は、少しだけ静かすぎた。
チャイムが鳴り終わると同時に、生徒たちのざわめきが遠ざかっていく。
黒板を消す音、椅子を引く音、廊下を走る足音――そういう生活の雑音が、なぜかここでは薄い。
薄いというより、遠い。水の底で聞いているような距離感がある。
湊は窓際の席で、ノートを閉じる手を止めた。
窓の外では、まだ生きている生徒たちがグラウンドで部活の準備をしている。
掛け声が上がり、笑い声が跳ね、夕方の光が彼らの輪郭を眩しく縁取る。
――あっちが、現実。
湊はその言葉を、何度も心の中で反芻してきた。
自分は死んでいる。
心臓は動かない。息も、血の温度も、脈の揺れもない。
それなのに制服を着て、授業を受け、放課後を迎える。
死後の世界は、もっと違うと思っていた。
暗い川とか、白い霧とか、神妙な審判とか。
そんなものはない。代わりにあるのは、学校と時間割と、仕事だ。
「……来るな」
隣の席の反町迅が、低く言った。
迅はいつも、どこか機械みたいに落ち着いている。
怖がらないわけじゃない。ただ、怖がり方が合理的だ。
湊が返事をする前に、空気が変わった。
音が一段階、落ちる。
教室の色が、僅かに鈍くなる。
視界の端が、薄い膜で覆われたように歪む。
――結界。
監督役が展開した合図だった。
「一年一課。処理区域へ移動」
声は頭の奥に直接響く。
感情の混じらない、抑揚のない指示。
望月朔夜の声だった。
朔夜は教師でも監督役でもない。
それでも、命令が通る。
それは彼が強いからだ。強いという言葉が一番安っぽくなるくらい、決定的に。
教室の空気が「仕事」へ切り替わる。
誰も慌てない。驚かない。日常の延長として、席を立つ。
前の席のルナが、振り返りもせずに肩を動かした。
ルナは名前だけで呼ばれている。苗字がない。
それが変だと誰も言わない。変だと思う前に、そういうものだと受け入れている。
「行く」
その一言で十分だった。
⸻
校門を出ると、空は夕暮れから夜へ滑り始めていた。
駅へ向かう道には、普通の高校生がいる。
制服の袖を引っ張り合って笑っている。スマホを覗き込んでいる。
湊たちは、その中を歩く。混ざれる。でも混ざらない。
監督役が張った結界が、街の一角を切り取っている。
どこからが内側で、どこからが外側なのか。
見た目には分からない。
ただ、境界線を跨いだ瞬間、匂いが変わる。
生活の匂いが消えて、湿った紙の匂いになる。
古い記録室みたいな、誰かの忘れ物みたいな匂い。
処理区域は、古い住宅街の路地だった。
自販機の明かりが白く照らし、電線が夜空を雑に切っている。
数メートル先には、夕食の準備をしている家の窓が見える。
外側は、普通の暮らし。内側は、異常。
「対象、単体」
迅が短く報告する。
視線の先に、人影が立っていた。
学生服。
背丈も体格も、湊たちとほとんど変わらない。
髪の長さも、癖も、どこにでもいる高校生のそれ。
ぱっと見には、迷い込んだ一般人に見える。
それが最悪だった。
化け物はいつだって、人間の形を借りる。
この世界では「それは元は人間だった」という事実が、いつも遅れてくる。
「……普通すぎる」
ルナが低く呟く。
声は小さいのに、結界の中ではやけに響く。
湊は喉が乾くのを感じた。
目の前の人影は、こちらに背を向けている。
肩の高さ、首の角度、重心の位置。全部人間だ。
人影が、ゆっくり振り返った。
顔はある。
目も鼻も口も、人間の部品だ。
けれど、視線が合わない。焦点がどこにも定まらない。
こちらを見ているはずなのに、見ていない。
「……おかえり」
かすれた声が、空気を揺らした。
誰に向けた言葉か分からない。
湊の背中の内側に、冷たいものが走る。
「処理対象、確認」
朔夜の声が落ちる。
その一言だけで、空気が締まった。
「ルナ」
呼ばれた瞬間、ルナは動いた。
一歩。
踏み込み。
間合いは正確で、躊躇がない。躊躇という概念が最初から存在しないみたいに。
次の瞬間、人影の胸に“欠け”が生まれる。
音はしなかった。
斬撃音も、骨の音も、血の音もない。
ただ、そこにあったものが、途中から無くなったように崩れ落ちる。
湊は、目を逸らさなかった。
血は出ていない。
倒れた体も、妙に綺麗だ。
それでも――終わったと分かる。
「処理完了」
迅が淡々と告げる。
結界の中に残っていた重さが、薄れていく。
それは達成感ではない。
「一つ終わった」という処理の感覚だ。
湊は、倒れた姿を見たまま、胸の奥がむず痒くなるのを感じた。
人間に似すぎている。
制服の襟元が少しヨレているところまで、生活の匂いがする。
もし、これが生きている人間だったら――
そう考えた瞬間、湊は自分の思考を止める。
その「もし」が、この仕事を遅らせる。
遅れは死に繋がる。誰かの、あるいは自分の。
朔夜の声が、頭の奥で切り落とすように言った。
「帰還」
⸻
結界が解除されると、街は何事もなかったように動き出した。
子どもが走り、犬が吠え、家々の窓から料理の音が漏れる。
たった今そこで、存在が一つ消えたことを、誰も知らない。
それが結界の役割だ。守るためではなく、隠すための装置。
帰り道、ルナは口数が少ない。もともと少ないけれど、今日はさらに少ない。
迅はいつものように周囲を見て、短く息を吐いた。
「楽な任務だったな」
湊は頷きかけて、止まった。
楽だった。
危険はなかった。
それなのに、胸の奥に何かが残っている。
「……本当に、人じゃなかったんですか」
気づけば、口に出ていた。
前を歩く朔夜は立ち止まらない。
「違う」
即答だった。
「判断に迷う要素はなかった」
それだけ。
理由も背景も語られない。
朔夜はいつもそうだ。説明ではなく、結果を提示する。
湊はそれ以上聞かなかった。
聞けば、自分が「遅れる」側に寄ってしまう気がした。
校門の前で解散する。
「また明日」と、普通の高校生みたいな言葉を交わして、それぞれが帰路につく。
湊は一人、校舎を見上げた。
窓の明かりが点々と灯っている。
その明かりの中で、今日も誰かが宿題をしているのだろう。
生きている誰かが、未来に向かって時間を使っている。
湊は、自分の手を見た。
綺麗だ。何も付いていない。
それが余計に怖い。
ふと、耳元で声がした気がした。
――おめでとう。
反射的に振り返る。
誰もいない。
校門の外には、帰宅する生徒の背中が流れているだけだ。
湊は息を吐く。
吐いた息が白くならないのが、少しだけ可笑しい。
「……何だよ、それ」
誰に向けた言葉でもなく呟いた。
死後の世界は、終わりのはずだった。
なのに、終わらない。
学校も、任務も、放課後も続く。
境界に立つというのは、こういうことなのかもしれない。
終わっているのに、続いている。
生きていないのに、歩いている。
そして――
切られる前の、ほんの一歩手前にいる。
湊は校舎に背を向けた。
夜が来る。
でも完全な闇ではない。
光が終わったあとに残る時間――アフター・ダーク。
その時間の中で、
彼はまだ、境界に立っていた。




