第一章 その1 浪人、白馬に乗る そして兄弟
京の町は、朝と夜で顔が違った。朝は何事もなかったように人が動き、夜は何かを隠すように灯が減る。
玄四郎が町に入ったのは、朝でも夜でもない時分だった。日が傾ききる前の、曖昧な刻。商いを畳む者と、これから動き出す者とが、同じ道をすれ違う。
銀牙は歩調を落としていた。京の石畳は、街道とは勝手が違う。蹄が硬い音を立てるたび、通りの端で人がちらりと振り返る。
外套を羽織った浪人。白馬。目立たないと言えば嘘になる。
玄四郎は、それを気にする素振りを見せなかった。気にしていない、というより――気にする余裕がなかった。
道の脇では、魚を並べる女が声を張り、向かいでは古着を広げた男が値を下げている。すぐ横の路地では、酒の匂いと、生乾きの血の匂いが混じっていた。
「……相変わらず、節操のねぇ町だ」
声に出したつもりはなかった。だが、銀牙の耳がわずかに動く。
『町は腹を空かせてるだけだ。 腹が減りゃ、だいたいのことはやる』
玄四郎は返さなかった。否定も肯定もしない。
京は、そういう町だった。
宿を探すほどでもない。日が落ちきるまで、少し歩くつもりだった。
大通りを避け、自然と脇道へ入る。人の肩が触れ合うほどの細い道。洗い物の水が流れ、紙屑が踏まれている。
その先で、声が聞こえた。
「――やめろって言ってんだろ!」
若い声だった。怒鳴ってはいるが、張りがない。
玄四郎は足を止めなかった。止まらなかった、というより――止まる理由が、まだなかった。
次に聞こえたのは、鈍い音だ。肉を打つ音。壁に当たる音。
それから、短い悲鳴。
銀牙が、歩みを止めた。
『……玄四郎』
名を呼ぶ声ではない。確認する声だ。
玄四郎は、手綱を引いた。
路地の奥は暗い。だが、何も見えないほどではない。
二人――いや、三人か。壁際に追い詰められた少年が一人。その前に、男が二人。
身なりは悪くない。だが、整いすぎてもいない。町のごろつき――そう呼ぶのが一番近い。
「ちょっとした借りだ。返してもらうだけだろ」
男の一人が言う。声は落ち着いている。慣れている声だ。
「違う……俺は、そんな――」
少年の声は震えていた。否定の言葉が、うまく形にならない。
玄四郎は、まだ動かなかった。動く前に、見ていた。
少年の指。汚れている。爪の間に、煤のようなものが詰まっている。
男の足元。転がった小さな袋。中身は、見えなくても分かる。
『……腹減ってるな』
銀牙の声は低い。同情とも、断定ともつかない。
「見てるだけか?」
背後から、別の声がした。通りの端に立っていた男が、玄四郎を見ている。
玄四郎は、ようやく口を開いた。
「いや」
短く、それだけだった。
男たちの視線が、白馬と槍に集まる。空気が、わずかに変わる。
「通りがかりだ」
玄四郎はそう言って、路地に足を踏み入れた。一歩だけ。
「……それ以上でも、それ以下でもねぇ」
少年が、こちらを見た。助けを求める目だ。だが、まだ声にはならない。
玄四郎は、その目を長く見なかった。見ると、動いてしまうからだ。
『……やれやれ』
銀牙が、小さく息を吐く。
『また、そういう位置に立つ』
玄四郎は答えない。代わりに、槍の柄に手を掛けた。
抜くでもなく、構えるでもない。ただ、触れただけだ。
それで、十分だった。
男の一人が舌打ちをした。
「面倒なのが来たな」
玄四郎は、路地の真ん中に立つ。
京の町は、今日も血の匂いがする。だが、まだ――ここでは、何も決まっていない。
白馬の浪人が、偶然そこに立っているだけだ。
玄四郎は、槍を抜かなかった。抜かなかったが、踏み込んだ。
一歩。路地の石畳が、わずかに鳴る。
男の一人が肩をすくめる。
「やめとけ。あんたが首突っ込む話じゃねぇ」
玄四郎は答えない。答える前に、男が動いた。
短い間合い。殴るつもりの踏み込みだ。慣れている。路地裏で人を痛めつける動き。
玄四郎は体を半歩ずらし、男の腕を払った。力は使っていない。ただ、向きを変えただけだ。
男がよろける。
「……っ!」
次の瞬間、もう一人が背後から飛びかかってきた。玄四郎は振り返らない。槍の石突きを地に打ち、支点にして体を回す。
石突きが男の腹に入る。鈍い音。男は息を吐ききれないまま、壁にぶつかった。
『……やるなら早いな』
銀牙の声は静かだった。
玄四郎は、なおも踏み出そうとした。そこで――
「待て!」
割って入る声。
路地の奥から、別の男が飛び出してきた。年は玄四郎より少し下か。体つきは痩せているが、無駄な動きがない。
「弟に手ぇ出すな!」
弟。玄四郎の視線が、一瞬、壁際の少年に向いた。
少年は目を見開いている。叫びたいのに、声が出ない顔だ。
兄と呼ばれた男は、拳を握りしめ、男たちの前に立った。
「……悪かった。盗みはした。だが、返す。殴る理由はねぇだろ」
「理由ならあるさ」
ごろつきの一人が、口の端を歪める。
「返せば済むって話じゃねぇ。 ――示しが要る」
兄は歯を食いしばった。覚悟の顔だ。勝てないと分かっている顔。
それでも、退かない。
玄四郎は、そこで足を止めた。止めてしまった。
『……ああいうの、嫌いじゃないだろ』
銀牙の声は低い。
「嫌いだ」
玄四郎は短く返した。
「だが……放っとけねぇ」
兄が先に動いた。無駄のない踏み込み。だが、速さが足りない。
男の拳が、兄の頬を打つ。続けて腹。兄は崩れなかったが、動きが鈍る。
「やめろ!」
少年の声が、ようやく出た。
だが、遅い。
二人がかりだった。兄は壁に叩きつけられ、膝をつく。
それでも、立ち上がろうとする。何度も。
玄四郎は、もう迷わなかった。
槍を抜いた。刃ではない。柄の部分を前に出す。
一歩。二歩。
路地の空気が変わる。
男の一人が振り返った瞬間、玄四郎は踏み込んでいた。柄が顎を打つ。もう一人の足元を払う。
速い。
倒れる音が、二つ。
残った男は、退いた。舌打ちを残し、路地の奥へ消える。
兄は地面に伏したまま、荒く息をしていた。少年が駆け寄り、肩を抱いた。
「兄ちゃん……!」
玄四郎は、ゆっくりと近づいき
膝をつき、兄の顔を見る。殴られて腫れているだが、目には敗北したものとは思えない鋭さがあった。
玄四郎は、何も言わずに手を差し出した。
兄は、一瞬、戸惑った。それから、その手を見た。
浪人の手だ。武器を持つ手だ。
兄は、迷った末に――掴んだ。
玄四郎は、力を込めすぎないようにして引き上げた。兄の体は軽い。
立ち上がった兄は、深く頭を下げようとした。玄四郎は、それを止めるように手を上げた。
「……礼はいらねぇ」
言葉は、それだけだった。
少年が、二人を見比べている。まだ、何も理解していない目だ。
玄四郎は、路地の出口を一度だけ振り返った。京の町は、何事もなかったように音を立てている。
『……また、拾っちまったな』
銀牙の声が、遠くで響く。
玄四郎は、答えなかった。もう動いてしまった
玄四郎は、差し出した手を引っ込めなかった。兄はようやく体を起こし、壁にもたれて息を整えている。浅く、早い呼吸だ。
「……すまねぇ」
声は掠れていた。謝罪なのか、照れ隠しなのか、自分でも分かっていない言い方だった。
玄四郎は首を振った。
「気にするな」
それ以上、言葉を足さない。足せば、余計なものになる。
少年が兄の腕を支えながら、こちらを見ている。目が大きい。驚きと恐怖と、少しの期待が混じった目だ。
「……あんた、浪人か」
兄が聞いた。確認するような声音だった。
「そうだ」
「名前は」
「・・・藤原だ」
兄は、少年の肩に手を置く。
「こいつは、俺の弟だ。……智也」
呼ばれた少年が、はっとしたように背筋を伸ばす。
「……ありがとう、ございます」
言い慣れていない礼だった。言葉が前につんのめる。
玄四郎は、軽く手を上げた。
「礼はいい」
そう言って、地面に落ちている小さな袋に目を向ける。口は破れ、中身はもうない。
「腹が減ってたんだな」
智也は、びくりと肩を震わせた。兄が一歩、前に出る。
「……俺が悪い。止められなかった」
玄四郎は否定しなかった。肯定もしなかった。
「京は、そういう町だ」
それだけ言う。
路地の向こうから、足音が近づく。通りを歩く人間の音だ。ただ、日常が流れている。
『……長居する場所じゃねぇな』
銀牙の声が、頭の奥で低く響く。
玄四郎は頷き、路地の出口を見た。
「どこか、休める場所はあるか」
兄は一瞬、戸惑った。助けられた直後に、そんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
「……安宿なら、知ってる」
「案内してくれ」
「俺たちが?」
「ああ」
玄四郎は外套を整え、槍を背に負い直す。
「このまま、ここにいれば、さっきの連中が戻るかもしれねぇ」
兄は、短く息を吐いた。
「……分かった」
智也が、兄の袖を引く。
「兄ちゃん……」
「大丈夫だ」
兄はそう言って、玄四郎を見る。
「……あんた、本当に何者だ」
玄四郎は歩き出しながら、振り返らずに答えた。
「通りがかった浪人だ」
それ以上でも、それ以下でもない。
白い馬が、ゆっくりと路地を抜ける。
路地を出た途端、音が戻ってきた。人の話し声。下駄の音。軒先で鳴る木戸。さっきまでの出来事が、嘘のように薄まっていく。
銀牙は首を低くし、歩調を落とした。人混みの中で、目立たぬようにする癖だ。
兄が先に立ち、通りを横切る。背中が少し強張っている。無理に伸ばした背筋だ。
「……こっちだ」
通りを二つ曲がり、さらに細い道へ入る。陽はすでに傾き、家々の影が長く伸びている。夕餉の支度の匂いが、どこからか流れてきた。
智也が、何度も振り返る。追ってくる気配がないか、確かめているのだろう。
しばらく歩くと、古びた宿が見えた。看板は擦り切れ、文字も半分ほど消えている。だが、人の出入りはある。生きている宿だ。
「ここだ」
兄が言い、戸に手をかける。一瞬、ためらいが走る。
玄四郎は、外套の前を軽く合わせた。それだけで、兄の背中が少しだけ軽くなったように見えた。
戸が開く。中から、暖かい空気が流れ出す。
銀牙が、ひとつ小さく鼻を鳴らした。
戸をくぐると、土間の匂いがした。湿った木と、古い藁と、人の体温が混じった匂いだ。
宿は広くはない。低い天井。年季の入った柱。壁には煤が染みついている。だが、荒れてはいない。手入れだけはされている。
番台の奥から、女が顔を出した。年の頃は四十を少し越えたあたりか。派手さはないが、目がよく利く。
「……客かい」
兄が一歩前に出る。
「二人、いや……三人と、馬一頭」
女将は銀牙を見て、一瞬だけ眉を上げた。白い馬は、やはり目を引く。
「厩は裏だ。空いてる。 人のほうは……一部屋だな」
「構いません」
玄四郎が言うと、女将は改めて彼を見る。外套、槍、腰の刀。それだけで、何者かは察したのだろう。
「面倒ごとは、持ち込まないでくれるならね」
玄四郎は、短く頷いた。
「持ち込むつもりはない」
女将は鼻で息を吐き、帳面を閉じた。
「だったら、上がりな。 飯は遅くなるが、冷えたままよりはマシだろ」
兄が、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「礼は、あとでいい」
女将はそう言って、奥へ引っ込んだ。
玄四郎は銀牙の手綱を外し、裏へ回る。厩は狭いが、掃除は行き届いている。
「少し、我慢しろ」
銀牙の首筋を撫でる。
『……文句は言わねぇよ』
声は、いつもより低い。
『腹減ってんのは、人間だけじゃねぇしな』
干し草を足し、水を汲む。銀牙は黙ってそれを受け入れた。
部屋は二階だった。階段は急で、板がきしむ。
畳は新しくないが、破れてはいない。行灯がひとつ、弱い光を投げている。
智也が、部屋に入るなり座り込んだ。
「……つかれた」
声に、ようやく年相応の疲れが出る。
兄は、黙ってその背を見ていた。それから、玄四郎に向き直る。
「俺は、健太郎だ」
名乗る声は、まだ少し固い。
「さっきは……」
玄四郎は手を上げた。
「話は、腹を満たしてからでいい」
健太郎は一瞬、戸惑ったが、やがて頷いた。
「……ああ」
行灯の火が、三人の影を壁に映す。大きさも形も、揃っていない。
外では、京の夜が音を立てている。だが、この部屋だけは、少しだけ時間が緩んでいた。
玄四郎は槍を壁に立てかけ、外套を外す。腰の刀には、まだ手を触れなかった。
――まだ、だ。
銀牙の気配が、階下から伝わってくる。生き物の息遣いが、確かにそこにある。
玄四郎は、静かに息を吐いた。
しばらくして、廊下を歩く足音が近づいた。
控えめな足取りだが、迷いはない。
戸が軽く叩かれる。
「飯だよ」
女将の声だった。
健太郎が立ち上がり、戸を開ける。
盆の上には、椀が三つ。白飯と、味噌汁。あとは漬物が少し。
豪勢ではないが、温かい。
「……ありがとうございます」
「腹に入れば、だいたいの話は落ち着く」
女将はそれだけ言い、去っていった。
三人は向かい合って座った。
箸が触れ合う音が、やけに大きく聞こえる。
智也が、我慢しきれずに飯をかき込む。
健太郎は一度、咳払いをしてから、同じように箸を動かした。
玄四郎は、ゆっくり食べた。
急ぐ理由がないときの食べ方だ。
味噌汁を一口飲んだところで、健太郎が口を開いた。
「……さっきの連中」
玄四郎は箸を止めない。
「町の連中だ」
「……あいつら、よく来る。
弱そうなのを見つけては、因縁をつける」
智也が俯いた。
「俺が……」
健太郎が、軽く手で制した。
「いい」
短い言葉だったが、強かった。
玄四郎は、二人を見ずに言った。
「京じゃ、珍しくもねぇ」
それで終わらせるつもりだった。
だが、健太郎は続けた。
「……俺たち、薩摩でも長州でもない。
どこの後ろ盾もない」
玄四郎は、そこで初めて顔を上げた。
健太郎は、まっすぐ見ている。
逃げ腰ではない。だが、虚勢でもない。
「だから、舐められる」
智也が、小さく頷いた。
玄四郎は、味噌汁を飲み干してから言った。
「舐められねぇ場所なんて、今の京にはねぇ」
健太郎は、苦く笑った。
「……そうだな」
沈黙が落ちる。
行灯の火が、少し揺れた。
玄四郎は、飯を食べ終えると、箸を置いた。
「今夜は、ここにいろ」
健太郎が目を上げる。
「……あんたは?」
「同じだ」
「……明日は」
玄四郎は少し考えた。
考えたというより、言葉を選んだ。
「明日は、まだ決めてねぇ」
それは嘘ではなかった。
銀牙が、階下で小さく蹄を鳴らす。
生き物が身じろぎする音。
玄四郎は、耳を澄ませた。
外の気配。
人の動き。
夜の京。
健太郎が、ぽつりと言った。
「……俺は、弟を守りてぇだけだ」
玄四郎は、すぐには返さなかった。
やがて、静かに言う。
「それだけで、十分だ」
健太郎は、少し驚いたように目を瞬かせ、
それから、深く息を吐いた。
智也が、ようやく顔を上げる。
「……兄ちゃん」
健太郎は、何も言わずにその頭を撫でた。
玄四郎は、壁に立てかけた槍を見た。
刃は、行灯の光を鈍く返している。
玄四郎は、目を閉じた。
短い間だけ。
京の夜は、静かに深まっていった。
朝の物音で、智也が先に目を覚ました。障子の向こうが白んでいる。
「……兄ちゃん」
健太郎が身を起こす。
「起きろ。朝だ」
玄四郎はすでに立っていた。外套を羽織り、槍を手に取る。
階下に降りると、土間で女将が鍋をかき回していた。
「早いなぁ。旅の衆は、だいたいもう一眠りするもんやけど」
「癖でして」
「ほな、湯だけ使うてき。今、火ぇ落とすさかい」
短い会話で、用は済む。
裏で銀牙に水をやり、手綱を整える。馬は静かだ。京の朝を受け入れている。
通りに出ると、町はすでに動いていた。
「そこの兄さん、野菜安うしとくえ」「邪魔や、通りなはれ」「昨夜、向こうで揉め事あったらしいで」
声は軽い。昨日のことなど、もう話題の一つだ。
健太郎が、少し肩をすくめる。
「……京は、切り替えが早ぇな」
「早うなかったら、生き残れしまへん」
近くで聞いていた商人が、そう言って笑った。玄四郎は、ただ通り過ぎる。
路地の角を曲がったときだった。
「――あ」
短い声。
昨日の男の一人が、向こうから来るのが見えた。朝の顔だ。夜よりも、ずっと頼りない。
男は一瞬、足を止め――目を逸らした。
「……見なかったことにしときまひょ」
誰にともなく呟き、脇道へ消える。
健太郎が、息を吐いた。
「助かった……のか?」
「逃げただけだ」
玄四郎は言う。
「京じゃ、それで十分なこともある」
通りの先で、荷を積んだ男たちが揉めている。
「そない急かしても、馬も人ももたへんて」「分かっとるがな、せやけど今日中や言われとるんや」
言葉の端々に、焦りが滲む。
銀牙が、足を止めた。
『……匂うな』
「……ああ」
玄四郎も気づいていた。昨日と同じ、火薬の匂いだ。
昨日と同じ火薬の匂いだった。
玄四郎は足を止めなかった。だが、銀牙の歩調がわずかに変わる。石畳を踏む音が、ひとつ遅れる。
「……裏か」
健太郎が小さく言う。通りの喧騒の向こう、家並みの切れ目から、細い路地が伸びている。
路地の奥で、男たちが荷を下ろしていた。木箱が二つ。縄を解く手つきが早い。通りに背を向け、周囲を気にしている。
「おおきに。急ぎやさかい」
京の言葉だ。だが、声が低い。商いの声ではない。
玄四郎は銀牙を少し寄せ、路地の入口を外した位置で通り過ぎる。視線だけを、箱に落とす。
角の欠けた木。昨日見たのと、同じ作りだ。
健太郎が、息を詰める。
「……あれ、まさか」
「声、落とせ」
玄四郎はそれだけ言った。
男の一人が、ふと顔を上げる。白い馬と、外套の浪人。一瞬、目が合う。
次の瞬間、男は視線を切った。何事もなかったように、縄を結び直す。
銀牙が、低く鼻を鳴らした。
『……見られたな』
「見せただけだ」
玄四郎は歩みを緩めない。路地を過ぎ、通りの人波に戻る。
背中に、視線が残る。
それを振り払うようなことはしなかった。
健太郎が、並んで歩きながら小さく息を吐いた。
「……気づかれましたよね」
「ああ」
短く答える。
「でも、止めませんでした」
「止める理由が、まだねぇ」
通りの先で、荷を担いだ男が声を張る。
「道あけてぇな、通るえ」
京の言葉が、空気を押し流す。玄四郎はその流れに身を任せ、歩く。
角を一つ曲がったところで、銀牙が首をわずかに振った。
『……数は多くない』
「場所も、限られてる」
『昨日より、慣れてる手つきだ』
玄四郎は、歩調を変えないまま言った。
「京に根を張ってる連中だ」
健太郎が眉を寄せる。
「……じゃあ、俺たちが昨日止めたのは」
「端だ、流れの外れ。だが、外れでも血は出る」
通りを抜け、橋のたもとに出る。川面が光を返し、朝の気配が少しだけ強くなる。
玄四郎は、ここで初めて立ち止まった。
「今日は、別れる」
「……ここで?」
「ああ」
健太郎はしばらく黙り、やがて頷いた。
「分かりました。……昨日のこと、忘れません」
玄四郎は銀牙の手綱を引き、向きを変える。
「どうでもいい、だが、思い出すな。 生きるのに、邪魔になる」
そう言って別れたあとも、玄四郎の足取りは変わらなかった。
橋を渡りきると、川音は背後に溶け、代わりに町の気配が濃くなる。布を払う音、桶に水を落とす音、朝の呼び声。
銀牙が歩調を少しだけ落とした。それに合わせて、玄四郎も自然に速度を緩める。
「……まだ、残ってるな」
『ああ。昨日より、はっきりしてる』
鼻先をわずかに振る仕草に、警戒が混じる。
通りを一つ抜けると、荷を下ろす男たちが目に入った。声は京の調子で軽い。だが、手は忙しく、周囲を気にしている。縄を締め直す癖、箱の角を避ける動き。昨日見たそれと、同じだった。
銀牙が小さく息を吐く。
『覚えたな』
「ああ。忘れねぇ」
玄四郎は視線を上げなかった。覚えたからといって、今すぐ何かをするわけじゃない。京は、そういう早合点を嫌う町だ。
荷を下ろす男たちの脇を、白い馬が静かに抜ける。
銀牙が首を低くし、通りの石を踏む。
『この町、表と裏の切り替えが早ぇ』
「遅かったら、死ぬ」
言い切りだった。経験でも、教訓でもない。ただの事実だ。
朝の光が、家並みの隙間から差し込む。
玄四郎は歩きながら、通りの奥を測る。幅。人の数。逃げ道。視線は動かさず、感覚だけで拾っていく。
『……昨日の連中とは、違うな』
「ああ。手が慣れてる」
通りの角で、銀牙が一度だけ立ち止まる。耳が、微かに動く。
『向こうだ』
「分かってる」
玄四郎は脇道へ入り、白い馬を人波から外した。
「……今日は、ここまでだ」
誰に言うでもなく呟く。
『珍しいな』
『珍しいな』
銀牙の声には、ほんのわずかに探る色があった。玄四郎は答えず、脇道を抜けた先で手綱を緩める。
「今日は、見ただけでいい」
裏道をいくつか抜けると、小さな社が見えた。参道は短く、石段も擦り切れている。人の寄らない社だ。玄四郎はそこで馬を止め、地に降りた。
境内に、人影があった。老いた男が一人、箒を動かしている。京の言葉で、小さく鼻歌。
「兄さん、通り道やろ。参ってきはるか」
「邪魔せん」
「ほな、ええ」
会話はそれで終わる。老爺は箒を止めなかった。
銀牙が鼻を鳴らす。
『ここ、静かだ』
「ああ」
静かな場所は、考えを整えるのに向いている。玄四郎は外套の前を合わせ、社の奥を一度だけ見た。
振り返ると、若い男が一人、境内の端に立っていた。町人の格好だが、目が落ち着いていない。
「……あんた、さっきの通りにおったやろ」
「通った」
玄四郎は否定しなかった。
男は一瞬、言葉に詰まり、それから続けた。
「頼みがある。 ……話、聞いてもらえるやろか」玄四郎は一歩、距離を詰める。
「話は短く頼む」
男は、安堵とも焦りともつかぬ息を吐いた。
「箱のことや」




