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序章 ――薩摩の霧の中でーー



霧は、罪悪感のようにまとわりつく。振り払おうとすればするほど、足首に絡みつき、呼吸のたびに肺の奥へ入り込む。薩摩の山間に立ちこめるこの霧は、湿り気を含んでいて、剣の柄を握る手にまで冷たさを伝えてきた。

藤原玄四郎は、その霧の中に立っていた。

立っている、というより――置かれている、と言ったほうが近い。戦が終わったあと、誰の意思でもなく、ただそこに残される人間の立ち方だ。

「……銀牙」

白い馬が、低く鼻を鳴らした。返事とも、ため息ともつかない音だった。

銀牙は霧の中でも異様なほど白く、濡れた鬣がうなじに張りついている。馬であるはずなのに、その眼差しだけは、玄四郎よりもずっと多くのものを見てきたように落ち着いていた。

「見たか。あれだ」

霧の向こう。倒れ伏した男たち。血と土と鉄の匂い。刀は抜かれたまま、もう振るわれることはない。

薩摩藩士同士の斬り合いだった。尊王だ、倒幕だ、忠義だ――言葉は立派だったが、最後に残ったのは、地面に染み込む赤だけだ。

玄四郎は、しばらく動かなかった。怒りがないわけではない。ただ、その怒りが、どこへ向ければいいのかわからなかった。

「なあ、銀牙。正義ってのはさ」

馬は黙っている。それを承知で、玄四郎は続けた。

「剣で斬れば守れるもんだと思ってた。槍を振るえば、悪は退くと思ってた。……だが、斬った先にいるのが、昨日まで隣で飯を食ってた奴だったら、話が違う」

霧が少し、流れた。その隙間から、若い藩士の顔が見えた。まだ髭も生え揃っていない。目は開いたままで、何か言いたげに空を見ている。

玄四郎は目を逸らした。

「俺はさ、侍ってのはもっと格好いいもんだと思ってたんだ」

誰に言うでもない独白だった。いや、正確には――誰にも聞かれないことを前提にした言葉だった。

銀牙が、ひとつ前脚を踏み出す。霧を踏むような音。

「……わかってる。今のは愚痴だ」

自嘲気味に笑ってから、玄四郎は腰の槍を確かめた。血は拭ってある。だが、落ちきらない重さが残っている。

薩摩を出る決意は、ずっと前から胸の底にあった。だが、この霧の中で、それははっきりと形を持った。

藩も、旗も、命令も――すべてが「正しい顔」をして、人を殺す。

「だからさ」

玄四郎は銀牙の首筋に手を置いた。温かい。生きているというだけで、少しだけ救われる。

「俺は、俺の正義で行く」

霧の向こうから、遠く銃声が聞こえた。もう刀の時代は終わりつつある――誰もがそう言い始めている。

だが、玄四郎は槍を選んだ。時代遅れだと笑われても構わない。

守りたいものが、まだ形を失っていないうちは。

銀牙が、ゆっくりと首を振った。賛同か、呆れか、それとも両方か。

「安心しろ」

玄四郎は馬の耳元で囁く。

「俺は、狂わない。……たぶん」


霧の中を、白い馬が歩き出す。その背に、浪人がひとり。


・・・

慶応三年。

京都の街には、いつからか血の匂いが染みついていた。

幕府の佐幕派と、尊王攘夷を掲げる志士たちが、路地という路地で刃を交えている。

夜になれば銃声が混じり、朝になれば血の跡だけが残る。

刀の時代が終わる――そんな言葉が、現実味を帯び始めていた。

その動乱の都に、ひとりの浪人がいた。

名を、藤原玄四郎という。

元は薩摩藩の下級武士だった。だが、主君同士の内紛に巻き込まれ、気づけば藩を追われる立場になっていた。

三十を過ぎた今も、背筋は自然と伸びている。顔立ちは整っているが、愛想はない。

何より目立つのは、その目だった。熱を帯びすぎている、と言ったほうが正しい。

玄四郎は、古書肆で手に入れた一冊の本を、何度も読み返していた。

『忠臣蔵』の異本。

それに混じって、海外から密かに持ち込まれたという騎士道物語の写本。

忠義。

正義。

巨大な悪に、ひとりで立ち向かう騎士。

物語に描かれたそれらを、玄四郎は疑いなく受け取った。

疑うという発想が、そもそもなかった。

「我は遊侠の騎士なり。悪しき者を討ち、民を救う者なり」

誰に聞かせるでもなく、口にする。

自分に言い聞かせているのか、名乗っているのか、その違いは玄四郎自身にも分からない。

旅支度は、手慣れたものだった。

広い笠を被り、灰色の外套を羽織る。腰には愛刀。

手に取ったのは、長い槍――薙刀を改造したものだ。

選んだ理由に、深い意味はない。

ただ、それが一番「騎士らしい」と思えただけだった。




  ・ ・ ・


薩摩を離れて三日。街道はまだ土の匂いを残し、宿場も人の気配が薄い。

世が変わろうとしている――その実感だけが、先に歩いている。

玄四郎は銀牙の背で、外套を引き寄せた。夜気が骨に染みる。霧はもうないが、その代わりに、胸の奥に残ったものがある。

「……どうにも、胸騒ぎが収まらねぇな」

独り言は低く、抑えた声だった。

『『今さら気取っても仕方ねぇだろ』』

銀牙の声は、頭の奥に直接響いた。

「……やっぱり聞こえてやがるか」

『『最初からな。お前が無視してただけだ』』

玄四郎は、鼻で小さく笑った。他人に見られれば、白馬に話しかける気味の悪い浪人だ。

だが、今はそれでいい。

街道脇に、壊れた荷車が転がっていた。木箱が割れ、中身が散らばっている。

――銃弾。

鉛の弾丸が、土に半分埋もれている。新しい。つい最近だ。

玄四郎は銀牙を止め、地に降りた。膝をつき、弾を拾う。

「……こいつは、戦で撃たれたもんじゃねぇな」

火薬の匂い。戦場のそれではない。運ばれていた匂いだ。

『『嗅ぎ慣れてる匂いだな』』

「薩摩じゃ銃は珍しくもねぇ。だが……これは違う」

箱の内側に刻まれた、見慣れぬ印。文字ではない。記号のような――龍の尾に似た曲線。

胸の奥が、静かに冷えた。

「……黒い、龍、か」

口にした瞬間、風が吹いた。偶然だ。だが、偶然にしては、出来すぎている。

『『名を口にすると、寄ってくるもんだ』』

銀牙の声は軽い。だが、その奥には、確かな警戒があった。

玄四郎は立ち上がり、街道の先を見た。この道の向こうに、京があり、江戸がある。

銃が運ばれ、人が死に、正義が、誰かの懐に流れ込む。

「……世の中、汚れちまったな」

薩摩も、長州も、幕府も――皆、表では「国のため」を掲げている。

玄四郎は、弾丸を握り込んだ。

「だがよ……誰が泣くかまでは、決めさせねぇ」

守るべきは、藩でも、旗でもない。名もなき者が、理由もなく殺される流れそのものだ。

銀牙が一歩、前に出る。

『『腹は決まったか』』

「ああ」

短く、だが迷いはない。

「こいつを流してる奴を止める。 名があろうが、翁だろうが、化け物だろうが関係ねぇ」

槍を背に負い直す。その重さは、先ほどよりも軽く感じられた。

「正義だの理想だのは言わねぇ。 ただ――気に食わねぇんだ」

それで十分だった。

『『浪人らしい答えだ』』

銀牙の声に、わずかな笑いが混じる。

「褒め言葉として受け取っとく」

白い馬は、再び歩き出す。その背に、行き先を決めた男を乗せて。


黒龍の翁――


時折耳にするその異名

確実に、世界の裏側で息をしている何者か。

俺はそいつに会わなければならない。それは大それた理想ではなく、どうしようもなく個人的な嫌悪から始まっている。

だからこそ

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