第50話
「引け!引き上げろ!」
暗くて相手の顔は解らないが、明らかに九十朗の声だった。辺りを見透かすと、道ばたに膝をついた恩師の、弱々しい姿が映った。
「先生!;大丈夫ですか、戸板を借りてきます。気を確かに」 「まて!平助、不覚を取った。戸板は嫌だ、肩を貸せ」
師の力強い声を聞き、平助が肩を師の前に落とし背負った。
気を張っているためか、大きいと思っていた恩師の体が軽く感じられ、そのまま道場まで走った。
雪路と奥様が、血まみれの恩師に縋ろうとするのを制し、平助が傷を調べると深手だった。これほどの深手を負い、大量の血を流し、よくぞ生きて居られるかと思えた。慌てて医者を呼び、手当てを受けたが、平助には気休めに思えた。その時、気を失っていると思っていた恩師が、平助に顔を向けた。
「平助よく聞け、俺はすぐ死ぬ。だが、慌てて敵討ちは考えるな。
相手は藩の重臣のご子息だ。それに相手も何人か手傷を負っている。奴等は俺が死んだ後、必ず又、向こうから仕掛けてくる。町方も役には立たぬ、お前が守る他はない。それまで力を溜めておけ。
俺は相手の中に半弓を使う者がいて、その者に気を取られ、不覚をとった。平助、剣客はどの様な不意打ちを食っても、不覚を取れば負けだ、いい訳にはならぬ」
父の声は少しずつ弱まって来たが話を続けた。
「文四郎、お前は剣は嫌いだったな。お前は好きな学問に励め、雪路は平助を大切にするのだぞ。平助、お前が頼りだ、後を・・・」
これが雪路の父の最後の言葉になり、二日後に逝った。
幸薄く生まれた平助は、何度か悔しい思いはしてきたが、これほど悔しい事は無かった。九十朗の屋敷の側で待ち伏せ、九十朗に死ぬ以上の後悔をさせてやりたいと思った。だがそれを決行すれば、恩師との最後の約束を果たせない。
三月ほどが過ぎた時、「必ず奴等は傷が治れば、何か仕掛けてくる」と言い残した恩師の予言通り事は起った。門弟達が帰り、平助は裏の小さな野菜畑で人参を掘っていた。
そのとき道場に、破門された九十朗が四人の仲間を従え、上り込んで来た。
「頼もう。先生はどうなされた。体の調子でも悪いのですか」
九十朗が薄笑いを浮かべ、見え透いたお世辞を言って雪路の肩に手をかけた。
「ご無体な、ここはもう貴方がたの来る所では御座いませぬ」
「冷たいことを言われる、せっかく見舞いに来て上げたのだ、もう少し優しく向えて下されても、罰は当たりますまい」
九十朗の卑しげな目の光に気ずいた雪路は、壁の小太刀に駆け寄ったが、小太刀を持たせれば面倒と阻まれ、素手では男の力に叶わず、すぐに押さえつけられた。
肌をさまぐられ、たまらず雪路は悲鳴を上げた。畑で雪路の悲鳴を聞いた平助は、師の遺品となった長刀を鷲掴みに駆けつけ、目の前の、あられもない雪路の姿に激怒し、五人を蹴散らした。
「下郎め、よくも武士を足蹴にしたな。許さぬ直れ」
「畜生どもめ、貴様等の来るのを待っていた。叩き斬ってやる」
言うより早く怒り狂った平助は、五人の真っただ中に斬り込んだ。二人を倒し、三人目を斬った時、九十朗が叫んだ。
「下郎動くな、刀を捨てろ」
見ると九十朗が雪路の髪を掴み、首に刀を当てていた。平助は目の前の一人に、刀を構えたまま動けなかった。刀を捨てたら前方の相手が自分を斬り、九十朗の思い壷だ。
「捨てろ、捨てないのなら斬る。脅しだと思っているのか」
九十朗は雪路の首に当てた刀に力を入れた。雪路の白い首筋に一筋の血が流れた。たまらず平助が叫んだ。
「待て、待ってくれ、捨てる、刀は捨てる」
それを聞いた雪路が必死で叫んだ!
「平助、捨ててはならぬ、捨てたら負けです。雪路を斬らせて父上の仇を」
雪路が必死で叫んだ時だった。夫の死後、臥せっていた雪路の母が、懐剣を胸に構え、九十朗の背中に体当たりして来るのが見えた。
平助は前の敵を一太刀で倒し、九十朗に駆けよりざま、斬り捨てたが一瞬遅く、奥様は九十朗の最後の一太刀を浴びていた。
「母上!気を確かに母上、雪路さまはお陰で無事です」
「平助か、私を母と呼んで下されたか、平助、今から私の話すことを聞きなさい。まずこの者たちに止どめを刺し、死体を隠しなさい」
見ると背中に母の懐剣が突き刺さり、平助の一太刀を浴びた九十朗が這って逃れようとしていた。命乞いをする九十朗に、身震いが出るほど冷たい笑いを浮かべた平助が「御主人の仇!」と叫び斬り捨てた。
雪路と文四朗に、支えられる様に抱かれた瀕死の母は、五人の屍を指差した。
「この者達はいずれも、大身のご子息達だ。事が明るみに出れば、すぐ多くの討ってが繰り出される。平助、死体を隠し終えたら、雪路と文四朗を連れ、私に構わず江戸に逃れなさい」:
健気に言い切る母に、文四朗がたまらず。
「母上も一しょうに、江戸に参りましょう」
「文四郎、未練です。母は武門の家に嫁いだ時から、覚悟は出来ています。雪路を守り、主人の敵も討てた。母に思い残す事は無いが、お前達の足手纏にだけは、なりたくない。平助、雪路と文四朗を頼みましたぞ、早く行きなさい」
言い終わった母は、まるで三人を急かせるかの様に息をひきとった。平助と文四朗で、五人の屍を床下に隠し、雪路が血で汚れた床を拭い終ると、平助は泣きながら奥様の骸を背負い、恩師の眠る墓地に向かった。平助が涙を見せた事は、その後、二度となかった。
新しい父の墓標の側に母を埋め、手を合わせた三人は、生まれ育った仙台を後にしたのは、文四朗が又三郎と出会う、八日前の事だった。
話が平助の生い立ちに反れていたが、新居で雪路と寝床を並べて休むことになった平助は、戸惑っていた。
「平助は雪路を妻に迎える事は嫌なのですか」
突然、雪路に言い寄られた平助は驚き、頭が真っ白になった。平助にとって雪路は、憧れの姫君だった。
煮え切らない平助に、三歳年上の雪路がすねて見せた。
「平助の卑怯者、雪路にばかり恥ずかしいことを言わせて、雪路が嫌いなら、どこかに行ってしまいなさい」
「・・本当にいいのですか平助で、私は初めて雪路さまにお会いした子供の頃から、雪路さまに憧れていました。あの時は、余りにも惨めな自分に比べ、この世の人とは思えぬほど、あでやかな雪路さまに心ならずも、憎まれ口を叩いてしまいました」
「雪路は平助が思ってくれるほど美しくも無いし、気位ばかり高く、可愛いくありませぬ。この世で平助だけが雪路を、甘えざせてくれる人だと思っています」
やっと主従の垣根がとれた。一月後、想い会う二人は道場の関係者に祝福され挙式を挙げた。
その夜の二人は人が見れば、吹き出すほど滑稽だった。並んで床に入った初心な二人は、何もせず時が過ぎ、年上の雪路が平助に誘いをかけた。
「平助、何かなさい。このままでは困ります」
平助も男だ、こんな時に成すべき事はおぼろげには解っていたが、それは余りにも露骨で、何も知らない雪路には、余りにも残酷で無礼に思えた。そんな平助に雪路は、年上らしくふる舞った。
雪路は平助の手をとり、我が胸に誘い入れた。たまらず平助は雪路の薄い胸をさぐろうとした。その瞬間雪路は、「ああ!」と叫び、その手を払い退けた。
「し、失礼を致しました」
平助は咄嗟に手を引いたが、その手の平に、柔らかい小さな膨らみの感触が残った。
「ごめんなさい平助、雪路が悪いの。恥ずかしくって、でも今度は大丈夫、もう一度なさい」
と雪路にせがまれたが、平助は躊躇していた。
「こんな場合、男の平助が、雪路の上に重なれば良いと思うが?」
雪路に急かされた平助は、恐る恐る身体を重ねたが、今度も雪路は悲鳴を上げ振り落とした。
「ごめんなさい平助、もう一度、今度は雪路も頑張ります」
男に火のついた平助は「はい」と答えると飛び乗っていった。だが今度も平助は、振り落とされた。
火の様に燃えた平助は溜まらず言った。
「少し大人しくしていて下さい。平助は、暴れ馬は苦手です」
「ひどい、化け物で始まって、暴れ馬ですか」
純な二人は、その夜、何度も挑んだが、果たすまでには至らなかったが、少しずつ創意工夫を重ねて行くだろう。




