第39話
「おい文四朗、又腕を折って欲しいのか」
文四朗は相手にしなかったが、隣の席に座っている鉄平の拳が、怒りに震えているのに気がついた。鉄平の父は浪人で家は貧しいが、鉄平の才を見込んだ塾長が引き取り、内弟子にした。文四朗も暇を見て、遅れている鉄平の学習の手伝いをしていた。その鉄平が堪らず立ち上がり。
「静かにしろ、先生に無礼であろう」
横暴な金四郎の振る舞いに堪りかね、鉄平が叫んだ。
「なんだと鉄平、うぬは誰に向かって口を利いている。うぬの親父は貧乏浪人で傘張だったな、一日傘を張っても、三合の米も買えないのだってな。この塾はお前の様な下郎の来る所ではない、消えろ」
鉄平は堪忍袋の緒が切れたのか、飛び掛かろうとしたが、文四郎が止めた。
「バカ息子には、相手にならん方が良い、バカ親父が怒ってくる」
文四朗の声は、当然金四郎たちにも聞こえた。
「うぬら許さん、半殺しにしてくれる」
いきり立つ金四郎を尻目に文四朗は、鉄平の手を取り表に逃げ出した。文四朗は刀掛けから用意していた木刀を持ち出すのも忘れなかった。金四郎達が跡を追い、その後から平助が続いた。塾の裏手に来た時、文四朗は振り返り、金四郎達を待ち受けた。
文四朗は金四助の構えを見ただけで勝ったと思った。わずかな間だったが、又三郎達に仕込まれた文四朗の剣は、学問塾の塾生などの及ぶ所ではなかった。だが文四朗の出るまでもなかった。鉄平が、文四朗の持っていた木刀を奪う様に握ると、追ってきた金四郎達を睨みつけ、「叩き殺してやる」と叫び、刀を抜いた金四郎達の真正面から殴り込んで行った。剣技はともかく鉄平の迫力は凄かった。陰から見守っていた平助が、心配して付いて来ていた美鈴に言った。
「大丈夫、心配いらない。貴女の見るものではない、帰りましょう」
平助がそう言ったが、美鈴は心配だった。だがその時を境に、金四朗は二度と塾には顔を見せなかった。見ていた者の話では、腕を叩き折られ、落とした刀を拾うのも忘れ、侮様に逃げ帰った、あれでは、親にも話せないだろうと言っていた。
貧しい浪人の子に生まれた鉄平は、これまで、友と呼べる者が居なかった。師の情けで此の塾に入ることが出来たが、いつも肩身の狭い思いをして居た。そんな自分を文四朗と美鈴が、庇ってくれた。この鉄平がこの先、この塾を継いだ文四朗の片腕となり、お互い生涯の友となった。
数日後、塾長夫婦が雪路を訪ねてきた。
「姉の雪路でございます。いつも弟が、ご迷惑をお掛けして申し訳ございなせぬ」
「塾長の榊原でござる。ぶし付けでござるが、文四朗を美鈴の婿として迎えたいのだが、お許しを願えないだろうか、出来れば榊原の姓を継いで貰いたいが」
「身に余る突然のお話に、お礼の言葉もごさいません。文四郎には、この上ないお話です。文四朗の身の振り方を心配していた、亡き父上も、きっと安心される事でしょう」
こうして又、一人、この駆け込み寺の様な道場を巣立って行った。
始めての門弟一馬の剣も、皆が驚くほど冴えを見せていた。それに仕事で稼ぐ金子の半分を、母に届けることも出来た。
そのとき馬に乗った若い男女が、道場の敷地に入って来るのが見えた。取次ぎに出た雪路に、又三郎との手合わせを申し込んだ。又三郎は、おもむろに咳払いを一つして格好を付け。
「当道場の主、草薙又三郎です。良く来て下された」
「それがし前田家藩士、白根精十郎でござる。この者は妹の八重で、先日、名主殿から貴殿の噂を聞き、ご指南いただきたく参り申した」
板橋は宿場町で、武家屋敷のほとんど無い所だが、加賀の前田家の江戸屋敷は有った。だが又三郎は当てにしていなかった。
名も無い場末のこの道場に、誇り高き百万石の、前田家の侍が、出向いて来るとは思っていなかった。前田家の侍が時々顔を見せてくれれば、この道場の格が上がる。又三郎は内心緊張していた。雪路が掛け金を入れる盆を差し出した。
「一手指南ならお心ざしを、賭け試合なら先生が負ければ、五倍お払い致します」、
「兄上、賭け試合に、なされませ、勝てば儲かります」
雪路に劣らぬ、勝気そうな妹の八重が言ってのけた。
「賭け試合とは恐れ多いが、妹はこの通りの女丈夫でござる。お受け下さるか」
「望む所です。ごらんの通りの貧乏道場、今夜の飯代にも事欠く次第、助かり申す」
「ずいぶん自信がお有だこと、一分賭けます。余り多いと兄上が勝った時、お気の毒です。でも五倍返しは大丈夫ですか」
勝気では八重も、雪路引けは取らない。
「失礼とは思いますが手始めに、我が道場の新星、白井一馬と手合わせ願います」
「了解、お頼み申す」
「一馬、心して行け、負けたら掛け金は自分で払え」
一馬は驚いた。一馬はまだ、賭け試合の相手を申し付けられた経験は無い。それがいきなり、列記とした武士との賭け試合だ。
一馬はまるで真剣勝負の様に真剣だった。白根と名乗った育ちの良さそうな藩士は、技量では明らかに一馬より、一枚上に見えた。
だが一馬は、広場を必死に逃げ回りながら応戦している。無理も無い。一馬にとって一分の五倍返しは大変だ。絶対負ける事は出来ない。勝負は着かず、遂に引き分けに持ち込んた。
「良し一馬、負けなかったのは上出来だ」
「そうかしら、負けそうになると逃げていただけ、身びいきです」
勝気な妹の八重が、不服そうに言った。
「大目に見てやって下され。貧乏な彼には真剣勝負も同じです」
少し休んで白根は、又三郎と立ち会った。白根も自信が有って挑んで来たのだが、幾度か修羅場を越えた又三郎の剣と、飢えを知らない白根の剣には明らかな差が出て、余裕で又三郎は一太刀決めた。
白根が潔く木太刀を引いて礼をした。
「兄上、ふ甲斐ない。今度は八重がお相手します」
そう言ってまた一分を、雪路の差し出す盆の上に載せた。
「八重様のお相手は、この雪路がさせて戴きます。先生ではお気の毒です。掛け金を、どぶに捨てる様なものです」
今度は雪路にあおられ、不満そうな八重に又三郎が言った。
「この雪路殿は小太刀の名手だ。江戸は広いが、これほどの小太刀の使い手は居ませぬぞ、心して掛かられい」
「望むところ、その様な相手を八重は、求めていました。いざ」
二人はいい勝負だったが、最後は雪路が決めた。雪路は白根と名乗ったこの武士は、妹の気位の高さや、乗り着けた二頭の馬が、揃って毛並みの良いのを考え合わせ、相当な家柄の御子息だと思った。
「参りました。悔しいけれど二人揃って負けました。久しぶりに気持ちの良い稽古をさせて戴きました」
気位の高い八重も、潔く負けを認めた。
「こちらこそ助かります。門弟のほとんど来ないこの道場は、賭け試合に来て下さるお方は、とても有りがたい御得意様です」
「御得意様と、呼ばれたくは有りませぬが、草薙道場は強いのが揃っていると名主が言っていた、それ以上です。これから時々、寄せて頂きます」




