第37話(八) 若鷹達の羽ばたき
「一馬は父上の血を引き、剣の修行がしたいのですね。恐れていては何も出来ないが、気をつけるのです」
「はい、確かなことが解るまで気は許しませぬ。又三郎様が弁当を作って下さいました」
吉野が開いた弁当には、三個の握り飯と(うなぎ)が入っていた。
「この様な高価なものを、どうして?」
「又三郎様は鰻取りの名人だと自慢しておられ、川で捕ってきたから、縁量は要らぬと言われました」
それを聞いた母の吉野は、なんと無く道場主の人柄が解った様な気がして、少し安心した。
次の日、朝早く道場についた一馬は、炉を囲み仕事の打ち合わせをしている人達の、邪魔にならぬよう話を聞いていると、井戸掘り人夫が足りない様子だった。一馬がすかさず声を掛けた。
「私でよければ使って下さい」
「井戸掘りは危ないぞ、それに五日ばかり泊まりだぞ」
「母上に当分帰れないと、知らせたいのですが」
それを聞いた雪路は、一馬の母に一度会いたいと思った。一馬が毎日道場に通うには本郷からは遠い。仕事で稼ぎながらは、なおさら厳しい。内弟子の様な形になることを一馬の母と相談したいと思っていた。
「母上には私が知らせます。気を付けるのですよ」
皆を送り出し雪路は、一馬から聞いてきた本郷の長屋を訪れた。長屋は奥行き二間の裏長屋で、障子を開けると中は丸見えで、母の吉野が、娘らしい少女に縫い物を訓えていた。
「ごめん下さい、板橋の草薙道場から参りました、雪路と申します」
吉野は驚いた。今朝一馬を送り出したばかりなのだ。
「一馬の母です。一馬が何か間違いでも?」
「驚ろかせて申し訳ご座いませぬ。せっかくご子息が稽古に来られたのに、急に他の仕事に行って頂くことになり、五日ほど仕事先で泊まる事となりました。母上様が心配なさると思い、お知らせに上がりました」
吉野はほっとして、あらためて雪路を見た。普段着に紺の袴を着けた地味な姿だったが、この様な裏長屋には場違いなほど気高く、美しく思えた。
「申し遅れました、母の吉野で御座います。昨日は一馬がお世話になりました。お弁当まで頂き、喜んで帰って参りました」
「今日私がお伺いしたのは、一馬殿を内弟子として私に預けて戴きたく、母上様のお許しを頂きに参りました」
「有り難いお話に驚いています。この様な貧乏な家の倅を門弟に加えても、何の徳にもならぬのに、不思議で怖いほどです」
「心配されるのは、ごもっともだと思います。剣の指南料は、稼ぎの中から戴きます。この私も、わずか三月前、あの道場の方達に、弟と供に助けられ、そのままお世話になっています。初め私も、怪しげな人達の出入りする、あの道場を疑い、何か(企み)が有るのではと心配しておりました」
「雪路様、夕べ一馬と話しました。今の私たちは、又三郎殿を信じて前に進む他に、道はございませぬ」
そう強気に言い放った吉野だったが、なんども頭を下げ、一馬を頼むと雪路にすがった。
「今の私は、道場の方達を誰よりも信じています。お母様は‘蛙’を召し上がったことが有りますか。先日又三郎殿が、苦しい旅路の果てに、やっと二年前この地に根を下ろしたと、話しておられました。あの道場の人達は、泥水をすすり、蛙まで食べ、生き抜いてきた人達です。誰よりも人の痛みの解る人達だと、今は私も思っています」
聞き終わって吉野は、目の前にいる、この純粋な娘心を動かせた、
又三郎と言う男の、実像が見えた様な気がした。
雪路は一馬を、門弟に欲しい訳を正直に話した。
「地元の人達にまだ信用の無い草薙道場には門弟が来ません。
ご子息の様な、純粋に剣客を目指す若者が来てくれれば、安心して後に続く若者が現れる様な気がします。それが道場を任された私の、打算です」。
「一馬は、体の弱い私に楽をさせようと、毎日仕事を求め町に出ます。でも年端もいかぬ一馬を使ってくれる所は、ほとんど有りませぬ。いつも疲れて帰ります。憧れていた剣術道場の先生に、その様に望まれ一馬は、夢を見ている様だと思います。今日は仕事をさせて頂き、きっと喜んでいると思います」
返り道、雪路は父の言葉を思い出していた。
「多くの門弟は居たが、骨の有るのは平助だけだった」
父が平助の成長に夢を抱いた様に、一馬に期待する雪路だった。
(八) 若鷹達の羽ばたき
雪路の弟の文四朗は、剣客の父の元に生まれたが、学問好きで剣術嫌い。父や雪路に剣の修行を勧められても、本ばかり読んでいた。
姉の雪路が捕らわれの身となったとき、下男の平助に比べ、己の不甲斐なさを後悔したが、喉元過ぎればで、又本ばかり読んでいる。そんな文四朗に又三郎が話しかけた。
「文四朗、お主、本ばかり読んでいて、よく姉上に叱られているが、そんなに本が面白いか?、何かの役に立つのか」
「本から多くの事を学びました。私はもう、どこででも買える本から学ぶ事は無くなりました。立派な先生の居る学問塾で、もっと新しい事を学びたい。でもそれは叶わぬ夢です」
柄にもなく文四朗が、胸の思いを真面目に語った。又三郎は文四朗には何か、自分にないものが供わっている様な気がしてきた。伝八郎や源十朗から学んだ、生き抜くための術や、人の生き様や死に様とは別の何かが、文四郎には供わっている様に思えた。
「金子は有る。仙台の道場を売った金子だ。学問塾に入れば良い」
文四朗は又三郎を、不思議なものを見る様に見詰めていたが、
「あの道場を売った金子は、姉上を救って戴いたお礼に貰って戴いたものです」
「雪路殿や平助が、良く稼いでくれる。お前はここに居ても邪魔だけで、何の役にも立たん。学問塾に行け」
「本当にいいのですか、姉上に相談してきます」
文四朗はよほど学問がしたかったのか、喜んで姉のもとに駆けて行った。しばらくして雪路が、文四朗を伴い又三郎の前に立ち、一礼して我侭な弟を詫びた。
「雪路殿、一人ぐらいこの道場から、学者様が出ても良いのではないか。お父上の道場が、剣術嫌いの文四朗の役に立てば、お父上も草葉の陰で喜んで下さるだろう」 「有難うございます。お世話になっても、何のご恩返しも出来ませぬが、父も文四朗の剣術嫌いを案じて居りましたが、死に際に、‘お前は学問の道に進め’と、文四朗に言って亡くなりました。又三郎殿のご好意に付け込み、心苦しいのですが、文四朗も十八に成りました。学問もこの時期を逃せば、大成することは望めないでしょう。
厚かましくご好意に甘えさせて戴きます。」
雪路も文四朗のことは、気になっていたが、故郷を逃れ、生き抜くだけが精一杯だった。‘文四朗はこのままで良いのか?’、と思っていた矢先、思いがけない又三郎からの助言に、改めて又三郎の見識の広さに気が付いた。雪路は又三郎が、幼い頃から流浪の旅を続けて来たのは知っていた。そんな又三郎が、誰もが持ち合わせないほどの教養を、いつの間に身に着けたのか?、改めて又三郎を見直す雪路だった。
「文四朗、ご恩を忘れてはなりませぬぞ。剣も同じだが、立派な先生の居られる塾を見つけ、いつか御恩に報いるのです」
「はい必ず。私にとって又三郎様は、神様です」
普段から、口の減らない文四朗だったが、よほど嬉しかったのか、
又三郎を神様に祭り上げた。
こうして文四朗は憧れていた、江戸一番の学問塾に、内弟子の形で入門した。それから一年、塾長が、もう私には授けるものは無い、と言うほど文四朗は天才だった。塾長は、末は一人娘の美鈴の婿に迎え、跡継ぎにと望むほどだった。
だがそれを耳にした先輩の塾生達の、文四朗えの風当たりは強かった。塾生の多くは、列記とした大身の子息で、刀も差さぬ文四朗を軽く見ていた。その文四朗が見る見る内に自分達を追い越し、皆が憧れた美鈴の婿に望まれている。この江戸で一番の学問塾の後継者を、文四朗は約束された事になる。
武家の子息も、次男三男ともなれば冷や飯ぐらい。この塾の後継者と、美人の美鈴を手にする事は、自分の生涯を保証された事になる。それはこの塾に通う者の、もう一つの夢でも有る。
それをどこの馬の骨とも解らぬ、後から来た若造にさらわれそうになり、後継者を狙っていた者達の文四郎いじめが始まった。
文四郎が剣の使えないのを良い事に、やりたい放題、特に美鈴の前で執拗に文四朗を辱しめた。




