7.重なる海影
雨風に吹かれて、風鈴が乱暴に叩かれている。止みそうにない雨の中、二人で和傘の中から抜け出せないのはシチュエーションとしては最高。だが、状況が状況なだけに気まずさからは抜け出せない。
「小さな浜辺で、澪と遊んでた」
汐の声が、波のように揺れる。濡れた前髪に、雨水が一筋、鼻筋を通り抜けて顎から伝って落ちた。雨雲を見る汐の目はうつろだった。
「水面に映る影が、二つ。でも、やがて一つになった」
その言葉に、胸が凍る。淡々と、まるで人ごとのように語る汐。水面に映る影。二つが一つに。その意味するものを理解するまでに、少しの時間がかかった。
「影は、一つになった。それを、ただただ見てた」
まるで汐の言葉を遮るように、雨音が強くなる。雨にかき消されないように耳に集中する。だが思いがけない重たい話に、耳を逸らせたくなる。
「でも、だからって澪さんの人格が汐の中に生まれるのって、正直よくわかんないよ」
「あたし、お姉ちゃんだからさ、あたしがちゃんとしてないといけなかったんだよね」
呟いた汐の声に、どこか空々しさを感じた。その違和感の正体に気付くまでには、まだ時間が必要だった。
「小さい頃のことだろ? 汐のせいじゃないって」
「睦は優しいね。優しいから、なんか話し込んじゃった。ごめんごめん。忘れて」
「そんな! ここまで聞かされて忘れられるかよ!」
「いいの。私なんかが姉としているのは、おかしいもんね……」
その言葉に、どこか違和感があった。まるで役割を演じているような。
だけどそれ以上は何も教えてくれなかった。
田川伊田駅までの三〇分間、雨の中自転車を押して、びしょ濡れになっても、目も合わせず口も開かず、ただ亡霊のようにとぼとぼ歩くだけだった。
東犀川三四郎駅まで到着して、一言だけバイバイ、といってくれた後、チャイムとともにドアが閉まった。屋根のないプラットホームで、せっかく車内で生乾きになったTシャツがまた濡れ始めた。
家に帰ると、玄関に見覚えのない靴が置かれていた。誰かお客さんかと思ったが、荷物を届けに来ていた穂香だった。
「睦ちゃん! お邪魔してまーす」
「はーい、お邪魔でーす」
「ひどっ! この前の田植えのお礼持ってきたっちゃ。一緒に食べようや」
「なんでお礼なのに自分で食っとんや」
「まぁ、ええやん。今日の話も聞きたいしさ!」
また噂を流されるのだろうと思いながら、穂香にはなぜか話せてしまう不思議。絶対に誰にも言わない極秘情報だから、バレた時点で罰金を科す約束をして話した。
はじめは両方の汐を受け入れようと意識していたけど、だめだったこと。それは満潮時の汐が実は澪という妹の人格で、本当の汐は干潮時の汐だということを知ってからだということ。両方の汐という概念自体がなくなってしまったことで、汐のことが好きかどうかさえわからなくなってしまったこと。最後だけは帰りのへいちくで関係性を整理するうちにふと思い至ってしまったものだが、これがかなり自分の中では厄介だった。
「なるほどね。長野汐をとるのか、澪さんをとるのか、ってことだね」
「そう簡単じゃなくてさ。澪さんははじめからいない概念上の人格であって。工事が止まらなければもうすぐ消えちゃうわけじゃん? だから好きにならないほうが良いっていうか、本当に忘れた方が良い存在っていうか……。汐はそもそも好きとかそういう存在じゃないっていうか。ていうことは、どっちも取れないっていうか、複雑でわけわからんのよ」
「考えすぎ。シンプルでいいじゃん。長野汐は好きじゃないんでしょ?」
「うん、でも長野汐の澪さん側の人格は好き」
「でもそれは長野汐じゃないんでしょ?」
穂香は軍手についた泥を払いながら言った。風が吹いて、田んぼの水面が波打つ。遠くで白鷺が舞い降りる。
「そうだけど、汐に会わないと澪さんには会えないわけで」
「シンプルに。長野汐は好きじゃない。澪さんは好き。これで間違いないね?」
「うん、まあ、うん」
「じゃあ、残り少ない澪さんとの時間を大切にすべきじゃない?」
「でも、それじゃあ両方の汐を見てないって。都合の良い方しか見てないって」
「違うじゃん。それは、長野汐が両面あった場合の話。それは見たい方だけ見てたら都合の良い方しか見てないっちことになるじゃん。でも、長野汐と澪さんは別の人間じゃん。それは都合の良い方しか見てないことにはならんちゃ」
「全く別とは言い切れなくって……」
「別とは言い切れんって、それこそが睦ちゃんの勝手な思い込みやない?」
「え?」
「長野汐は長野汐。澪さんは澪さん。同じ体を使うけど、別の人なんよ。それを無理やりひとつの人として見ようとするけん、余計にわけわからんくなるんやない?」
「でも、汐自身が二重人格って……」
「違うやろ。長野汐自身が言ったんやろ? 妹の人格が乗り移ってくるって。二重人格やなくて、妹の魂が宿るっていうか。それを睦ちゃんが勝手に二重人格って解釈しとったんやない?」
「そっか……そうだったのかも」
「自分の中で都合良く解釈して、自分の中で決めつけて、それで苦しんどるだけやない? シンプルに考えんと」
その言葉に、今まで見えていなかったものが見えてきた気がした。やっぱり穂香は頼りになる。
「なんでそんなに長野さんにこだわるん?」
穂香がポツリと言った。その声には、普段の明るさとは違う、何かが混ざっていた。
「別にこだわってないよ」
否定する言葉と裏腹に、胸がざわつく。その正体が、汐への想いなのか、穂香の言葉への反応なのか、自分でも分からない。
「まぁ、いいけど。睦ちゃんの幸せなら、それでいいんよ」
差し出すペットボトルの麦茶に、思わず手が触れる。ほんの一瞬の接触なのに、なぜか心臓が高鳴った。
「あ、ごめ……あの、ありがとう穂香。ちょっと整理できた気がする」
「あ、うん。いいよそんなん」
微妙な気まずさに、必死に次の話題を考えるが、後が続かない。別に穂香相手に気を使う必要なんて無いはずなのに。
「私のこと、ずっと『幼馴染』って枠の中に入れて、それ以外の可能性を考えんかったやろ?」
「あ……」
「ほら、図星ちゃ。今回も一緒。長野汐のことを『二重人格の女の子』って枠に入れて、その中で『両方見なきゃ』って悩んどる。けど実際は全然違うかもしれんのに」
「穂香……なんかごめん」
「謝らんでいいっち。むしろ感謝しちょうくらいやけん。おかげで私も気づけたし」
「何を?」
「自分らしさ? 睦ちゃん、私のことどう思っとんやかー」
「え、頼りになって、たくましくて、男らしくて、いつも一緒におって、楽な人?」
「そういうの全部ひっくるめて、私なんよね。それを安心して受け入れてくれる人がおるっち知れただけでも、すっごく嬉しいけん」
「え、なんか泣きそうになってきた」
「なんで泣くと! 泣きそうなのは私やけん! なんで好きな人の恋愛相談のって、たくましいだの言われんといけんのよ! ほんまにもう!」
自分で作り上げた枠の中に相手を閉じ込めて、その中で悩んでいただけなのかもしれない。汐のことも、穂香のことも、町のことも、全部。
二人で笑いながら、穂香が持ってきたせんべいの袋を開ける。穂香の言葉が口の中で醤油と一緒に胸に染みて、本当に泣きそうになった。
次の日曜日。へいちくの車窓から見える山々は、雨が乾ききっていないからか色濃く見えた。
反対運動はいつもどおり行われたが、集会が終わっても穏健派の人々はみんなで集まって名残惜しそうにしていた。輪の中心には汐とそのご両親がいる。汐の実家の牡蠣小屋が正式に解体されることが決まり、年内に引っ越していくことになったそうだ。それを受けて今まで一緒に頑張ってきた反対運動から外れ、引越し準備をすることになったらしい。
それまでも少なからず脱退していったメンバーや、県外から来た活動家と一緒になったメンバーがいたが、汐やその両親が遂に脱退するということで、穏健派は存続の危機に陥った。
「汐がいなくなったら、この反対運動はどうなるんだよ」
「……解散、するしかないですね。みんな、今まで一緒に頑張ってくれて、ありがとうございました。わたしたちは負けたけど、きっとどこかで誰かが見てくれているはずですから。この町は、きっと良くなりますよ。そのためにわたし達は痛手を追うけど、もうしょうがないんですよ。終わりにしましょう」
県外から来た連中が今日はどこで飲もうかと楽しそうに帰っていく中で、灰色の潮風が吹き抜けた。日々積み上がるコンクリートの型枠は、いつしか心の中にも同じような壁を築いていた。潮の香りと、工事の埃が入り混じり、思わず口と鼻を覆う。
「じゃあ、解散」
工事現場から響く重機の音が、かつての声高な抗議の声を飲み込んでいく。汐は黙って横断幕を畳んだ。誰かが「お疲れさま」と声をかけた。それは「さようなら」のように響いた。プラカードが一つ、また一つと、音もなく横たわっていく。工事現場の騒音に、白鷺の群れが飛び立った。
穏健派はその場で解散し、もう二度と反対運動で集まることはなかった。一応次の週の反対運動も見に来たが、穏健派は誰もおらず、ただ騒ぎたいだけの県外から来た行橋のことを知りもしない連中だけが残って、それを無視して工事は順調に進んでいった。汐と初めて会ったあの小さな浜辺は完全にコンクリートの外堀を作られ、後は干からびるのを待つだけだった。
帰ろうとした背後の牡蠣小屋から、男性がひょっこり顔を出していた。汐のお父様だった。
「そっち行ってええかな?」
「ああ、どぞどぞ」
携帯灰皿を持って、俺の隣に腰掛けるお父様。タバコを吸う横顔がなんとなく干潮時の汐に似ていて、親子なんだなと再認識させられた。そういえば、汐は標準語なのに、お父様はバリバリ方言なんだな。
「汐、学校でうまくやれとるか?」
「学校ではクラスが違うので、反対運動のときだけ一緒にいさせてもらってまして」
「ああ、そうだったんか。汐が強引に誘ったんやろ。迷惑かけたな」
「ああ、いえいえ。全然です……」
変に緊張する。別に同じ反対運動のグループにいて、汐の親というだけなのに。
「睦くんは、どこまで知っちょんな?」
その声には、波のような深い響きがあった。
指さした先には、黒ずんだ流木と、腐りかけのロープ。その影が二つに分かれ、また一つになる。
「どこまでって言うのは……」
「汐のこと。厳密には、汐と、澪のこと」
その言葉に、これまで見えなかったものが、まるで潮が満ちてくるように少しずつ形を持ち始めた。タバコの煙が潮風に溶けていく。その向こうで、お父様の表情が海面に映る月のように揺らめいていた。
「ああ、だいたい教えてもらいました。汐さんの中に、澪さんの人格が入り込んだ? みたいなことですよね。大変ですよね」
「あれ、なんであんななのか、教えてもらったか?」
お父様が指さした先には、黒ずんだ流木と、腐りかけのロープ。あの日、汐が祈っていた光景を思い出すと同時に、何かがつながったような気がした。
「あれは汐が幼稚園行く前やった。店が忙しい冬の時期に、ここで遊ばせとったら、汐だけ帰ってきて。何か隠した様子だったけん、必死に聞き出してな。澪が海に流されたって。それがここの浜辺でな。びっくりしたし、悲しかった。でもそれを言い訳に、それを汐のせいにしようとどっかで思っとったんかもしれん。汐は澪の真似をして澪の服や口調を真似するようになって。あの流木を澪だと言って一緒に遊んだりもするようになって。病院に連れて行ったら、解離性同一症、いわゆる二重人格名じゃないかって言われて。それからはもうパニックだった。汐に構う余裕もなくなって、気づいたときにはあんなふうになっとった」
「そうだったんですね……」
この浜辺で、汐は澪がいなくなっているのに気づいて、それを自分の中で納得させるために流木を澪さんとして認識しようとしたり、澪さんの真似をしようとしたりしていた。可哀想な過去だ。
「それで、あの流木は澪。ロープは、あのときもしロープがあれば助かったんじゃないかって、そういう意味で作ったんだと思う。もう何年も、時間を見つけては懺悔を繰り返しててな」
お父様は黙って流木を見つめていた。その目に映る光景は、きっと今とは違うものなのだろう。腐りかけのロープが風に揺れる度に、その瞳が潤んだ。
「見てらんのよ」
それだけを呟いて、煙草の火を消した。
そういうことだったのか、あれは祈りなんかではなく、懺悔。今でも汐は澪の事故を自分の責任だと感じて、すべてを背負おうとしてしまっている。都合の良いところから逃げずに、真正面から全部自分で背負おうとして、今の汐が形成された。胸がずんと重くなる。俺が汐との関係で悩んでいたのが馬鹿らしく感じるほど、汐が抱えているものは大きかった。
お父様のタバコ休憩が終わって、店内に戻っていった。これから日に日に水位が下がっていくこの浜辺と、澪の人格は連動している。もう時間に余裕はない。今のうちに澪に会って、言いたいことを伝えないと。
牡蠣小屋の裏からお父様をもう一度呼び出して、汐を呼び出してもらうことにした。
波のない浜辺に、虫が泳ぎに来た。
水位は変わらず、もはやこの浜辺に満潮も干潮も関係ない。静かな田舎町にあって、遠くのほうで重機が動く音がよく聞こえる。重機が唸り、工事の振動が砂を震わせている。コンクリートの型枠が並び、その無機質な灰色が、かつての藍色の海を塗りつぶそうとしていた。
牡蠣小屋の裏の小さな浜辺で、黒ずんだ流木とロープを前に、汐を待つ。待っている間にスマホをいじっていたが、足音が近づいてきて画面を切った。その瞬間に写った自分の目に、ハッとした。そして気付いた。スマホの画面に映る自分の目が、以前より真っ直ぐになっていることを。こんなに真っ直ぐに目の前のことを見られるようになっていたとは。それは、もしかすると汐や穂香への視線も、本当に変わってきていたのかもしれない。そして、自分自身へも。
これからどう汐と向き合っていくべきか。色々考えてみたが、小手先でどうこうできるとは思えなかった。まっすぐ向き合うしか無いのだと、悟った。
黒ずんだ流木とボロボロの縄は、この小さな浜辺に最後の抵抗のように残されている。以前から気になっていた。満潮時の汐があまりにも明るすぎる。まるで罪悪感とは無縁な、無邪気な子どものよう。それは演技なのか、それとも本当に別の人格なのか。それはまるで、時間が止まったかのようで。
「なに? わざわざ呼び出して」
背後から声がした。今日の汐はTシャツにジーンズという、いつもの気取らない格好だ。口調から察するに、今は干潮時の汐。相変わらずきつい調子で、目を合わせようとしない。
「ここで、本当のこと話してくれないか」
流木に触れながら言う。長年の潮風に晒された証のように荒れている表面。汐の体が、一瞬強張った。
「もうこの前話したじゃん。これ以上何を」
「この流木が、本当は何なのか」
食い気味に語気を強める。遠くで波が砕け、その音が浜辺に響いてくる。
「その言い方。どうせ知ってるんでしょ?」
「汐の口から聞きたいんだ」
しばらく沈黙が流れた。沈黙が重たくのしかかる。遠くの波音だけが、その静寂を破っていく。視線の先には、黒ずんだ流木と、腐りかけのロープ。コンクリートに浸食される浜辺の最後の証人のようだ。遠くのほうで鳴く鳥の声が静かな町にようやく音をもたらした。汐はいつものルーティーンなのか、流木を撫ではじめた。まるで大切な人の髪を梳くように、優しく丁寧な仕草。その指先が、かすかに震えている。
流木に結ばれた古いロープを見つめる汐の横顔に、どこか影のようなものが見えた気がした。懺悔のための祈りは、もしかしたら許しを請うためのものだったのかもしれない。でも、誰に対してだろう。
「この流木は、澪」
ゆっくりと話しだした汐の声は細かく震えている。藍色の瞳は瞳孔が開いている。
「あの日、ここで溺れた、あたしの妹」
汐が、ゆっくりとロープに手を伸ばす。その指先が、まるで大切な思い出を掬い上げるように、慎重に動く。
「助けられたかもしれない。このロープさえあれば。でも、あたしは」
言葉が途切れる。汐は深いため息をついて、視線を流木から海へと移した。そこには以前のような藍色の輝きはなく、工事の影響で濁った灰色の水面が広がっているだけだ。
「助けなかった」
「汐、お父様から聞いたよ。あの黒ずんだ流木も、腐りかけのロープも、全部汐が小さい頃に経験した不幸な出来事から、汐自身が壊れるのを守るために作られたものだって。澪を助けるために、ロープが欲しかったんだよね。汐は悪くない。むしろ助けようとしたんだ。あれは不幸な事故で、誰も悪くないんだ」
流木と腐りかけのロープに打ち寄せる波は、遺体を洗うように静かだった。汐が澪を失った場所であり、汐が澪を生んだ場所。再生のために何度も打ち寄せては引く波のように、魂が満ち引きを繰り返すようだ。
「睦、それは違うよ」
「え?」
「澪の死は事故じゃない」
「事故じゃないって、どういうこと?」
「……あたしが、殺したんだよ」
海が轟いている。工事現場からの騒音が、負けじと辺り一帯に鳴り響く。その言葉に、体から血の気が引いた。聞きたくなかった。そんな言葉。
「いや、だからそれは汐のせいじゃないんだって。小さい頃の汐がたまたま目を離した隙に澪が海に入っちゃって、不幸な出来事になっただけだって。汐のせいじゃないよ。全部背負わなくていいんだよ」
「違う。あたしは、澪がうらやましかった。天真爛漫で素直で可愛い澪は、誰からも可愛がられてた。あたしはそんなふうに出来ないから、いつもそれを見てるだけだった。だから、澪が溺れているのを、あたしはずっと見てた」
汐の藍色の瞳に、涙が滲んでいる。その表情には、これまで見たことのない暗い影が浮かんでいた。
「そんな……」
「こんなに小さな浜辺だよ? 見失うわけないじゃん」
「確かに……でも……」
「ずっと見てた。澪が困った顔で、そのまま沈んでいくところも、ずっと見てた。今でも思い出して、そのたびに暗い気持ちになる。あたしはその時きっと、いや確実に、死んでも良い、死んでしまえと思ってた」
汐の声は震えていた。藍色の瞳に、涙が滲む。
「毎日一緒に遊んで、毎日一緒にご飯食べて。澪はいつも笑顔で、明るくて、両親にも好かれて。でも、あたしはそうじゃなかった。いつも怒られて、いつも失敗して。澪と比べられるのが、本当に辛かった」
波音がさらに強くなる。潮風に涙が散っていく。
「だから、あの日。澪が波に飲まれそうになったとき。助けなかった。見てるだけだった。溺れそうな澪を見て、どこか嬉しかった自分がいて。それが怖くて、それが申し訳なくて。それで、澪のふりをするようになって。そうしないと、生きていけなかった」
波音が強くなり、工事の振動が激しさを増す。吐露するたびに、汐の体が小刻みに震えていく。長年隠してきた真実を話すことが、これほどまでに彼女を苦しめていた。
「いいよ、もう。もういい。そんな、信じられない……汐が澪を……なんで」
「だから、こうして毎日謝りに来てた。許してもらえるわけないって分かってても。でも、そうやって生きるしかなかった。澪の代わりになろうとして。満潮の時だけは、本当の澪みたいに、明るく生きられる場所を作って」
汐の声が途切れ、肩が大きく震える。長年封印してきた真実を語ることが、これほどまでに彼女を苦しめていた。
汐の震える肩に手を置く。水たまりに映る影が二重に揺れて、どちらが本当の自分なのか分からなくなる。今の汐は、まさにそんな状態なのだろう。
汐の言葉に戸惑いを覚えながら、自分の内側に湧き上がる感情に気づいた。これまでの自分の態度、行動が走馬灯のように頭をよぎる。汐はこんなに重たいものを背負って自分で責任を感じて自分を騙し続けていたのに。俺はどうだっただろう。田舎という環境のせいにして行橋という町を目指し、行橋が思った通りの町じゃなかったからまた環境のせいにしてつまらない町だと決めつけていた。誰かのせいにしていないと自分を保てなかった。汐は自分を保つために、姉妹とはいえ他人のふりまでして責任感を感じているのに。俺はなんでここまで自分で背負えなかったのだろう。こんな自分が汐にかけてあげられる言葉なんて、無い。
だけど。なにか言葉をかけないと、汐がそのまま潰れてしまいそうな気がして。それは波にさらわれるのをただ見ていた汐と同じ気がして、どうにかこうにか言葉にして出したいと思った。
「汐……俺には、汐の痛みが完全に分かるなんて言えない。汐が背負ってきたものは俺が想像していたよりも遥かに大きくて重たくて、そんなの耐えられるだけですごいと思う。だから、それを聞いて、俺が思ったことは、その、俺自身のことがよく分かったような、そんな気がするんだよ」
黙ったまま俯いている汐を目で確認し、一度深く息を吸い、また続けた。
「汐の話を聞いて、俺はずっと、自分の弱さから目を背けてきたんだなって思った。田舎が嫌で、でも行橋も期待外れで、それを全部自分以外のせいにしてきて。結局、俺は自分と向き合うのが怖かったんだと思う。でも、汐は違う。自分の中にある闇とずっと向き合ってきた。それは、俺には想像もつかないくらい辛くて大変だったことだと思う」
汐が俺の方を向き直して、藍色の瞳と目があった。目の中に映る俺の拳は、固く握られている。
「でも、汐が全てを背負う必要はないと思う。幼い頃の出来事を、一生背負い続ける必要なんてない。俺が他人のせいにするのが間違いだったように、汐が全てを自分のせいにするのも間違いだよ。人は、そんなに強くない。でも、だからこそ支え合えるんだと思う」
「でも……わたしは澪を……」
「誰かのせいにも、自分のせいにもしなくていいんだよ。ただ前を向いて、一歩ずつでいいから進んでいけばいい。汐が教えてくれたんだよ。この町の見方を変えることで、新しい景色が見えるってことを。だから今度は、自分自身の見方も、変えてみないか?」
「睦……」
「もういいんだよ。小さな子供が背負うには重すぎる気持ちだった。でも、汐はずっと一人で抱えてきた。もう、十分だよ。澪の代わりなんてしなくていい。汐は汐でいい。その全部を、俺は頑張って受け入れたい」
汐の頬を、一筋の涙が伝った。それはきっと、重たすぎる責任をようやく下ろせた解放の涙だった。
小さな浜辺に残された僅かな波のない穏やかな海。それに呼応するように、汐の表情は穏やかになっていく。まるで長年の重荷が、潮とともに流されていくかのように。
「本当に……? こんなあたしを……?」
「ああ。満潮の汐も、干潮の汐も、全部ひっくるめて。今の汐も、これからの汐も」
汐の告白を聞いて、最初は信じられなかった。否定したかった。でも、これまでの違和感が一気に繋がっていく。満潮時の汐があまりにも罪悪感とは無縁だったこと。干潮時の汐が背負いすぎていたこと。そして、あの浜辺での懺悔のような祈り。全ては繋がっていた。
小さな入り江に、薄い夕暮れが忍び寄る。やがて埋め立てられ、この景色も消えていく。でも、ここで交わされた言葉と、生まれた絆は、きっとずっと残っていくのだろう。そう思った矢先、埋め立て作業が本格的にはじまった。
枠の中に、灰色のドロドロが、留まることなく流されていった。