6.変わりゆく潮流−2
それはまるで、モノクロの世界が少しずつ色を帯び始めるように。
反対運動は、思わぬ形で広がりを見せた。ライブ配信されていた汐の座り込みの動画がSNSで拡散された結果、インフルエンサーがこぞって蓑島に集まってくるようになり、徐々に埋め立て工事に対する反対意見が集まるようになっていった。ローカルニュースにも取り上げられ、市議会で工事の一時中断を検討しているという噂まで流れ始めた。
「すごいじゃん、睦ちゃん!」
行きのへいちくの中で、穂香はやけに嬉しそうだった。
「みんな都合良すぎちゃ。汐のことをあんなに酷い目に合わせたのに。潮目が変わったら急に味方ヅラしてきちょう」
「まあまあ。でも、良かったじゃん。このために高三の毎週日曜日を捧げてきたわけだしね」
そう言われるとなんだかもったいない気もしてくるが、それ以上に達成感が上回る。
「まあね。この町を、この海を、そして満潮時の汐を、守れるかもしれない」
灰色だと思っていた町に、少しずつ色が差し込んでくる。それは汐の瞳の色のように、深く澄んでいた。
日に日に盛り上がる汐の動画へのコメントや投稿。市議会議員のSNSアカウントでも取り上げられ、遂に政治家がこの問題に対して重い腰を上げようとしているように見えた。満潮時の汐とこれからも会うために犠牲にしてきた日曜日が、ようやく浮かばれる。そんな期待とは裏腹に、汐はそれでも学校に姿を現さなかった。
SNS上での盛り上がりがピークに達しても、汐は学校に来ないどころか連絡も途絶えていた。最初はこの盛り上がりに乗じて何か策を練っていて忙しいのかもしれないと思ったが、どうもそうではなさそうだ。インフルエンサーが蓑島に来だした最初の頃は、コラボ動画を撮っていたりしたが、今ではその投稿も流れてこない。なんだか嫌な予感がする。
次の日曜日、ちょっと気まずいけど、やっぱり汐のことが気になって、気付いたらまた簑島方面のバスに乗り込んでいた。SNS上ではあれだけ盛り上がったんだ。きっと今日も大勢のインフルエンサーで埋め尽くされているだろう。そう思ったのだが、現実は残酷だった。
抗議運動は二手に分かれていた。どう見ても汐たち穏健派と、外部の人間が中心のグループに分かれている。汐たちのほうが人数が少なく、勢いもない。SNSでの拡散も下火になり、報道も激減。あれほど盛り上がった運動は、まるで引き潮のように、静かに力を失っていた。
七月初旬の湿った暑さが、朝から急激に体力を奪う。工事現場では、町中の噂が嘘のように、相変わらず重機が唸りを上げ、コンクリートの壁は日に日に形を変えていく。その音が、まるで時を刻む針のように、確実に何かの終わりを告げていた。その音は、もう誰にも止められない時の流れのように聞こえた。
「何しに来た?」
「汐を守りに来た」
ふっ、と鼻で笑われた。
「満潮時の、な」
「どっちも、な」
「内申点に影響出るぞ。あたしも辞めないといけないかもだし」
「関係ないよ。俺にできるのは一緒に参加することくらいだけど、だからって今さら黙ってるわけにいかないだろ。それに」
「それに?」
「行橋の町の応援も、な」
「この前とは正反対だな」
「気づいたんだよ。汐のことをうがって見てたのと同じように、行橋のこともうがって見てたなって。見たいところだけ見て、見たくないところは見ていないふりをして過ごしてきたなって。でも良いところたくさんあるんだよな。汐が教えてくれたから、ちょっと信じてみることにするよ」
「睦……ま、邪魔だけはすんなよ」
目力は強く喧嘩腰だが、とにかく仲間には入れてもらえそうだ。事情を知らないジジババたちは大歓迎してくれて、先頭に押し出された。汐は、町全体の無関心さとも、ネット上の過度で過激な意見にも、ひとりで戦って受け止めようとしている。
「誰も見向きもしてくれない。でも、声を上げ続けなきゃ」
風が吹き抜けていく。プラカードが、風にはためく音が虚しく響く。工事現場からは、重機の唸りが容赦なく響いてくる。
「潮力発電所の建設、反対! 防波堤建設、反対! 綺麗な海を、汚すな!」
汐の声が、いつもより少し震えていた。干潮時なのに、エネルギーが満ちている感じはなく、どこか不安定な様子。その瞳の藍色が、普段より濁って見える。
「みんなで一緒に頑張ろう!」
声を振り絞るように叫ぶ汐。でも、その声には何か違和感があった。まるで誰かの声を真似ているような。誰かになりすまそうとしているような。
「もっと声を上げないと! このままじゃ……」
切れかけた電池のように元気を亡くす干潮時の汐は、見てられなかった。
埋め立ての準備はもうほぼ終わっていて、あとは埋め立てを待つだけとなっている。藍色の海が、最後の抵抗を見せるように大きく轟いているが、工事の音にかき消されてその存在感は耳まで届いてこない。
変わりゆく風景と、それを黙って受け入れる町の空気が、重く垂れ込めていた。
海水が届きにくくなっているのか、汐の秘密の浜辺の方も、砂浜の範囲が前よりも広がっていた。満潮時の汐となかなか会えないのは、やっぱり工事の影響でこの浜辺の水位がどんどん下がってしまっているせいだと改めて実感した。今日も、九時すぎには満潮のはずなのに、昼前になっても干潮の汐のままだった。
「おつかれ。……なんか、悪かったな、この前は」
昼休みになっても干潮状態のままの汐が、弁当を片手で渡してきた。
「不器用だなぁ。色々と」
「うっせ」
「なぁ汐、今日は久々に昼から出かけようぜ」
「はぁ? もう行橋でてめぇに見せる場所なんかねえよ」
「じゃあ今度は俺の番ね。田川の方に連れて行くよ」
「はぁ? 何のために?」
「ただのデートの誘いだよ」
「それは満潮時のあたしにしなよ」
「良いから。どっちも汐は汐だろ? それに、待ってれば満潮時の汐になるんだろ?」
「ったく。じゃあ、追加のジュース買ってきたら行ってやるよ」
そう言って空になったクーラーボックスを渡してきた。その瞬間、汐のスマホの通知音がまた鳴った。もう今日何度目だろうか。
「SNSの投稿、最近ひどいのが増えたよな。通知切りなよ。俺はそうしてる」
「そうだな……投稿するの、もう辞めようと思ってる。あ」
ロック画面で通知を消そうとした汐の手が止まる。ロック画面の待ち受けが、一瞬だけ目に入った。白い砂浜で貝殻を手に持つ二人の小さな女の子。長い黒髪の子は笑顔でカメラを見ているが、どこか無理があるように見える。もう一人は海の方を向いていて、表情は見えない。
「これ、誰?」
「え? あ、いや別になんでもないよ」
慌てて画面を伏せ、それをポケットにしまった。その仕草には、どこか後ろめたさが漂っていた。
工事現場の騒音が、その声を飲み込もうとする。現場からの振動が、足元を揺らす。変化を拒む心が、その振動にさえ抵抗するように、より一層強ばっていく。
「まぁでも、あたしたちに攻撃してくるコメントはできるだけ消して、賛成してくれるコメントだけは取ってあるんだ。それだけは糧になるっていうか。弱気になりそうなときに頼ってたりする」
汐の視線が曖昧に揺れる。画面に書き込まれた悪意の数々。真正面からクソ真面目に受け止めてたらたまったもんじゃない。確かにキツい。だけど。
「それってさ、見たくないものから目を背けてるだけじゃん?」
「え?」
「だって、誹謗中傷のコメントが怖いからって、都合の良いコメントだけ残して後は消してるっていうのは、見たくないものから逃げてるってことでしょ? 俺も前まではそうだった。この町のことだって、干潮時の汐のことだって、自分の都合の悪いところは見ないようにしてた。でも、それじゃダメなんだって、汐が教えてくれたじゃん」
潮風が二人の間を吹き抜ける。汐の長い黒髪が、風になびいていた。
「確かに、怖いよ。でも、怖いからって目を背けちゃったら、何も変わらない。むしろ、見たくないものにも目を向けることで、初めて本当のものが見えてくる。それを汐から学んだんだから、汐がそれから逃げんなよ」
「でも……」
「大丈夫。俺も今は通知切ってるけどさ、いつも帰るときにコメントを見返してるんだよ。確かにひどいのも多いけど、意外と真面目な意見もあったりしてさ。キツいけどためになるっていうか、なんだっけ?」
「良薬苦口?」
「そう! それ! だと思うんよ。大丈夫、今度から一緒に見ることにしようよ。ここでSNSやめたらさ、逃げたみたいで癪じゃん? 徹底対抗だよ! SNSを味方にしたら意外と事態が動くかもしれないだろ?」
最後の言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。工事現場からの振動が、足元を揺らす。何一つ根拠はないが、勢いだけでここまで突っ走ってきた汐の勢いをここで止めるわけにはいかない。満潮時の汐を、絶対に消させたりしない。ピンチはチャンス。これも自分に言い聞かせながら、自分の中で自分を鼓舞した。
「ありがとね、睦」
汐はポケットからスマホを取り出し、画面に向き合った。その横顔には覚悟が見えた。
汐とへいちくに一緒に乗るのは新鮮だった。こんなド田舎のど真ん中を走る一両編成の中に、目付きの悪い美人女子高生が座っている。アンバランスで面白い。
東犀川三四郎駅に停車したときにここが最寄り駅だって教えても、あっそ、と無愛想に返事するだけ。早く満潮時の汐になればいいのに。でも、それは今回のデートの主旨とは離れている。今日からはしっかり、両方の汐を受け入れるようにしないと。
等間隔の電信柱に垂れ下がる、リズミカルな電線。広い青空の下には、新緑の田んぼ。行橋のように中途半端な田舎町ではなく、本格的に風景画になるような、そんな田園風景がどこまでも続いていく。源じいの森駅からは森の中を突き進み、とんだ山奥の駅で次々に停車していく。誰も乗らないし誰も降りない時間が延々と続き、急に住宅街に抜けたかと思うと、最寄りの田川伊田駅に到着していた。
意外と整備されている、真新しい駅舎の中でトイレを済ませ、自転車で二十分。どんどん狭くなる路地を進むと、風鈴が揺れてぶつかる音が聞こえてきた。そのまままっすぐ階段を登ると、数え切れないほどの風鈴が風に吹かれて涼しい音を奏でていた。大小様々な音色が重なり合い、涼やかな空気を作り出している。
そのまままっすぐ階段を登ると、吹き抜ける風に数え切れないほどの風鈴が踊っていた。短冊が四方八方に舞い、まるで天の川のよう。赤、青、緑。黄色にピンクに黄緑。澄んだガラスが光を集めて、足元に七色の影を落とす。
風鈴でできたトンネルをくぐると、竹林の緑が目に染みた。観光客の話し声が遠くで響いているのに、不思議と静寂が保たれている。
「ここなら話せる気がするな。風鈴の音が、まるで鎮魂の音色みたいだから」
汐の声が震えていた。透き通るような風鈴の美しさと、それを見上げる汐の曇った表情が、まるで鏡写しのようだった。
花手水がカラフルに彩られている。置物のカエルが、涼しげな目で見守っている。汐の横顔を見ると、数時間遅れで満潮時の可愛らしい表情に変わっていた。いつもなら嬉しいはずの変化が、今日は妙に切なく感じられる。水面に映る自分たちの姿が揺れている。でも、あの浜辺の海とは違って、人工的な水は、汐の心を映し出すことはできない。
「一緒に撮ろ?」
風鈴のトンネルの一番奥にあるハート型のフレームに一緒に入って自撮り。めっちゃデート。こんなに幸せな瞬間はこれ以上無いだろう。柔らかい笑顔の満潮時の汐は絵になるし、目をつぶってシャープな顎を突き上げて風を感じる満潮時の汐は、これ以上無いくらい美しかった。
だけど、そんな満潮時の汐が、だんだんいなくなっていく。この幸せな時間も、来年はもう訪れない。そう考えると、急に寂しくて、一秒も見逃したくなくて、野良猫と戯れる満潮時の汐を、カメラアプリ越しにずっとガン見してしまっていた。その瞳に映る藍色が、どこか儚く見える。まるでもうすぐ消えてしまいそうな記憶の色のように。
「あ、かき氷売ってる! 睦、かき氷食べようよ!」
「ああ、いいよ。あっこの席とっとって」
竹林の中の中庭みたいなところで売られていたかき氷を二人分購入し、木製の小さなベンチまで運んでいく。和傘が飾られていて、背景にはさっき通った風鈴のトンネルがあって、忘れられない夢に出てきそうな景色だと思った。
「頭に来た〜」
「え、なんか俺変なことした?」
「違うよ、キーンって来たの!」
「なんだぁ」
そうそう。こういう会話がしてみたかったんだ。紙コップの中で溶けていくかき氷が、夏の陽射しに輝いている。ブルーハワイの藍色が少しずつ滲んでいく。溶けゆく氷のように、時間がゆっくりと流れていった。
「ねぇ睦、このかき氷、甘いと思う?」
「え? ああ、めっちゃ甘いけど」
「そう。でも私には、ちょっと苦いんだよね」
「なにそれ。シロップの味、おかしいのかな。腐ってる?」
「ううん、そうじゃなくて」
かき氷を口に含んだまま、汐がぽつりと言った。氷に染み込んだブルーハワイの藍色が少しずつ溶けていく。それは満潮時の汐の存在そのものを表しているようで、見ていて辛くなってきた。
「ずっと後ろめたさがあるの。大切なものを、盗んでしまったから」
「盗んだ?」
何を言ってるのだろう。他の人に聞かれたらまずいんじゃなかろうか。
「うん。本当は自分のものじゃないのに、それをずっと使い続けてる」
「それって?」
風鈴が揺れて、澄んだ音が響く。聞こえないふりをしているのか、汐はその問いに答えない。
「それが長く続くと、もう何が本当で何が嘘なのか、わからなくなってくるんだよね」
汐の横顔が、一瞬歪んだような気がした。
「あ、こぼしてる」
口元が緩みすぎたのか、食紅がTシャツに思いきりついてしまった。ポケットの中にティッシュを探すが、そんなものはじめから持っていないことに気づく。何かふけるものはないか探してみたら、財布の中に、いつかのおみくじが入っていた。そのまま捨ててバチが当たるといけないからと、忘れかけてたやつ。
「なになに? 恋愛。一人に集中しないと運気が下がる。待人。もう出会っている。後は気付くだけ。か。さて、半年経ちましたが、どうなんですか?」
ニヤニヤしながら満潮時の汐が顔を覗き込んでくる。うわ、かわいい。そんなに近寄られたら緊張して嘘をつけなくなる。静けさが、余計に鼓動の輪郭をはっきりさせてくる。
だけどその完璧すぎる笑顔は、不気味なほど完璧だった。まるで、理想の姿を体現しているかのように、本当に完璧だった。
「恋愛は、ね。汐のことだけ考えてるから。ね。待人はね。汐にもう出会ってるから。カキフェスで気付いたから、今ここにいるっていうか」
「じゃあ、末吉じゃなくて、大大大吉だね」
確かに。こんなに良い思いをさせてもらったのだから、来年の初詣はしっかり御賽銭はずんでおかないと。
「でもさ、わたしは一人のわたしとして、カウントしてもらえるのかな?」
「汐は汐だから、満潮とか干潮とか関係ないよ!」
「だけど、日に日に自分の時間が減っていってるのが分かるからさ。怖いんだよね」
急にしんみりしてきて、浮かれていた心がしとっと底に張り付いたような気持ちになった。
「分かるよ。俺だって満潮時の汐にいつか会えなくなるのは寂しいし、そんな日がいつ来るのかわからないから怖いよ。だからこそ反対運動を最後まで頑張ろうと思うんだけどさ、同時に無力感も感じてたりしてさ」
「ありがとね、わたしなんかのために……忘れないでね、睦」
「忘れるわけ無いじゃん! ていうか失くさせないから! 満潮時の汐の存在を!」
また可愛らしい笑顔でありがと、と呟いてくれた満潮時の汐の表情は、どこか諦めたようで、寂しげだった。
「ちょっと、トイレ行ってくるね」
かき氷を最後まで飲み干して、足早にトイレの方に向かっていった。多分、もう干潮時の潮になることを予感したのだろう。三井寺での滞在時間は約二時間。もうそこまで短くなっているのかと、実感させられた。
戻ってきた汐は、やっぱり干潮時の汐だった。キリッとしているが目元に力が入っており、まっすぐに俺の方を見る満潮時の汐と違って、目線が合わない。
「……悪かったな。こっちのあたしで」
「まだ何も言ってないよ」
「言わなくても分かる。あたしじゃなくて、向こうのあたしが良いんだろ?」
「そんなことないって。汐は汐だから。良いところも悪いところも、全部受け入れよう、受け入れたいって思って、今日は朝から抗議活動に参加したんよ。汐のことも、行橋のことも、自分にとって都合の良い方だけじゃなくて、どっちもちゃんと見ないとって思ってさ」
「……そっか」
相変わらず目線は合わないが、心なしか嬉しそうに口元が緩んだ干潮時の汐。良かった。これでスッキリできる。
「この前校長室呼ばれてさ」
「は? 校長室? なんで? まさか……」
停学? 冗談だろ、こんな時期に。俺の内申点も実はだいぶ下がっているのかもしれない。スッキリできると思ったのに。
「校長先生もね、昔暴れてたんだってさ」
「はぁ?」
予想外の展開に、頭がついていかない。暴走族、とか?
「活動家だったんだって。大学サボりまくって単位落としまくって留年しそうになったって。でも、結局意見は通らずに、解散したみたい」
「へぇ。校長先生がねぇ……」
「ね。意外だよね。で、その校長先生が、厳重注意ということでわたしを呼び出して、なんて言ったと思う?」
「え、なんだろう。校長先生が若い頃に後悔したからやめなさい、とか?」
「自分の意見をみんなの前で言えるのは素晴らしいことだ。だが、やり方は考えないといけない。反省するように」
「なるほど……怒られたんだ」
「全然。こっからよ。……今から独り言をいうからな、独り言。若いからこそ出来ることはある。純粋だからこそ見えるものがある。やれるときにやっておきなさい。はい、独り言終わり。厳重注意も、ここまで」
「へぇ、校長やるやん……」
「ね? なんか、ちょっと希望の光が見えたよね。やってて良いんだ、バックに校長がいるんだぞ! ってね!」
「なんとか組じゃなくて、校長なのがビミョーだな!」
二人で笑うと、なんだか安心感が湧いてきた。今だから出来ることを、やれるときにやる。確かにそれが大事なのかもしれない。
「はぁ笑った。……睦、もしもの話、しても良い?」
「良いけど……何?」
空が曇ってきて、太陽光が遮られて少し暗くなってきた。
「もしもあたしが、向こうの長野汐が、向こうの長野汐じゃなかったら、それでも睦は長野汐のことを好きでいられる?」
「え、どういうこと?」
満潮時の汐が、満潮時の汐じゃなかったら?
というのはつまり、干潮時の汐が満潮時の汐のフリをしていたら、それを好きになるかっていうこと?
それはちょっと、キツい。前に実際に俺のことを騙そうとしていたときも、違和感しかなかった気がする。だけど、汐は汐だってさっき言ってしまった手前、干潮時の汐のことを好きになる努力をしなければならない。でもそれって、本当の好きっていう感情だと言えるのだろうか。
「実はさ……」
意を決した干潮時の汐が、急に今日初めて目線を合わせてきた。というか、ほぼガンを付けられている。
「実は、満潮時のあたしは、あたしじゃないんだ」
「……はぁ」
そりゃそうだ。満潮時の汐は、干潮時の汐とは別人みたいなものだ。
「満潮時に現れるのは、あたしの双子の妹なんだ」
「……はぁ?」
意味がわからない。人が入れ替わっているとでも言いたいのか?
いつもふと目を離した瞬間や、一瞬席を外したときに入れ替わっているが、実際に人が入れ替わっているようには見えない。現に、さっきへいちくで一緒に来たのは紛れもなく干潮時の汐だ。満潮時の汐がわざわざ三井寺で待機するのか? そして今もどこかに、満潮時の汐が待機しているというのか? ありえない。
「ごめん、変なこと言って。やっぱ忘れていいよ」
「いやいやいや、待って待って、気になるから。どういうこと?」
「あたしね、二重人格っていうか、二人分の人格が備わってるの」
「満潮時の汐と、干潮時の汐だよな? それは前にも説明してもらったじゃん」
「実はね、満潮時のあたしは、あたしじゃなくて、双子の妹の人格なの」
汐の表情が一瞬暗くなった。遠くで突風が吹き抜け、風鈴を強く揺らした。
「ていうことは、満潮時の汐は、汐じゃなくて、別人っていうこと?」
汐の沈黙が、すべてを物語っていた。
「え、でもそれって、人格が違うことを別人と表現してるっていうことじゃなくて?」
「実はね、元々あたしは二重人格でもなんでもないの。でも、小さい頃に妹の人格が出るようになって。だから、干潮時は長野汐だけど、満潮時は長野澪なんだよ」
「そんな……。じゃあ、俺が好きだったのは汐じゃなくて、その……澪さん? の方だったってこと?」
「まぁ、そう、なの、かな」
まだ昼過ぎだというのに、分厚い雲が覆って、空がだんだん暗くなっていく。
「マジかぁ……あ、じゃあ、今度から、汐じゃなくて、澪さんに会いに行けば、会えるってことだよね? なんだ、じゃあ最初からそうすればよかったんじゃん! わざわざ抗議活動に参加しなくても、ずっと澪さんに会いに行けば良いんじゃん! こんな偽物じゃなくって、本物に会いに行けば良いんじゃん!」
「澪には会えないよ」
「なんで? 会わせたくないってか?」
変な冗談に湿った風が吹いて、空気が凍ったような気がする。
「澪はね」
「うんうん」
「もう死んでるから」
「……え?」
その言葉が落ちた瞬間、世界から音が消えた。竹藪のざわめきも、風鈴の涼しげな音も、全てが遠ざかっていく。目の前で汐の唇が動いているのが見える。けれど、その声は遠い。まるで深い海の底から聞こえてくるように。
突然、雨が降り出して、飾りつけの和傘を手にとってしのいだ。
流れ落ちてくる雨水が、Tシャツの肩に染み込んで、冷たかった。でも、その冷たさより、もっと冷たいものが胸の奥に広がっていく。
風鈴の音が、まるで弔いの鐘のように響き渡る。藍色の空は灰色に染まり、すべての色が失われていくような気がした。