5.寄せる波−2
駅前の反応が嘘みたいに、汐は学校中の有名人になっていった。
汐たちの活動がSNS上で取り上げられ、行橋だけに留まらず拡散されていった。ハッシュタグはトレンド入りし、一気に注目度が高まった。ネットと現実の差がこんなに大きいとは思わなかった。
だが、それと同時に知らず知らずのうちに敵も多く作ってしまっていた。授業が終わるたびに教室の後ろで囁き合う声が聞こえてくる。
「総合ビジネス科の長野さん、すごくない? この前ニュースアプリにも載ってたよ」
「うん、でもあの不思議ちゃん怖いよね。あんなに熱心に反対運動なんて。過激派? みたいな」
「ひどっ! でも、うちの親、工事関係の仕事してるんだけど、ああいうのすっごい困ってるって」
「でも、海を守りたいって気持ちは分かるよね」
「分かるけど、もうちょっと……ね。穏やかにできないのかな」
そんな会話を、俺に聞こえるようにわざと大きい声で話している。せめてヒソヒソ話してくれれば良いのに。
親が飲み屋街や飲食店、タクシーやバスの関係者だったら、みんな汐の活動を褒めて、応援して、率先して友だちになって、まるで宗教の教祖様みたいに崇めるようになっていた。汐は汐で急激な変化に戸惑うシーンが多いように見えたが、それも最初の一週間くらいで、六月に入ってからは弟子みたいに友達を引き連れて抗議活動に参加させるようになっていった。
逆に親がそれ以外の職種の場合、汐に対して冷たく接することが多いようだった。それも分からなくはない。市役所や工事関係の仕事についている親なら抗議活動のことを嫌ってもおかしくはない。汐たち蓑島の住民が数人ではじめた抗議活動は、今や町を二分化する大騒動になりつつある。
そして行橋が大きく動き出す話題だからこそ、授業中でも取り上げられるようになった。
「では、地域開発における環境保護と経済発展のバランスについて、身近な例として、今話題の潮力発電所建設についてどう思うか、みんなで考えてみよう」
誰も手を挙げない中、先生が指名した同級生が、その後の波乱を呼んだ。
「発電所ができれば雇用も増えるし、町の活性化にも繋がると思います。再生可能エネルギーなので環境にも良いし、電気代も下がるなら、良いんじゃないかなぁと」
「なるほど。では、これに反対できるのは……末次、お前なら反対できるよな?」
活動の中心人物である汐と一緒に反対運動をしている俺が指名されるのは当然か。こんなとき、汐ならどう反論するだろう。汐になった気分で、答えてみた。
「確かに表面的には環境に優しそうに見えます。でも、海洋生態系への影響は大きいでしょうし、漁業を営む人たちは移転したり辞めなければならなくなります。それって環境に優しいとは思えません。また、観光資源を壊して防災対策をしても、本当に町の人のためになるとは思えませんね。電気代は、建設費用を賄うために、当面は高くなると思いますけど?」
教室がざわつき始める。電気代が高くなる。環境に優しくない。町のためにならないのかもしれない。だけど確かに、雇用が増えて安全に暮らせるようにはなる。
「ふたりとも良い意見を出してくれてありがとう。じゃあ、この二人の意見を踏まえて、どうすれば良いと思うか、ここから賛成派と反対派に分かれてディベートしてみよう。しっかりと相手の意見も尊重して、決して攻撃はしないこと。冷静に多角的な視点でいる練習だからな」
多角的な視点、か。物事を一方から見てしまうと視野が狭くなるが、見方を変えれば新たな発見や気づきがある。確かに先生の言う通りだ。都合の良い方だけを見ることはできるが、それでは本質は見えてこない。汐に言われたことが、脳内で渦潮となってぐるぐる回っている。
その日の下校途中、ふと思った。反対運動が盛り上がらないのは、行橋の人々が他のことに囚われて関心を持っていないのだと思っていた。でもそれは違った。行橋の多くの人々にとっては、潮力発電所の建設やそのための埋め立てを、むしろ好意的に捉えているのだ。発展を望む声。安全を求める声。それぞれが、それぞれの形でこの町のことを考えていた。一方的な見方しかしていなかったことに、今さら気付かされた。
そうして、授業中でも休憩時間でも、行橋の潮力発電所建設に関する話題は尽きなかった。でもこれはあくまでも机上の空論。実際に反対運動に参加すると、もっと現実的な壁に直面する。
大所帯になりつつある抗議運動はやがて、派閥で分かれ始めた。汐たち地元住民の家業や昔ながらの風景を守るために声を上げている穏健派は、環境を守ることを第一に考えている。俺ももちろん汐の役に立ちたいからこっち側にいる。もう一方は、外部から来た市民団体のリーダー格数人を中心に、行政そのものやイデオロギーを重視している強硬派。まさか、同じ志の反対運動の中で分裂してしまうとは。地元住民の中からも強硬的な姿勢の人がいたり、外部から来た人ももっと穏便に平和的な抗議活動がしたいという人もいたりして、もうめちゃくちゃだ。
そんな中、行橋商工会議所の会議室を使って全体のミーティングが開かれた。
「この町は衰退する一方だ。このままでは町が死ぬ! 抜本的な改革が必要だ!」
県外から来た活動家が机を叩いた。その振動で、会議室に置かれたお茶のペットボトルが倒れた。
たしかにそうかもしれないが、それはもはや町の死をすでに覚悟しているようにも思えた。この反対派の皮を被った外部からの活動家は、もしかしたら賛成派の意見に近いのかもしれない。同じような意見が市報で記事になっていたのを、汐から何日か前に見せてもらったのを思い出す。
梅雨の蒸し暑さが、会議室の空気をさらに重くする。それをかき消そうと、数台の扇風機がやかましく空気を切り裂く。時折スコールのような雨が降っては上がる。
年配の頑固親父ばっかりで議論は平行線。汐をはじめとして、俺も汐の取り巻きも、年長者の勢いに押されまくっている。沈黙が続いたかと思えば、自分達が正しいという主義主張の嵐。今にも乱闘が起きそうなほど、空気がピリついている。汐の表情は曇天の空のように暗く、会議は収拾がつかなくなっていった。
「この町の良さを活かしながら、昔ながらの風景を残しつつ、少しずつ変えていきたいんです」
会議室の蛍光灯が、汐の影を歪に床に映している。いつもの威勢の良さは鳴りを潜め、冷静に冷静に保とうとしているのが伝わってくる。それは単なる懐古ではなく、目に見えない価値への直感的な信頼だった。
「北九州市を見ろよ。あそこだって最初は反対運動が起きた。でも今は環境モデル都市として有名じゃないか」
「あれは違います。北九州は公害を出して、それを市民の声で改善して、その反省からエコタウンになったんです。でも私たちの町はそうじゃない」
「だから行橋も同じじゃないか。風力発電所に続いて潮力発電所だ。環境に優しい町としてアピールできる」
「けど、そのために今ある環境を壊すなんて、本末転倒です!」
「このままじゃ北九州の後追いで終わる。もっと過激なアクションを起こして、全国にアピールするんだ!」
「違います!」
汐は我慢できなくなったのか、抗議活動のときのように声を張り上げた。
「私たちはこの町に住み続ける人間です。乱暴なやり方で町を二分するようなことは、絶対にしたくない。開発と環境保護、どちらも大切です。だからこそ、みんなで話し合って穏やかにアピールしていきたいんです」
「そんな生易しいことじゃ何も変わらない! 実力行使あるのみだ!」
「やめてください! そんなことをしたら町がますます分断されてしまいます!」
「行政の横暴を止めるんだ!」
「私たちの生活を守りたいだけなんです」
「自分の生活、自分の家族、自分のことばっかりだ! もっと大きな視点で問題提起しないと。それはただのわがままだ!」
「そんな! 元々私たちが抗議しているのはそういう部分なのに、なんで外から来た人たちに否定されないといけないんですか!」
「黙れ! お前ら若造に何がわかる! ここまで話が大きくなったのに、今更個人の事情は優先されないんだよ!」
「話を大きくしたのは県外から来たあなたたちでしょう?」
「じゃあもう応援に来なくてもいいんだな?」
会議は収拾がつかなくなり、汐もやれやれとさじを投げているように見える。俺はフォローしようにも、話についていけず黙り込んでいるしかない。潮の応援として参加しているはずなのに、何も応援できていない。そろそろ声を上げないといけない、でも声を出せない。怒号が飛び交う中、汐は静かに立ち上がった。
「ちょっと冷静になりましょうか。言い争いをしたい人は勝手にやっててください。全部吐き出してスッキリしたら、また作戦会議を再開しましょう。私は退席してますから、どうぞ皆さんでやり合っててください」
汐はそのまま誰とも目を合わせずに退室していった。急な展開にきょとんとする参加者たち。何だあの態度は。女子高生のくせに。ちょっと有名になって生意気だ。自分に向けて言われた言葉ではなくても、嫌な気分になる。
居ても立ってもいられず、俺もその部屋を出た。汐は駐車場の植え込みに腰掛けて、今川の方をぼんやり眺めていた。
商工会議所で熱い議論がされているのを知ってか知らずか、そんなことに興味を示そうとしない大多数の市民が、死んだような目で車を運転している。無関心は、一番深い諦めの表現にしか見えない。
「汐、大丈夫?」
「あ、睦。おつかれ」
タバコが似合いそうな渋い表情。植え込みに咲いている紫色の紫陽花によく映えている。今はきっと、干潮時の汐だ。満潮時の汐には似合わない一段低い声でぼそっとつぶやいた。
「もうやめようかな」
「は? なんでだよ」
「みんな、ただ声を上げるだけじゃ足りないって。でも、これ以上何をすれば……町の人間は無関心なのにさ、外部の人間は熱心でさ。方向性が変わってきたっていうか、ズレてきたっていうかさ。はじめは勢いでなんとかなってたんだけどな」
汐にとっては自分のことなのに、趣旨がどんどんズレていく。それに不本意なのはわかる。行橋の人間なら分かってくれるはずだと期待しているのに、見向きもされないどころか学校では白い目で見られることもある。汐の派閥の人間からはいつの間にかリーダーとして責任を押し付けられ、もう一方からは罵詈雑言に等しい言われよう。汐がいるから参加するけど、俺が汐ならもう諦めてしまうかもしれない。
それにしても、干潮時の汐にしては珍しく、あの独特のドギツさがない。ということは今はまだ満潮時の汐だったりするのかな。
「汐はすごいよ。全部自分で背負い込んでさ。あれじゃない? 嫉妬じゃない? 汐の凄さに嫉妬してんじゃない?」
「てめぇもっとマシなフォローしろよな」
やっぱりいつもの干潮時の汐だ。乱暴な言葉にも、不思議とホッとする。
汐はすごい。誰もがスルーして自分事にしていない問題に対して、一人で若者を代表して戦っている。誰に白い目で見られていても関係なく、自分の思いを素直にぶつけているように見える。そんな汐に惹かれないはずなどなかった。藍色の瞳がキリッとして、男から見てもかっこよくなるあの瞬間。来週もあの瞬間を見たい、あの瞬間の汐に会いたい。その繰り返しだった。
「なぁ、睦はあたしの味方だよなぁ?」
「当たり前だろそんなの」
「良かった。なら、行橋の良さも分かってきたよな?」
「まぁ、前よりは。汐が色々教えてくれたし。まぁ」
「なら、行橋の良さを活かして、もっと発展してほしいって思うよな? そのために抗議活動も一緒に頑張ってくれてるんだよなぁ?」
「……まぁ。そうだよ、うん」
一応、傷つけないために、迎合しておく。けど、本心はそこにはない。実際には、ただ汐と一緒にいたいだけだ。それも、満潮時の汐と一緒にいたいだけ。別に行橋のことは、そこまで考えていない。
そうだ。そこで初めて気づいた。自分は本当に町のために声を上げていたのだろうか。いや、ただ汐に喜ばれるために。ただ汐のそばにいるために。ただ満潮時の汐からお疲れって言ってもらうために。一度だって町のことを考えたことはなかったかもしれない。
「それに、あたしなんて、ただ自分のために……」
「ちょっとまった」
言いかけた汐の言葉を遮る。
「あのさ、覚えてる? 俺が最初に抗議活動に参加した時のこと。正直、なんの興味もなかったよ。町のことなんて、どうでもよかった」
ふっ、と鼻で笑った汐。ちょっとでも笑ってくれたなら、それはそれでよし。
「でも、汐が必死に伝えようとしてくれた。この町の良さも、この海の大切さも。あの植物園に行ったり、商店街歩いたり。今思えば、全部が大事な時間だった。ちょっとは、意識変わってきたかも」
「睦……」
「だからさ。たとえ今は自分のためだけでも、それでいいんじゃないのか? その想いが誰かに届いて、また誰かに届いて。俺みたいに変わる人間だっているかもしれない」
「そうかもね。ありがと」
夕暮れの駐車場に、小さな風が吹き抜けていった。
「見て」
汐が指差した先には、工事現場に向かうであろうトラックが何台も信号待ちをしていた。
「あたしたちが声を上げれば上げるほど、この町は変わることを選んでいく」
汐は苦笑する。
「環境に優しい町を目指すために環境を壊すっていう、この皮肉」
風が黒髪を揺らし、その表情が一瞬陰る。
「満潮と干潮みたいだな」
「え?」
「この町の姿。見る時間で、見る場所で、全然違う顔を見せる。でも、どれもこの町の本当の姿なんだと思う」
自分でそう言いながら、どこか自分自身に向けられているような響きがあった。
「汐も実は、そうなんじゃない?」
思わず口をついて出た言葉に、汐は一瞬たじろぐ。
「睦は……どう思う?」
答えに窮する。満潮時の爽やかな汐と、干潮時の荒々しい汐。どちらもが確かにそこにいて、でもどちらが本当の汐なのか。
「どっちの汐も、汐だよ」
「……そう」
その返事は、安堵なのか失望なのか、読み取れなかった。ただ、納得していないことだけはわかった。
「人って、いろんな顔を持ってるのかもね。それは演技なのか本心なのか。偽物か本物か。でも、その区別って、本当は意味がないのかもしれない」
信号が変わって、トラックの影が長く伸びていた。
「この町だって、発展を目指す顔と伝統を守る顔と、両方持ってる。それはきっと、どっちも本物だよ。たぶんね」
その瞬間、汐の表情が干潮時らしからぬかげりを見せた。それは一瞬のことで、すぐにいつもの強い目つきに戻る。だが、その刹那の表情の揺らぎが、何か大きな秘密を示唆しているような気がした。
「睦」
「うん?」
「もう来なくていいよ」
冷たい声だった。汐の視線は今川の方から少しも動かない。
「え……なんで?」
「分かってるでしょ?」
「わかんないよ。どういうこと? 誘ったのそっちじゃん!」
「それはそうだけど……いいから帰って!」
「いや、でも」
「帰れって! もう来んなって!」
藍色の目が、鋭利な刃物に見える。でもそんな干潮時の汐の攻撃性は、何かを必死に隠そうとしているようにも見えた。
「えっ……しゃあしい」
これではもう話にならない。そう感じて、そのまま振り返らずに歩いて駅に向かった。
全然意味がわからない。そんな言い方されるのも腹が立つ。せっかく汐をフォローしたつもりだったのに、なんでこんな目に合わないといけないのか。
もう抗議活動に参加するのはやめておこう。汐の役に立つことなんてなにもできない。
汐のことも、もう関わるのはやめておいたほうが良いかもしれない。
六月初旬なのにもうすでに夏みたいな澄んだ青空が広がっている。こんな日は曇天模様で雨でも降ってくれたら少しは慰めになるのに。空気の読めない町だ。
だだっ広い青空のように、胸の奥が寂しいくらい空いているような気がした。