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4.引き潮の真実

 噂は瞬く間に広まった。


 犯人はきっと穂香だろう。汐も不思議ちゃんかつ顔が良いので、他人の男女関係の話題に飢えている同級生たちには、当然、格好のネタとして扱われる。


 廊下を歩いていてもチラ見されるし、汐とすれ違おうものならその瞬間だけ時が止まったように凝視される。これはしばらく汐とは学校では接近しないほうが良いだろう。


 体育祭が近くなる頃には収まると思ったが、そんなに甘くはなかった。受験勉強でストレスが溜まる時期だから、発散のためにネガティブな噂がいくつも流されていた。


「おはよう、最近話題の睦ちゃん」

「やめろよ。お前のせいだろ?」


 ほとんど同じ学校の生徒で埋め尽くされているへいちくの車両内で、二酸化炭素とともに穂香の声がこもる。


「わざとじゃないちゃ」

「なおさら悪いやろ」

「悪かったって。でも幼馴染の初恋やもん、ちゃんと応援してあげんとと思って」

「しゃあしいのう」


 全然応援になっていないことくらい理解してほしい。ていうか応援する気無いだろコイツ。


「ほんまに応援する気あるか?」

「あるある! 何? なんか相談したいことでもあるっちゃろう?」

「相談したいことはあるけど、穂香には出来んわ。また流されても困るけ」

「流さんて! 神に誓って流さん!」

「いやいや……」


 いつも通り令和コスタ行橋駅を降りても、踏切を渡って住宅地の中を進んでも、教室に到着しても、押し問答は終わりが見えなかった。



 やっと春らしく暖かくなってきたと思ったら、眠気が襲ってくる。午後の授業は集中力が続かない。黒板の文字が踊って見えるのは春のせいだ。


「睦ちゃん、また居眠りしよったやろ」


 休み時間、いつものように穂香が俺の机に寄ってきた。机の上に肘をついて、たくましい腕を曲げながら、上目遣いで俺を見上げてくる。


「授業中はさすがに寝とらんって」

「寝とらんかもしれんけど、明らかに考え事しよったやろ。先生に当てられんように、私が必死でカバーしたんよ」


 穂香は不満げに頬を膨らませる。最近、そんな仕草をするようになった気がする。髪も少し伸びて、首筋が柔らかく見える。なんでこんなことに気がつくんだろう。


「あ、ありがとう」

「ま、いつものことやけどね」


 そうか、いつものことなのか。俺が気づいていないだけで、穂香にとってはいつものことなんだな。授業中、穂香が先生の視線から俺を守ってくれていた。そんな当たり前の光景の中に、どれだけの想いが込められていたのか、今まで気づかなかった。いや、もしかしたら、気付かないふりをしていたのかもしれない。


「次の授業も、そのままふっとい腕で先生から見えないようにしといて」


 なんだかちょっと恥ずかしくて、笑いに逃げた。あんまり良い笑いじゃないと、後になって気付いたが、出てしまった言葉はもう一生帰ってこない。


「……ちょ、しゃあしいわ!」


 いつもなら即座に返ってくるはずの冗談が、一瞬遅れた。やっぱりちょっと言いすぎてしまったような気がする。でも、ここでガチで謝ると、それはそれで場の空気を悪くしそうで。どうにも最近、穂香の前では素直になれずにいる。穂香の表情が一瞬だけ気になったが、クラスメイトがこちらを向いてニヤついていることのほうが、もっと気になった。


「おいおい、またか。睦と穂香の夫婦喧嘩」


 クラスメイトがちょっと距離をとって茶化してくる。悪いことをしている自覚はあるらしい。


「だからそんなんじゃないんだって! しゃあしいわぁ」

「幼馴染でずっと一緒におるんやろ? 夫婦やん」


 机に頬杖をついていると、そいつが近づいてきてウザ絡みしだした。


「てかお前、最近は長野さんと仲良いみたいやけど、浮気して大丈夫なん?」

「は? 浮気じゃないし」

「幼馴染の女の子ほっといて、話題の不思議ちゃんに夢中とか、可愛そうよ、なぁ?」

「ねー」


 穂香まで一緒になってからかってくる。やっぱり穂香に相談しなくて正解だった。


「穂香はタフだしなー。男みたいなもんやん」


 別のクラスメイトが言い出した。俺が言うのならまだしも、他のやつが言うとなんだか癇に障る。俺以外の奴に穂香のことを言われるのは、なんだか腹が立つ。


「てか穂香って、睦の世話係みたいなもんでしょ? お母さん、みたいな?」

「あー、夫婦だと思ったら親子だったのかよー」

「……おい」


 思わず声が出た。自分でも驚くくらい低い声。


「なんや? 事実やろ?」

「ええかげんにせえよ?」


 机に置いていた手に力が入る。なんでこんなにイライラするんだろう。穂香のことを馬鹿にされるのが、こんなにも腹立たしい。


「まぁまぁ」


 穂香が間に入ってくる。いつものたくましい声とは違う、少し震えているような声。


「私のことはどうでもええよ。それより睦ちゃん、午後の小テスト、準備せんと」


 さらっと言うけど、その言葉の中に何か引っかかるものを感じる。いつもの強がった態度の裏側で、何か隠しているような。


「てか長野さんって、ほんと不思議よね。学校では大人しいのに、活動の時は別人みたいでさぁ――」


 咄嗟に穂香が話題を変えてフォローしてくれた。羨望と尊敬が入り混じった声で呟く。でも、その目には少しだけ寂しさも宿っていた。話題が変わったことで、なんとなく空気が緩んでいく。でも、さっきの穂香への言葉が気になって、教科書が開けない。


「ごめん。俺、ちょっとトイレ」


 席を立とうとした瞬間、穂香がそっと袖を引っ張った。振り向くと、心配そうな目で見つめてくる。たくましいはずの穂香が、どこか儚く見えた。


「顔、洗ってくる」


 トイレに向かう途中、後ろから穂香の溜息が聞こえた。その溜息の意味も、自分の中でうずく気持ちの正体も、分からないまま足早に教室を出た。


 居心地の悪い校舎からいち早く出るため、学校が終わると早足で駅に向かった。


「まさか睦ちゃんと長野さんがねぇ。バカと不思議ちゃんかぁ」


 下校途中、穂香が突然呟いた。男子の早足に平気でついてくるなんて。さすが穂香ではある。いつも絶対、当たり前のように隣にいる。だがいつもの明るい声とは違う、どこか切なさを帯びた感じで、調子が狂う。


「やめろよそんな言い方」

「はいはい、どうせ私は関係ないですよーだ」


そう言った後の穂香の顔は見えなかった。さらに早足で用水路横の裏路地を急いでいた。その背中には、言葉にできない想いが積み重なっているような気がした。



 中間考査一週間前。


「末次、ちょっと来い」


 放課後、進路指導の先生に呼び出された。机の上には、最近の小テストの点数表が広げられている。


「最近、さらに成績が下がってきとるな。どうしたんや?」


 毎週日曜日の反対運動のせいであることは間違いない。元知勉強してないけど、さらに学校生活に対する興味が薄れているのは自認している。


「すみません……」


 ひと通り怒られながら右から左へ受け流した後、職員室を出ると、廊下で待っていた穂香と目が合った。


「わっ! 穂香、まだ帰っとらんかったん?」

「睦ちゃんが何言われたんか気になってねー」

「相変わらずしゃあしいやつ」


 俺と穂香以外に誰もいない放課後の廊下で、ふと窓の外に目をやると、下校する生徒たちの中に見覚えのある長い黒髪が見えた。汐だ。周りの生徒が避けているのにも目もくれず、毅然とした態度で校門の方に向かっている。思わず足を止めて見とれていると、穂香の呼びかけに我に返った。一瞬目を離した隙に、もう汐の姿は見えなくなっていた。


「で? なんて言われたと?」

「いつも通りよ。勉強しないと大学は厳しいって。そればっかり」

「勉強、教えちゃろか?」

「え? いいよ、穂香もそんなに頭良くないだろ」

「ええやん、中学の頃受験前にも一緒にしたやん」

「正しくは、不法侵入・不法滞在・拉致監禁な」

「んな大袈裟な。……なんか見つけたんでしょ?」

「え?」

「やりたいこと。見つけたんやろ? 最近そんな顔しちょうよ」

「どんな顔だよ」

「なんか前向いちょう顔ちゃ。自分で気づいちょらんのかもしれんけどね」


 穂香の表情が一瞬嬉しそうに見えたから、それからは放課後たまに一緒に勉強するようになった。問題集のページをめくるその横顔が、いつも見ているはずなのにやけに新鮮だったから、思わず目を逸らした。


「私も参加してみよっかなぁ、抗議運動」

「いいよ興味ないだろ? どうせ」

「なんでよ、散々変わろうとせんかった睦ちゃんが変わりはじめちょうけん、どんなもんなんか私も興味出てきたちゃ」

「じゃあ……来てみる?」

「……やっぱいいや。睦ちゃんみたいに成績落としたくないしー」

「おまっ、しゃあしいのう!」


 ニヤニヤしながら意地悪な笑みを浮かべる穂香。せっかく誘った後に微妙にワンテンポ返事が遅れたのが妙に気になったが、気にならなかったことにして、目の前の意味不明な日本語に目を落とした。



 壁の建設はまだまだ先だが、そのための埋め立て作業は俺らの抗議も虚しく着々と進んでいた。いくら声を上げても何も変わらない。日に日に参加者は減り続け、残った老人も疲れが取れないようで元気がない。声を張り上げる抗議よりも、座り込みのようになっている。


 そんな中でも、汐だけが必死に声を張り上げていた。時々嫌がらせのように、SNSの通知欄に罵詈雑言が飛び交うから、通知をオフにしてやった。


 工事への賛成派も反対派も、結局は自分の都合の良い部分だけを見ている。賛成派は発展という名の下に失われるものから目を背け、反対派は変化の必要性を認めようとしない。そもそも大多数の行橋市民は潮力発電所の建設も、そのための埋め立ても、その抗議活動すらも関係ない、眼中にないと目の前のことに夢中で、関心を向けようとしない。みんな、見たいものしか見えていないのが見え見えだ。その中で、汐だけが反対派とはいえ賛成派のことも考慮しながら、現実と向き合おうとしていた。


 ふと視線を感じて振り返ると、遠くに立つ穂香の姿が見えた。いつから来ていたのだろう。気付かれないように距離を置いて、活動を見守っているような様子だった。声をかけようとした瞬間、穂香は静かに立ち去っていった。その後ろ姿には、何か言いたげな思いが込められているような気がした。気のせいだろうか。


 それでも俺は満潮時の汐に会うため、そしてその満潮時の汐を存続させるために、今日も声を張り上げる。俺が抗議活動に参加しているのは学校にも知れ渡り、進路指導の先生からやんわりと注意されたが、お構いなしだった。


「ムカつくよな。抗議活動をやめて勉強しろ、さもなければ内申点に影響がーとかさ。脅迫かよ」

 道路に座り込んだまま弁当を無理やり掻き込む。


「まぁ、正論だけどね。睦は大学行くの?」


「できればね」


「それは、行橋を離れたいから?」


「そ。こんな町いつまでもいても仕方ないじゃん? せっかくなら九州を抜けて、本州とかが良いよなぁ。汐は……行橋のこと好きだもんな。出ていくとか、考えてなさそうだよな」


「それが、迷っててさ。こんな感じで工事がどんどん進めば、あたしんちの牡蠣小屋は間違いなく無くなるし、そうなったら守りたいものがもう無いから、行橋のためになることとか、考える必要もなくなるし。でも行橋のことが好きだから、なんか役に立ちたいなとは思うけど。そもそも行橋に大学はないから、出ていくことになるんだろうなとは思うけどね」


「結局、俺ら二人とも、行橋を出ていくことになるのか」


「だねー。ふう、ごちそうさま。今日も美味しかったね!」


 笑顔で言いながら、汐は密かに波の様子を確認していた。潮は引いている。そろそろ干潮時の汐に変わる頃だろう。


「この後、もうちょっとだけ一緒にいてもらえない? 睦には知っておいてほしい場所があって」

「ああ、良いけど……」


 橋をわたってゴルフの打ちっぱなしを越えて、到着したのは汐の実家の牡蠣小屋。今はシーズンではないからか、鍵が閉まっており人気はない。


「ここって、汐の家だよな?」


「うん。ここの裏に、大事な場所があるんだ」


「それってあの、流木と縄がある?」


「え? なんでそれを?」


 驚いた汐に、逆に驚かされる。そういえば、ここで会ったことは言っていなかったような気がする。汐からも特に言及されなかったし。


「俺実は、カキフェスで汐と出会う前に、ここで会ってるんだ。この前の穂香と一緒にここに牡蠣食べに来ててさ。トイレ探して外に出たときに、偶然、ここで海に向かって縄持って祈っていた汐に出会ってるんだ」


「ああ、あのときの!?」


「汐も覚えてるのか? なんか、印象的で頭に残っててさ。それでカキフェスのときに声かけようと思ってタイミング伺ってたんだ」


「え、そうだったの? なんだぁ、言ってくれればサービスしたのに! なんか変な人来たなって思って、利用してやろうって思って連絡先まで交換したのに。なんだぁ、そうだったんだぁ」


 ほっと安心したように、汐の表情が柔らかくなった。


「初めてあの小さな浜辺で会った時、妙に安心したんだよ。なんか、ちゃんと見てくれて、何も言ってないのに先回りして声をかけてくれて。また和えたら良いなって思ってたんだけど、そんなにちゃんと顔を見てたわけじゃないからさ。そっか、睦だったんだね。なんか、安心した!」


「そう? なら良かったけど」


「睦って、わたしのこと理解しようとしてくれるよね」


「え? それって当たり前じゃない? 穂香だって俺のこと、いつも何でもわかってくれるし」


「穂香……って、ああ、あの幼馴染の。そっか、良い幼馴染だね」


 そう言ってニカッと笑う満潮時の汐の笑顔には、どこか作り物めいた完璧さがあった。でも、その違和感にすら魅力を感じてしまう自分がいた。


「そうか?」


「そうだよ。穂香ちゃんと小さい頃からいたから、自然と身についたんじゃないの?」


 そう、なのだろうか。そういう考え方をしたことがなかったから、なんか新鮮。


「でも疲れるけどな。気を使うって言うじゃん? エネルギー使うんだよな。疲れちゃう。で、疲れたときに気を使えなかったら、相手は期待を裏切られたって思うでしょ? こっちはその前に気を使ってるから疲れてるんだけどさ。だから、最初からエネルギー抑え気味で、関わらずにいるほうが、総合的に楽なんだよ」


「じゃあ、気を遣わなかったら良いんじゃないの?」


「いや、それはそうなんだけどさ、そうはいかないじゃん?」


「うん。それは……そうだね」


 汐も俺と同じように、他人に対してエネルギーを使いまくると疲れるタイプなんだな。と同時に、汐は今でも誰かに対して気を遣いまくっているのかもしれない。そんな気がした。


 なんだか共感できるポイントが見つかって、距離感がぐっと狭まった気がする。


 小さな入江のようになっている所に、牡蠣の貝殻が大量に積み重ねられている。広い砂浜に黒ずんだ流木が横たわり、腐食したようなボロボロのロープがその上に置かれている。汐は砂浜の上をサクサクと歩いて進み、縄を手にして祈り始めた。何分かじっとそのままで、俺はその横で直立不動で何をしたら良いのかわからなかった。ただ、じっと祈り続ける汐の綺麗な横顔を眺めて、綺麗だな、と思うだけだった。


「ここね、満潮状態になると、あの流木が半分くらい海に浸かるの。今は潮が引いて全部見えてるけどね。ここの状態がわたしの性格というか人格に影響を与えているみたいで。わたしたちにとっては、この場所自体が命綱っていう感じなのかな」


 汐は流木に手を伸ばし、まるで大切な人を撫でるように優しく触れた。


「わたしたち? もう一人の汐ってこと?」


「あ、いや、まぁ……そんなとこ」


 なんかちょっと違和感があるが、なるほど、そういうことだったのか。つまりこの場所が埋め立てられたら、完全に干潮状態になり、満潮時の汐が消えてしまう。だからこそ、抗議活動を頑張って工事を阻止しないといけないんだ。


「でも、なんでいつもここで祈るの?」


「この場所は、特別だから。わたしが、わたしでいられる場所だから」


その「わたし」という言葉に、どこか違和感があった。まるで役割を演じているような気がした。


「そっか。まぁ、ここを守れるように、出来るだけのことはしていこう。このことを行橋の人々に知ってもらって、そうだなぁ……広告を打ってたくさん刷って駅前で配るとかはどうかな?」


「こんな田舎の町なんだから、みんな車に乗ってるでしょう。駅前で配っても無駄だよ。しかも広告なんてたくさん刷っても、見られずに捨てられるだけだよ」


 珍しく満潮時の汐の様子が悲観的で違和感を覚えた。いつもなら爽やかに賛同してくれてすぐに行動に移すはずなのに。


「そ、そっか……まぁ、他にも方法は色々あるだろうし、ゆっくり考えていこう!」


 慌ててフォローしてみるが、汐の諦めムードは抜けきれなかった。



 夕暮れの商店街。錆びた看板が、斜めの日差しに照らされている。この街にも飽きたはずなのに、今は不思議と愛おしく感じられる。工事現場から漏れる重機の音が、波のように繰り返される日々の中に溶けていく。変わりゆく風景と、変わらない想いが、まるで漣のように広がっていった。


 諦めきれずに、帰りのへいちくの中で他の抗議活動の宣伝方法を色々調べてみた。新聞広告やチラシ、プラカードなどがメインか。見れば見るほど過激なものが目に入ってきて、思わず視線を外した。車窓から見える景色は植えたての稲が風に踊る様子や、青空に雲が泳いでいる様子など、平和で牧歌的で穏やかだ。こんなところに住んでいる人たちに、わざわざ過激なことをしても受け入れられないだろうな。平和だからこそ、無関心な人が多いのだろう。


 新聞広告とは少し違うが、行橋市には市報がある。これに載せてもらおうかとも思ったが、わざわざ市が推進している事業に対しての反対運動の広告を許可してはくれないだろう。そうなったら県にお願いするしかないのだろうが、発展している西部と違って、取り残された東部の行橋の一高校生に興味を示してくれるはずもないだろう。俺にできることは、やっぱり工事現場の横で声を張り上げることだけなのだろうか。


 東犀川三四郎駅に到着し、駅に降りると、静かで穏やかな、田舎の澄んだ空気に包みこまれた。本能的に、考えるのはやめようと思った。



 じっとりと汗ばむ空気が体を包む。


 中間考査も終わった五月末、体育祭が開かれた。高校生活最後の体育祭だが、別に思い入れも何も無い。早く時間が過ぎてくれればそれで良い。


 ただ、気になるのは汐の元気がないことだ。満潮時の汐はいつも笑顔で爽やかで何事にも積極的で楽しそう。干潮時の汐はドギツイがその分、人としてのエネルギーはあり、情熱的でエネルギッシュ。だから、元気がなく疲れたように見えるのは心配でしかなかった。


 午前中のこの時間帯なら満潮の汐のはず。爽やかに笑って取り組むはずなのに、そこに笑顔はなく、何かを隠しているように見えた。明らかに様子がおかしい汐が心配だ。汐のクラスと俺のクラス、どちらも出番がないときに。トイレに行くふりをして汐を校舎の方に呼び出した。


「睦、どうしたの?」


「いや、別にあれだけど。汐、最近元気ないなって思ってさ。この前も珍しく抗議活動休んだじゃん? なんか、疲れてる? とか?」


「あたしが? いや、別にそんなことないけど。あ、えっと、心配しすぎい!」


 大袈裟でわざとらしいリアクションが逆に怪しい。


 汐の指先が震えている。視線は定まらず、何度も髪をかきあげては服の裾をいじる。話しかけようとして、その言葉を飲み込む。今の汐には、触れてはいけない何かがある。そう直感的に感じた。


 それに今、あたしって言ったような。いつも満潮の時は『わたし』で干潮のときは『あたし』なのに。やっぱり様子がおかしい。


「なんか無理してない?」

「してないよ〜! 大丈夫だよ〜!」


 笑顔が硬い。口角だけ上げて、目が笑っていない。焦って髪をかきあげている。この仕草はまさか。


「今日の汐、なんかいつもと違う。具合でも悪いの?」

「……違う? 何が? どう? どんな感じで違うの?」


 汐の声が震えている。明らかに動揺している。間違いない。目の前にいるのは満潮時の汐じゃない。ということは、まさか。


「干潮時の汐だよね?」

「……やっぱり睦は見抜いたか」


 ため息が出る。別に無理しなくても良かったのに。


「なんで? どうしてこんなことしてるの? 別に見た目は変わんないんだしさ。無理する必要ないじゃん」


「最近会ってくれないじゃん。こっちのあたしと」


「そんなこと? だからって……」


「そんなことってなんだよ。あたしにとっては大事なことなんだよ。明らかに一方的に避けられてるんだからよぉ」


 いつもの干潮時の汐が戻ってきてひと安心。だが、確かに意図して干潮時の汐を避けていたのは事実だから、これは全面的に俺が悪い。悪いんだけど。


「だからって、なんで満潮時の汐の真似事みたいなことしたの? 別にそのまま言えばいいじゃん」


「そんなの言えるわけ無いだろ。現に避けられてるんだから。一緒にいたいのは、会いたいのは、満潮時のあたしなんだろ?」


「それは……」


 はっきり言えばそうだ。干潮時の汐はドギツいし目線も口調も怖いし、選べるなら爽やかで柔らかい笑顔の満潮時の汐に決まってる。だけどそんなの本人を目の前にして言えない。


「睦にとって都合が良いからだろ? 満潮時のほうが可愛くて女の子らしくて、一緒にいたいなって気持ちになるんだろ?」


「そうだけど……」


「だったら満潮時のあたしでいなきゃ、いけないんだろ?」


「それは飛躍しすぎ……だけど、たしかにそうなのかもしれない……」


「……否定してくれよ。あたしのこと考えるんなら」


「……ごめん」


 地面を睨む汐が怖くて、正面から向き合えない。満潮時の汐の事ばかり考えて、干潮時の汐のことは考えていなかった。だから、強く否定することはできないし、十分にフォローすることもできない。だから、ごめんとしか言えない。


「睦ってさ、満潮時のあたしのことが好きなんだろ?」


 何も言えず黙っていると、ギラッとした目が俺を貫いた。嘘はつけない。だけど、素直に話したら、目の前の汐が傷ついてしまう。いや、もうすでに傷ついているのだから、これ以上傷口を大きくしたくない。格好つけているわけではないが、これは汐のことを思っているからこその選択だ。そうだと思い込もう。


 何も口に出せずにいる俺に、呆れたように目線を逸らせて、最後の言葉を吐き捨てた。


「都合の良いとこばっか見てんじゃねえよ」


 痛いところを突かれた。その言葉が心臓を締め付け、まるで氷のように胸に突き刺さった。自分の中の歪んだ願望を、完璧に言い当てられた気がした。


 満潮時の汐だけと向き合って、干潮時の汐のことを避けていたのは事実だった。確かに俺は、自分の好きな部分だけを見て、都合の悪い部分から目を背けていた。それは汐に対してだけじゃない。この町に対しても、同じことをしていたんじゃないだろうか。見たいものだけを見て、 見たくないものからは逃げ続けている。


 穂香だったら、きっとそんなことはしないだろうな。でも、なぜ今、穂香のことを考えているんだろう。


 校舎の裏から歓声が聞こえる。汐がそっちに戻った後、追いかけることもなく、ただ立ちすくむしかなかった。


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