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8.藍色の汐目−3

 もう汗か涙か海か水道水か分からないもので顔がぐちゃぐちゃになっている。それが傾きかけている太陽からの強い日差しに照らされて、チラチラ輝いている。


「だいぶ汚したな」


「うん。ごめん。だいぶ汚させたね」


 だいぶ落ち着いたようで、安心した。汐の演技を辞めた澪は、満潮時の汐のイメージ通り、爽やかで可愛らしい、柔らかい表情をしている。


「洗って着替えようか。……って、もう水は出ないのか」


「海水浴場まで一緒に行こうよ」


「マテ貝掘ったの、なんか懐かしいな」


「だよね。あの時から、ちょっとずつわたしのことを出そうと思えたんだよね。睦だったら、受け止めてくれるんじゃないかって、思っちゃって」


「なんか嬉しいわ。ありがと。……じゃあ、歩ける?」


「うん。ちょっと待って。最後のお別れ、するから」


 そう言って立ち上がった澪は、浜辺まで戻って、いつもの場所で流木とロープに向かってぶつぶつ話し始めた。


「汐、ごめん。守れなかった。ここにはもう、来ないから。工事で、この場所も消えちゃうから」


 風が吹いて、澪の長い黒髪が揺れる。その向こうで、黒ずんだ流木も共鳴したように微かに揺れている。潮は引いていく。けれど、確かに何かへと導かれているような予感があった。


「毎日毎日、ここに来て汐のことを思い出して、汐のイメージを作って、話し方を練習して。それは、自分が決めた罰だった。だって、本当は溺れる汐を見てるだけだった私が、その汐のふりをして生きようなんて、傲慢だった」


 澪がロープを手に取る。何年も波風に晒された麻紐は、ところどころ繊維が剥がれ固くなっている。瞬間的に体重が前に乗り出しそうになったが、ぐっとこらえた。今の澪は、そんなことしない。そう信じることにしたから。


「毎日ここで祈れば、許されると思ってた。でも、そうじゃなかった。自分を苦しめ続けただけだった。でも、許されなくていいんだよね。ただ、前に進む。それだけ。わたしはわたしのまま、生きていくから」


 澪は静かにロープを流木の下へ置いた。水面がぴちゃんと跳ねて、ロープはゆっくりと水たまりに沈んでいった。最後に流木に手を当てる。波に洗われ、潮風に晒され、なめらかになった木肌が、懐かしい感触を残していく。


「毎日、ここで」


 その言葉には、十年分の重みがあった。


「許してもらえないって、分かってたのに」


 指先が震える。流木の表面を這うように、その指が動く。乾いた砂と潮の混じった独特の匂いが、この場所にしかない記憶の香りとなって、胸に染み込んでいく。


「今までありがとう。汐の分まで、しっかり生きていくね」


 ゆっくりと手を離すと、澪は俺の方へ踵を返した。その表情には、もう迷いはなかった。埋め立て工事で失われゆく浜辺は、汐との思い出が刻まれた特別な場所。コンクリートの下に埋もれていく砂浜を見つめながら、ここで過ごした時間の重みを噛み締めた。


 小さな水たまりからは湯気が立ち上り、それは汐との別れが近づいていることを告げているかのようだった。でも、もう目を背けることはない。失われゆくものも、残されるものも、すべてをしっかりと見つめていく覚悟が、静かに心の中で形を成していった。


「行こう。長井浜まで」


 黙って頷いた。二人で牡蠣小屋を後にする。ひぐらしの鳴き声に包まれながら、夕焼けの田んぼ道を二人で歩いた。


「最初に会ったとき、覚えてる?」


 澪の声が、張り詰めた空気を柔らかく溶かしていく。


「ああ。牡蠣小屋の裏で、海に向かって祈ってた」


「あのとき、何を祈ってたと思う?」


「たしかあの時、誰かに謝ってたんだよな。そっか、汐に、謝ってたのか」


「うん。でも、そればかりじゃなくて」


「汐になりきれますように、って。毎日祈ってた。あと、年始から工事が始まりそうだったから、あの浜辺をなくさないからって、抗議活動する決意表明してたんだ」


「ああ、たしかそんなだった気がするわ」


「で、あのとき睦に見つかって、きっと怪しまれると思ったのに、睦は何も聞かなかった。なんでだろ」


「あのときの澪が綺麗すぎて。なんていうか、この世のものじゃないような。だから、余計なこと聞くのが怖かったんだと思う」


「そっか、この世のものじゃない、か。まさにその通りだったね」


 二人で小さく笑う。波音が大きく聞こえてきた。牡蠣小屋は、この町の記憶そのものだった。汐の存在が刻まれた場所であり、澪の罪が眠る場所。でも同時に、新しい彼女が生まれる場所でもあった。


「カキフェスのときは、完全に利用しちゃったよね。睦が牡蠣をもらおうとしてきたから、これは抗議運動に参加させてやろうって利用した」


「まさかそれが運命の出会いになるとはなぁ」


「運命、か。でも確かに、あのときからわたしの日常は変わり始めた。今考えると、よく気付かれなかったよね」


「俺も都合の良いところしか見てなかったからな。満潮時の汐としか会わないように、わざと時間を選んで」


 その言葉に、澪は悲しそうな顔をした。


「あのね、干潮時の汐のときのわたしも、実は嬉しかったんだ。睦が来てくれることが」


「え、なんで?」


「だって、誰も干潮時の汐のときのわたしには近づきたがらなかったんだもん。それに反対運動だって、最初は同年代なんていなくて私一人だったのに。睦が来てくれて、私の声に耳を傾けてくれて。満潮時の汐のときのわたしに会いたいだけでも嬉しかったけど、干潮時でも会いに来てくれただけで嬉しかったよ」


「澪……」


「穂香ちゃん、だっけ。彼女のことは、ごめんね。いつも一緒にいたのに、わたしのせいで穂香ちゃんと一緒にいられなかったもんね」


「違うよ。それは俺が自分で決めたことだから。ていうか別に穂香はそんなんじゃないし。澪のほうが優先だから」


「でも、わたしのために抗議運動に参加して、穂香ちゃんとの時間はその分減ったわけでしょう?」


「良いんだよ穂香のことは」


「そう?」


「そう」


 工事現場へと向かうであろう、汚れた大きな重機の乗った車両とすれ違い、ホコリまみれの排気ガスを手で払う。


「わたしたちの反対運動って、意味あったのかな」


「あったよ。少なくとも、俺にとっては」


「どんな?」


「この町を違う目で見られるようになった。最初は灰色の町にしか見えなかったけど、今は色んな色が見える。意外と良いとこかもな、行橋」


「そんな風に思ってもらえて、嬉しいよ」


「俺さ、ずっと行橋のこと、つまらない町だって思ってた。でも、それって、俺が自分の悪さ加減から目を逸らしたかっただけなのかもしれない」


「どういうこと?」


「澪に比べたらどうってことなんだけどさ。行橋って市でしょ? 町じゃん? ド田舎から行橋に来て、思った感じと全然違ってたんだよね。期待しすぎてたっていうか。はじめて行橋駅から出た瞬間に、灰色に見えたんだよね。それから行橋のことは悪い部分だけ見て、文句ばっかり言ってた気がする。きっと良いところもあったはずなのに、見てないふりしてたっていうかさ。行橋にそんな良さなんてあるはずがないって決めつけてたりしてたかもしれない。それは町が悪いんじゃなくて、本当は俺自身のせいだったんだよな」


 言いながら気付いた。今までいかに人のせいにしてきたか。いかに町のせいにしてきたか。いかに自分自身の責任から逃げてきたか。自分で言いながら、自分に跳ね返ってくる。誰かのせいじゃない。全部自分のせいなんだ。


「この町って本当は、誰のものなんだろうね」


「え? なんで急に?」


「わたしさ、潮力発電所建設とそれに付随する埋め立てに対して反対運動を自分ではじめたわけじゃん? それって、行橋を心のどこかで行橋市民のものだって、行橋市民である自分のものだって、そう思ってきたような気がしてさ。だから、睦から見たら、どうなのかなって」


「俺は……開発を望む人たちのものでも、反対する人たちのものでもないと思う」


「どういうこと?」


「なんか、みんなが、自分の都合のいいように町を見てるような気がして。俺だって、満潮時の汐に会うための場所としか見てなかったし、つまらない町だって思い込んでたし」


「わたしも、自分の罪を隠すための場所として、この浜辺を使ってた」


「でも不思議とさ、そうやって皆が勝手な意味を見出すことで、町は生きてるんだと思うんだよね。この浜辺だって、澪にとっては贖罪の場所で、俺にとっては出会いの場所。その重なり合いの中に、本当の町があるんじゃないかな。同じように、汐としての記憶も、澪としての想いも、全てが重なって、今の澪っていう存在を作ってるんじゃないかなって」


 波音が大きく聞こえて、海水浴場まで到着した。みんなお祭りに行っているからか、海水浴客は誰もいない。


 濡れたTシャツが肌に張り付いて、潮風に冷やされる。汗と涙の混ざった塩辛さが、唇に触れる。それを拭っても顔に泥がついて気持ち悪かったから、早足で海辺まで歩いた。


 砂浜に辿り着くと、澪は下着が透けるのを気にしながら、黙って自分のシャツを海で洗い始めた。昼下がりの照りつける太陽の下、砂浜は歩けないほどの熱さを放っている。夏の終わりを告げるような潮風が肌を刺すように強く、汐の長い黒髪が激しくなびく。誰もいない浜辺は、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれていた。


 シャツから滴る水滴が砂に染みていく様子は、この町に刻まれた思い出のように儚く見えた。海を渡る風が波紋を描き、その一つ一つが、これまでの記憶のように広がっては消えていく。縁を海水に浸して優しく揉む手つきは、まるで誰かを撫でているようだった。


 砂浜を吹き抜ける風が、波打ち際にまだら模様を描く。夕日に照らされて、その模様が黄金色に輝いている。決して澄んでいるとは言えないが、夕日を鏡のように移す雄大で穏やかな海は、たしかに見守ってくれているように見える。前は汚いと思っていた砂浜も、今では白く美しく見える。こんな景色に気付けたのも、汐のおかげ。いや、澪のおかげか。


「今考えたんだけど」


 澪が突然、口を開いた。


「USOじゃなくて、USIOの汐のままで、嘘じゃない生き方もある、よね?」


「どういうこと?」


「この前言ったでしょ。USIOからI、つまりわたしを消せば、USOで嘘になるって。でも逆に考えたら、I、つまりわたしが入ることで、嘘じゃない汐になれるってこと。わたしは確かに澪だけど、汐として生きてきた記憶も、想いも、全部わたしの一部、なんでしょ?」


 潮風が二人の髪を揺らす。寄せては返す波音の中、澪の言葉は静かに、しかし確かな重みを持って届いた。


「これまでは罪悪感から、必死で汐を演じようとしてた。でも、これからは感謝の気持ちを込めて、汐の名前で生きていく。嘘じゃない、本当の汐として」


 波が優しく澪、もとい汐の足元を撫でていく。引き波が砂を削り、また新しい砂を積もらせる。そうやって浜辺は形を変えながら、ずっとここにある。


「二重人格だと思ったら双子の人格で、かと思えば全部演技で、しまいには自分で自分を殺そうとして。本当、しゃあしいなぁ、汐は」


「ごめんごめん。わたしの中には本当に汐になりたいという願望と、澪のままでいたいという欲求が共存していた。単純な『ふり』だったのに、いつの間にか内なる分裂や自己矛盾を抱えちゃって。あの日以来、何が本当の記憶で何が作り上げられた記憶なのか、自分でも区別がつかなくなってた。だから、汐になりきれてるときと汐になりきれないときを無意識のうちに分けるようになって、それが二つの人格に分かれていった」


 潮風が二人の間を通り抜けていく。遠くの防波堤で、釣り人が竿を垂れている。その先には、潮力発電所の工事現場。変わっていくものと、変わらないものが、目の前で交差している。


「結局これは自分を守るための物語だった。本当の自分を完全に消し去ることはできないけれど、かといって本当の自分をさらけ出すこともできない。その中間地点として、二重人格ということを自分に言い聞かせながら、周囲にも伝えることで、両者のバランスを取ろうとしてた。単なる嘘や取り繕いではなくて、わたしなりの自分自身の真実の表現だったんじゃないかな、って。さっき睦から全部が本物だったんだって言われた時に、そう思ったんだ」


 汐でもある澪が、自分自身の中で生じた矛盾を必死で理解しようとして、どうにか自分の中で納得するように練り上げたのが、二重人格という怪物だったのだろう。その二重人格を演じているという事実こそが、澪を汐たらしめる、澪自身の本当の姿だったのかもしれない。


「みんな、きっとわたしみたいなんだと思う。本当の自分を出せなくて、誰かのフリをして、でもそれにも疲れて。だから、誰かを傷つけることで自分を保とうとして」


澪の表情が、不思議な優しさを帯びる。その表情はやけに大人びている。


「干潮時のわたしもそうだった。誰かを突き放すことで、自分を守ろうとして。でも、それって結局、逃げてただけだった。でも、もう逃げなくて良いって気付いたの」


 潮風が強くなり、澪の髪が波のように大きくうねる。


「満潮時のわたしは理想の自分。干潮時のわたしは罰としての自分。どっちも演技で、どっちも本物で。それが、わたし」


 澪はその場にしゃがみ込み、手のひらですくった砂を、そっと風に放った。


「毎日毎日、誰かになりすまして。でも、それはわたしという存在の一部になってた。汐として生きてきた記憶も、想いも、全部私の一部になってた。満潮の時は、理想の自分になれる時間。干潮の時は、自分を責める時間。その繰り返しの中で、少しずつ見えてきたの。本当のわたしの形が」


 立ち上がった澪は、もう迷いのない表情をしていた。


「完璧な演技の汐でもなく、自分を追い詰める汐でもない。ただの、わたし。この場所がなくなっても、もう大丈夫。わたしはもう、誰かのフリをしなくていい。ただ、わたしとして生きていけばいい」


 その言葉には、十年分の重みと、新しい決意が込められていた。


「だって私は、もう誰でもない。新しい、別人に生まれ変わった、長野汐として生きていくから」

夕日に照らされて、辺り一面焼けたように赤く染まっている。澪の瞳が、夕陽に照らされて藍く輝いている。


「これからは、満潮も干潮も関係ない。ただ、素直なわたしでいられたらいいな」


 その横顔は、もう汐でも澪でもない、ただ一人の少女のものだった。まるで、長年の重荷から解放されたように、凛として、そして儚く。


 風が吹き抜け、浜辺に残された足跡を静かに消していった。やがて工事で失われるこの景色を、最後にしっかりと目に焼き付けるように。


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