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8.藍色の汐目−2

 蝉の声が遠のいていく。雨雲が漂ってきて、目の前の水たまりに映る空が少しずつ色を失っていく。誰かの苦しみを見殺しにし、誰かの頑張りを見殺しにし、誰かの想いを見殺しにする。汐の悲しみも、穂香の気持ちも、この町への想いも、すべて見殺しにしてきた。それが本当の俺だった。


「見ているだけの人間は、人畜無害なんじゃない。それだけで、きっと有害なんだよ」


 その言葉が、水面に落ちた雨のように、静かな波紋を広げていく。もはや汐の告白だけではない。俺への断罪だった。


「汐はもういないの。私が作った嘘だから。全部、嘘だったんよ」


 この現実も、きちんと見ないといけないのだろう。はぁ、と大きな溜息がこぼれた。真夏の昼下がりに、蝉時雨だけが鳴り響いて、遠くの方では海と空が混じって水平線が消えていた。


 しばらくの沈黙の後、汐、もとい澪が口を開いた。


「汐って、ローマ字にしたらUSIOでしょ? I、つまり私をなくせば、USO、つまり嘘になるってこと。……ま、今気づいたんだけどね。だけど、本当にそうだと思ってる。わたしはわたしを亡くすことで、汐という人格として生きてこられたから」


 へらへらと儚い笑みを浮かべる澪。悪い冗談だ、と笑うことすら許されないような空気に、息が詰まりそうになる。


「あの日海に飲まれたのは、汐の方。わたしはそれを、黙って見ていた。それを両親に伝えに言ったら、汐と澪のどっちが流されたのか聞かれちゃって、咄嗟に嘘ついちゃったんだ。流されたのは澪だよって。それからわたしの汐としての人生が始まっちゃったの」


 潮風が強くなり、汐の髪が無造作に舞う。その表情には、もう迷いはない。ただ真実を語ろうとする、凛とした覚悟だけが見える。


「なんでそんな嘘を……」


「汐は将来を期待されてたから。怒られたりするのは、期待をかけられていたから。幼いながらもなんとなく分かってた。期待されてる汐と、放置されてるわたし。だから、わたしは汐がうらやましかった。一瞬、汐がいなくなれば両親はわたしに時間を割いてくれると思ってしまった。気付いたときには、海の中で不安な顔のまま沈んでいく汐がいた。だからそれを伝えに行ったのに、両親が悲しむと思っちゃったんだろうね。生き残ったのは汐にしたほうが良いんだって、直感的に思っちゃったんだと思う」


 自分の中の何かが崩れていくのを感じた。でも、その崩壊と共に、新しい何かが芽生え始めているようにも思えた。


「きっと、優しい子だったんだよね。だけど、自分のことは優しく出来なかったんだね」


 まるで自分の口ではないかのように、無意識のうちに言葉が出た。その違和感を飲み込む前に、汐の言葉が波のように押し寄せてきた。


「どうだろうね。あの日から、わたしは汐として生きることにした。期待されていた汐として。でも、ずっと他人を演じるのは辛すぎて、たまに本当の自分に戻りたくて。だから満潮の時だけ、本当の自分になれるように、自分にはじめて言い訳をして、逃げ道を作ってあげた」


 つまり、汐と出会ってから二転三転した汐自身の説明は、全て汐が自分自身の罪と向き合うことから逃げるための嘘であり作られたものだったということだ。姉である汐を溺れさせてしまった罪悪感と、その後汐として生きることになった罪の意識から逃れるために、自分の行動を自分でコントロールできないものとして正当化しようとした。汐として生きることを求められる中で、本当の自分である澪としての部分を完全に消し去ることはできなかったから、あえて二重人格にすることで自然と演技である汐と演技をしなくて済む澪の人格を作り込んで、それを潮の満ち引きという自然現象と結びつけることで、自分の中にある汐と澪の両方の側面を説明しようとしたのだろう。


「わたしは汐が沈んでいくのをこの目で見ていた。でも、その事実を直視出来ていなかった。見たくなかった。だから、汐になることを選んだんだと思う」


 言葉が、喉に詰まる。目の前の現実が、あまりにも重たすぎて。


「ごめんね。わたしはずっと、演技をしてた。汐のフリをして、生きてた。本当は、全部嘘だった。睦が好きになった汐という人間は、本当はどこにもいないの」


 本当は汐が澪を失ったのではなく、澪が汐を失ったのだ。そして、汐に澪の人格が出てきたのではなく、澪が汐になりきれずに、澪の部分がこぼれ出た。つまり、汐はこの場所で死に、この場所で生まれ変わったように見せかけていたのだ。もう後戻りはできない。岸に打ち寄せる波のように、真実が押し寄せてくる。


「それは、嘘じゃ、ないんだよね? 本当なんだよね?」


「うん。睦には嘘が通用しないし。他の誰も気付いてくれなかった、気付こうともしてくれなかった本当の気持ちを、睦は分かってくれようとしてるから。だから、睦にだけは本当のことを話したくなった」


 しゃあしい、と声が出かけて止まった。しゃあしい、と吐き捨てて逃げて良いような状況じゃない。せっかく汐が心を開こうとしてるんだから、ちゃんと受け止めないと。汐は俯いたまま、か細い声で続けた。


「睦は、わたしの全部を見ようとしてくれる。だからこそ、演技を続けるのが辛くなってきた。見られれば見られるほど、偽りの自分でいることが苦しくて。早く本当のことを話して、楽になりたかった」


「だからこの前そう言ったじゃん!」


「そう簡単じゃないんだよ。汐を殺したのはわたし、そしてその直後、澪の人生も殺したんだよ。だから、わたしは澪であって汐であって、誰でもないんだよ」


 澪であって、汐でもあって、同時に誰でもない。じゃあ、目の前にいるのは一体誰だ? どうフォローすれば良いのか、なんと声をかけたら良いのか分からず、ただただ頷くだけだった。


 その時、水道水が途切れて、ホースから水が出なくなった。最後の一滴が砂に吸い込まれていく様子はまるで時間そのものが干上がっていくようで、胸が痛む。残された水たまりは、かつての海の影のように、じわじわと縮んでいく。砂は徐々に色を変え、湿り気を失っていく。それは満潮時の汐が消えていく過程そのものを見ているようで、目を逸らしたくなった。でも、この変化から目を背けることは、汐の苦しみから目を背けることと同じだ。だから、最後の一滴まで、しっかりと見届けようと思った。


 牡蠣小屋には鍵が閉まっていたから、おそらく水道が止められたのだろう。チョロチョロとも出なくなって、あとは目の前の水たまりが蒸発するのを待つだけだった。


「ついに止まったか。大切な場所だったんだけどな。もう消えちゃうんだね。満潮時の汐の人格は」


「でも満潮時の汐は澪のことだから、消えないんじゃないのか? え、もしかして、ここの水が干からびても、干潮時の汐じゃなくて、澪が残るんじゃないのか? そうなったら、目的は達成されるじゃん! あ、でもそれだと俺が抗議活動に参加した意味がなかったんじゃ……でも、目的は達成だな!」


「違うよ……澪は、あの日もう死んだんだよ。わたしは、汐として生きなければならないから。長野澪はもう、この世にはいないんだよ」


 潮風が二人の間を通り抜けていく。言葉にできない重みが、空気を震わせる。


「あの写真、最後の写真だったんだよ」


 汐の声が震えていた。スマホを取り出し、ロック画面を表示する。


「この写真が撮られた日の午後、潮が満ちてきてね」


 言葉が途切れる。白い砂浜に立つ二人の少女。その笑顔の裏に隠された真実が、今になって痛いほど分かる。それは汐と澪が一緒に写った最後の瞬間。まだあの出来事が起きる前の、偽りのない二人の姿。


「そんな……」


 この思いをどこにぶつければ良いのか分からなかった。誰のせいでこうなったのか。きっと誰のせいでもないのだろう。だからこんなに苦しいのだろう。


「この場所があるから、わたしは汐でいられた。この場所は、わたしが汐を見殺しにした場所。それなのに、この場所があるからこそ、わたしは汐になりすまして生きていけた」


「なりすましてって」


「ここで汐に対して許しを請えていたんだと思う。汐だったらこんな風に生きてただろうなって、勝手に解釈して、自分なりに演じてたつもりだった。でも、それは結局、自分が殺した汐の人生を盗んで生きてるってこと。この場所がなくなるってことは、わたしがずっと演じてきた汐も消えるってことだよ」


 その重たい告白に、何も言い返せなくなる。真実を知った後の感情は、複雑だった。これまで信じていた汐の姿は、全て演技だったのかもしれない。でも、その演技の中にも確かな真実があった。満潮時の汐として見せてくれた笑顔も、干潮時の汐として見せてくれた強さも、全てが澪という一人の少女の中に存在していた証だった。


 それは単なる演技ではなく、生きるための必死の選択だったのだ。そう気付いた時、これまで感じていた違和感が、深い共感へと変わっていった。


「満潮の時だけは、素直な自分に戻れた気がして。あの流木が海に満たされるとき、わたしは澪として生きていいって思えた。でもそれはただの逃げ場だった。干潮になると、必死で汐を演じてた」


「それって自分で課したルールだろ? そんなの、自分でルールを変えれば良いだけじゃないか!」


「そんなに簡単じゃないんだよ。他人の人生を生きていくってさ。自分ではじめた嘘は、自分で最後まで貫き通さなきゃ」


 その顔は、決意と言うより諦めだった。覚悟ではなく、開き直りのようにも思える。

 藍色の瞳は光を失い、風に舞う長い黒髪で青白い顔が叩かれる。


「最近ね、満潮時の演技が、うまくいかなくなってきたの。みんなの注目を集めれば集めるほど、逆にね。素直な自分を出すのが怖くなって」


「それって、抗議活動の影響なんじゃないの?」


「かもね。SNSでバズって、動画が拡散されて。みんながわたしを見てる。その目が怖いの」


「満潮時の汐のために反対運動をしていたのに、逆にそれが満潮時の汐を追い込むことになってたってこと?」


「そうだと思う。必死だった。演技を完璧にしようとして。でも、これはわたしがはじめたことだから……」


「毎日毎日、汐として生きていくために、自分に暗示をかけ続けたの。『わたしは汐だ』って。でも、その暗示が強すぎて、本当の自分が見えなくなっていった。そのうち何が本当で何が嘘なのかも、分からなくなって」


 その言葉に、胸が締め付けられる。自分を守るための嘘が、やがて自分を縛る鎖になっていく。その過程が、痛いほど伝わってきた。


「どこまで自分をいじめれば気が済むんだよ。もう良いんだよそんなのどうでも!」


「どうでもよくない! わたしが本当の自分に戻ったら、汐を殺した罪から逃げることになる。わたしはその罪を背負って生きなきゃいけないの。だから、このまま消えるしかないんだよ!」


 その瞬間、これまでの違和感が一気に繋がった。満潮時と干潮時。爽やかで愛らしい満潮時の汐と、攻撃的で好かれない干潮時の汐。その不自然で極端な差は、それを作り上げた過程で歪に出来上がってしまったものなのではないだろうか。


「待てよ。それって本当に罪の意識なのか?」


「え?」


「満潮時の汐は澪で、干潮時の汐は、澪がそうであってほしいと願った、未来の汐なんだよな? それって、自分の嫌な部分を、演じるふりをしながら汐に押し付けてないか? そうやって『好かれない汐』を作り上げることで、『好かれる澪』を浮き立たせようとしてきたんじゃないのか?」


 藍色の淀んだ瞳が見開いた。直感的に核心を突いてしまったことを悟った。


「罪悪感を装いつつ、実は勝利を確信してたんだろ? 汐より澪のほうが、みんなから愛される価値があるって」


 涙が零れ落ちる。その一粒一粒が、長年の仮面を溶かしていくようだった。


「違う! そんなつもりじゃ」


 言葉が途中で途切れた。多分、自分でも気付いていなかった本当の気持ちが、波のように押し寄せてきているのだろう。


「……本当は、ずっとそう思ってた。汐より私のほうが、愛されるべきだって。だから満潮時は理想の自分を演じて、干潮時は自分の嫌な部分を誇張して汐に押し付けて。そうやって、自分の存在を正当化しようとしてた」


 告白を受けて、これまでの記憶が走馬灯のように駆け巡る。満潮時の完璧すぎる笑顔。干潮時の大げさな攻撃性。すべては意図的だった。滑稽なほど作り込まれた二面性。それは罪悪感からではなく、誰かへの復讐のような、勝利宣言のような。


「わたしは汐を二度殺した。一度目は海で見殺しに、二度目は記憶の中で。『好かれない汐』を作り上げることで、汐の存在を否定し続けてきた」


「なのに、それを罪だって? 冗談じゃない。それって、ずっと汐を殺し続けてるってことにならないか?」


「睦には分からないよ。毎日毎日、自分が殺した人の顔を鏡で見るの。どんなに汐になりきっても、それは結局、偽物でしかない。わたしは……」


 水面に映る顔が、風で歪んだ。完全に自分を見失っている。


「わたしは、誰なの?」


 その声は震えていた。長い黒髪が顔を覆い、その隙間から覗く藍色の瞳は、まるで壊れた人形のように虚ろだった。両手で自分の肩を抱きしめ、小刻みに震える姿が痛々しい。時折髪をかき上げる指先が不規則に動き、唇を噛みしめては緩める仕草に、言葉にできない苦悩が滲む。


 まるでモノクロの世界に戻ったような気がした。


 灰色の殻が積み重ねられた、灰色の浜辺。静寂で濁った灰色の海。手がかじかむほど寒いのに、黒ずんだ流木に引っ掛けられている縄を素手で引っ張りながら、片手で海に向かって祈っている少女。


 かつて俺が初めて出会ったときと同じ光景。ただし、今は誰が祈っているのかがはっきりと分かる。あの日、俺には神秘的に見えた藍色の瞳の主が、今では背景と同化しているかのように、彩度を失っている。


 汐の藍色の瞳に映る自分の姿が、二重三重に揺れている。まるで汐の中の人格が入り乱れているように、その表情は刻一刻と変化を続けていた。それは満潮でも干潮でもない、ただ迷子になった少女の姿だった。


 水道を止められてしまったから、これが最後の祈り。引き潮のように無くなりかけている水たまりに映る流木の傍ら、縄を掴む指が震えている。


「鏡を見るたび、誰かが見返してくる」


 汐の声が、波のように揺れる。空は白く晴れて、海は黒く渦巻いている。長い黒髪が、目の前の綺麗な白い顔に巻き付くように乱れている。かつて澪が汐を見殺しにした罪悪感から、すべてが始まった。その記憶を反復するように、目の前の流木が汐の代わりに沈んでいくのを黙って待っているように見える。


「誰の顔なのか、分からなくなる時がある。誰なのかもわからない、誰でもないのかもしれない」


 その瞳に映る景色は、幾重にも重なっていた。過去と現在、罪と贖罪、真実と嘘。すべてが波のように寄せては返し、そのたびに新しい色を映し出していく。


「誰でもないって、そんなわけ」


 そんなわけ、ないのか? 本当に? だんだん分からなくなってくる。負の引力に吸い込まれそうになる。


「だったら……消えても一緒だよ」


 嫌な予感がする。言葉に詰まって震える汐の背中。それに手を伸ばそうとした瞬間、澪は俺に向かってきた。


「睦にとって、わたしは誰なんだろう。汐? 澪? それとも」


 その声は次第に小さくなっていく。まるで自分の存在が薄れていくように。

 反射的に受身の姿勢を取ると、俺の手元から水のでなくなったホースを奪い取り、牡蠣小屋に向かって走り出した。その時の、諦めと悲しみと開き直りが入り混じった、淀んだ笑顔が不気味で、追いかける一歩目が遅れた。


「おい! なにする気だよ!」


 衝動が汐を走らせたのだろう。逃げる汐を追いかける。牡蠣小屋の裏口の屋根にホースを引っ掛けて、輪っかを作って垂らし始めた。本気でこの世から消えようとしているのか。


「澪!」


 牡蠣小屋の裏口の梁に結ばれたホースに、首元を持っていく澪を、必死で掴みかかった。もはや汐でも澪でもどっちでも良い。助かるならどっちだろうと関係ない!


「やめろ!」


 掴んだ腕は小刻みに震えていた。汐の体が異常に熱く、それなのに指先は冷たい。必死で首を振る度に、長い黒髪が空気を切り裂く。目を見開いた瞳は焦点が定まらず、唇は血の気を失って白く、時折歯を食いしばる音が聞こえる。


「やめてよ! わたしはこの場所と一緒に消えるの! 汐も、汐を殺したわたしも、全部消すの!」


 激しく抵抗する澪の心の叫びが、祭りで誰もいなくなった簑島に響き渡る。海がそれをすべて包み込んで、澪を誘い込んでいる。


 叫ぶ声は裏返り、喉から絞り出すような嗄れた音になっていた。抵抗する腕の力は強いのに、その動きには奇妙な緩さがある。まるで本当は助けを求めているかのように、時折その力が緩む。汐の頬を伝う涙が、雨のように降り注ぐ。膝が折れそうになるのを必死で踏ん張る足取りが、心を締め付ける。 その姿は、まるで溺れる人のようだった。


 その一瞬の間に、これまでの記憶が走馬灯のように駆け抜けた。満潮時の笑顔。干潮時の叫び。すべては澪の演技だったという告白。 そして今、目の前で消えようとしている汐という存在。


 砂浜に残された二つの足跡が、潮風に少しずつ消されていく。白い砂の上には、汐が指で描いた渦巻き模様。それは二つの人格が溶け合うモチーフのように思えた。


 他人を長い間演じてきたから、自分を見失っているだけだ。自分にもっとフォーカスできれば、消えたいなんて思わないはずだ。だから、こんなところで死なせるわけにはいかない。


 一瞬の隙を突いて、澪はするりと抜け出した。やばいと思ったときにはもう遅い。澪は流木に向かって走り出していた。


「まっ!」


 干からびかけている水たまりから顔を出す流木から、腐りかけのロープを外そうとした。それは長年の懺悔の証のように、しっかりと木肌に食い込んでいた。外すのが無理だと悟ったのか、その場で水面に顔をつけて、ロープで首を絞めようとしている。全身泥だらけでそこに顔を突っ込み震えた澪を、必死で海から剥がそうとした。


「わたしはね、毎日毎日、汐のために祈ってきた。自分が殺した汐のために。罪を償うために。でも、それすらも、嘘だった。わたしは、自分が生きるための言い訳として、汐を使っていた。この罪深い私が!」


 激しく轟き押し寄せてくる、波のような澪の心の叫びの中に、十数年分の苦しみが溶け込んでいる。


 今までの俺だったら、こんなしゃあしいやつって言うだけで逃げていただろうけど、今日は違う。しっかり言葉を受け入れて、同じ目線で共感して、疲れることを考えずに、目の前の相手にエネルギーを使い切りたい。


「満潮時の汐は、いつも笑顔で、明るくて、みんなから愛されて。でも、それも全部嘘。わたしが作り上げた、偽りの人格。わたしは、汐の人生を盗んで、代わりに澪を殺した。本当は、わたしが欲しかった人生だった。汐として生きることで、わたしは新しい人生を手に入れられると思った。誰からも愛される存在になれると思った。でも、そんな演技をすればするほど、本当の自分が見えなくなっていった!」


 震える指が、ロープをきつく握りしめる。その手から伝わってくる痛みと悲しみに、まるで俺自身が首を絞められているような苦しさが伝わってくる。


「違う! 澪が作り上げた汐も、俺が好きだった満潮時の汐も、本物だったんだ!」


 相手の苦しみを自分事に出来たときに、初めて相手の気持ちに共感できる。


 そして気付いた。穂香が言っていた、俺にしか見えないもの。


 俺にしか見えない色がある。それは、他者の顔色だ。


 顔色を伺うのは、相手に嫌われないように忖度をして自己防衛をすることではない。本当の意味で顔色を伺えるのは、相手のことを本当に自分のこととして捉えて、相手も気付かないような小さな変化にも機敏に反応したいという気持ちの現われだ。


 他者の顔色をしっかり伺って、他者の気持ちに寄り添って、自分事にして、そして自分の最大限のエネルギーを相手に与える。それは激励であり、安心してもらうための行動でもある。それこそが、本来俺が持っていたはずのやさしさなのかもしれない。


「え?」


「確かに始まりは演技だったかもしれない。でも、その演技の中に、本物の想いが込められていた。誰かに見てほしいという願い。認められたい、愛されたいという願い。そのどれもが澪の中にある、本当の気持ちなんだよ!」


 力を込めて、ロープを握る手を包む。真夏なのに冷え切った手の甲に、熱意を込める。


「演技だと思ってた満潮時の汐は、本当は澪の理想の自分であり、希望だったんだと思う。それは誰かに愛される喜びと、そういう光に満ちた自分の姿。干潮時の汐は、澪が背負ってきた痛みそのもの。本当は誰かに、頑張ってきたねって、認めてほしかった重みそのもの。どっちも嘘じゃない。どっちも本物の汐であり、澪だったんだよ!」


 共感し、自分事にし、その上で相手に自分の熱意を伝える。ただ投げやりになるのでもなく、ぶっきらぼうに気持ちをぶつけるのでもない。やさしさを、与える。


 その瞬間、澪の手からロープが零れ落ちた。澪が苦しみを手放そうとしている証だと思った。


「ちがう! そんな都合の良い解釈しちゃだめだよ!」


「ちがわない! 都合の良い解釈なんかじゃない! それは過去のことであって。もう、自分を責めなくていいんだよ!」


 俺は震える澪の背中を、強く抱きしめた。泥だらけになっても、何も気にしなかった。


「この浜辺で祈ってきた澪は、本物だった。汐として生きてきた記憶も、想いも、全部本物。澪が必死で生きようとした証なんだよ!」


 枯れるまで叫んだ。澪の力が抜けて、小刻みに震えた泥だらけの背中が水たまりに浮いた。それを起こして、汚れることなんか考えずに、きつく抱きしめた。


 汐はしばらく小刻みに震えていたが、しばらくすると穏やかな海のように腕の中に馴染んできた。十数年の苦しみから解放されたのがわかったような気がした。


「わたし……もう汐じゃなくても、いいの?」


「ああ。もう演技はしなくていい。満潮も干潮も関係ない。澪でも汐でも良いし、どっちでもなくても良い。自分らしく、自分の思うままに、自分のために生きてれば、それだけで良いんだよ」


「でも……」


「澪が汐のために、汐を助けるためにロープがあればって、思ったんだよな? 汐は澪に、こんな形でロープを使ってほしいとは、思わないだろ?」


 蝉の声が、工事現場の重機の音を飲み込もうとしている。アスファルトから立ち上る熱気が現実を歪めて見せる。その中で、水道水で作った人工の海に映る汐の横顔が儚く揺れていた。汐の影が、流木の影と重なって一つになる。


 震える声で紡ぎ出した言葉に、汐の体から力が抜けていく。遠くの波音が二人の間を通り抜けて、時が止まったような静寂が訪れた。


「……ごめん、なさい」


 つぶやく澪の声に安心した。引き潮のように消えかけた水たまりの最後の一滴が、満ち潮のように澪の瞳に宿る。まるで十数年前から続いていた潮の満ち引きが、ようやく静かな凪に変わったように。


 本当の俺は人に寄り添える人間なのだと、初めて実感した。初めて自分の良さにたどり着いて、確かな意味を持った。澪の深い闇に寄り添い、そして熱意とエネルギーをやさしさとぬくもりにして、澪の本当の姿を映し出せた。こんな風に誰かを救えることを、俺は初めて知った。


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