8.藍色の汐目−1
今にも雨が降りそうな、どす黒い夏の朝。
行橋の町を覆う灰色の空。潮力発電所の建設のための埋め立ては最終段階を迎えていた。発展という名の下に消されていく景色があり、守ろうとして消えていく想いがある。でも、その両方を受け入れない限り、本当の行橋は見えてこない。ちょうど汐の二つの顔を両方とも受け入れなければ、本当の汐を理解できなかったように。湿った空気が肌に張り付き、不吉な予感が胸をよぎる。
あれから汐とできるだけ一緒に夏休みを過ごし、楽しい思い出作りに励んでいた。長井浜海水浴場で、来年から景色が変わるであろう海を目に焼き付けた。行橋市内で一緒に行ったゆめタウンや植物園で、他愛もない会話を楽しんだ。よく晴れた日にはへいちくに乗って、三井寺で風鈴の音色を浴びた。汐のすべてを受け入れるために。満潮時の汐に残された、残り少ない時間を無駄にしないために。
夏の日差しが刻一刻と傾いていく中、汐と過ごす時間が砂時計の砂のようにこぼれ落ちていくのを感じていた。満潮時の汐の笑顔が見られる時間は、工事の進行と共に確実に減っていく。まるで潮が引いていくように。砂浜に立てたお城が崩れるように。どれだけ必死に抗おうとしても、指の隙間から零れ落ちていってしまう。
だからこそ、今この瞬間を大切にしたかった。汐の仕草の一つ一つ、表情の些細な変化も、全て心に刻み付けようとした。それは後悔しないため、というよりも、この大切な時間を永遠に持ち続けていたいという願いから来るものだった。
それぞれの場所に、汐との思い出が詰まっている。満潮時の汐との明るい記憶と、干潮時の汐との複雑な記憶が交錯する。干潮時の汐でいる時間が長くなるたびに、満潮時の汐への思いも募っていく。
行橋は静けさの町。 遠くのバイパスを走る車の走行音がここまで聞こえてくる、このなんにもない静けさが、行橋の良さの一つであることに違いない。意外とすれ違う若者と、年配の住人。シャッター街の中にある、映え狙いのスポット。新旧入り混じる風景は、この町の過渡期を象徴しているようだった。
抗議活動はあの解散から徐々に縮小化し、県外から来た部外者たちもこの町に居づらくなったのか、参加者は数えるほどになっていた。かつて熱を帯びた声が飛び交っていた工事現場も、今では重機の音だけが響く。プラカードの文字は日に日に色褪せ、横断幕は風に揺られるたびに切なさを募らせる。工事の進行と共に失われていく景色を目に焼き付けながら、この町への想いを新たにしていく。
これは敗北ではないと言い聞かせながらも、やっぱり前向きにはなれなかった。汐は敢えてそうしているのか、あの解散以来一度も抗議活動の話はしなくなった。俺も結局一時の熱が冷めたのか、汐と一緒に高校三年生らしい夏休みの過ごし方をしながら、自分に言い聞かせた。
もう十分にやったんだ、と。
でも、本当にこれで良かったのかは答えが出せずにいた。
不意に穂香からメッセージが届いた。
『こすもっぺ行く?』
行橋を代表する夏祭り、こすもっぺ。なんでもかんでもコスモスと結びつけたがるこの町らしいお祭りだ。夏休みということもあり、最近穂香とも会っていない。でも、優先順位は汐にある。穂香はきっと納得してくれるし、もしも最終的に汐に断られたら、そのときは穂香と一緒に行けば良い。
早速、汐にメッセージを送った。なかなか返信は帰ってこない。忙しそうだ。
『ごめん、引越し準備に追われてて』
汐からの返信はそのひと言だった。引っ越しで忙しいから行けないし、引っ越しで忙しいから返信も遅かった。そしてその引越しは、埋め立てによる立ち退きと、抗議活動の失敗を意味している。きっともっと大分よりに引っ越して牡蠣小屋を移転させるのだろう。こんな意味が込められたメッセージ、なかなか無い。いや、考えすぎかもしれないけど。
結局、汐以外に誘われることもなく、消去法で穂香と一緒にこすもっぺを周るため、へいちくの時間を合わせて乗って、車内で待ち合わせした。
東犀川三四郎駅でそわそわしながら待っていると、すぐ隣の駅からそれほどスピードも上げすに電車がやってきた。レトロなピンポンというチャイムのあと乗り込むと、誰もいない車内に見慣れない浴衣姿があった。
「お、遅刻せずにちゃんと乗って来れて偉いねぇ」
そこには、がっちりではなくかっちりとした浴衣姿の穂香が前髪を気にしながら座っていた。いつものたくましい姿からは想像できないほど似合っている。
「へぇ。浴衣って着痩せ効果があるんだな。いつもとぜんぜん違うわ」
「しゃあしいねぇ。あとでなんか奢ってもらいます」
「そっちこそしゃあしいわぁ」
なんだかんだ言って、穂香といると妙に落ち着く。汐といるときみたいに気を張らなくても良いのは楽だが、逆にドキドキ・ワクワクしないから、全然刺激がない。普段の登下校で雑談しているのとそう変わらないこの感じ。だけど、やっぱり浴衣はずるい。思わず窓の外に意識を向けた。
「睦ちゃんも外を見れるようになったっちゃねぇ」
「別に。スマホの充電もたせんといけんけ見とらんだけちゃ」
嘘。本当はスマホのこととか別に考えてなかった。穂香の見慣れない横顔に振り回されそうだったから背けただけだ。
「この辺の風景も、いつか変わってしまうのかな」
思わず振り向くと、横顔が車窓からの光に照らされて、やけに物思わしげに見えた。
「へいちくも、もう何年も廃線危機だって言われちょうけんね。行橋の方に話題がさらわれちょうけどね。ずっと無くなりそうだと思ってるけどなかなか無くならんし、でもいつかは無くなりそうだし。今のうちに見とかんとね」
澄んだ空気で見る山々は木々までクリアで、その上に漂う雲の影がくっきり見える。へいちくの車窓から見える田園風景は、いつまでも変わらないように見える。でも、蓑島の海岸線が工事で変わっていくように、この景色だっていつか変わってしまうのかもしれない。数字では測れない価値を、誰かが気付かないうちに失ってしまう――そんな漠然とした不安が、穂香の言葉の端々に見え隠れしていた。
いつも隣で同じ景色を見ていた穂香が、実は全く違うものを見ていたのかもしれない。
隣の駅に到着して、また発車のベルが鳴る。一両編成の車内に、いつもの二人分の影が落ちる。当たり前すぎて気にも留めなかった日々の繋がり。でも、その「当たり前」がいつまで続くのか。ふと、そんな不安が頭をよぎった。
犀川の田舎から行橋の街へ。田んぼと山の間を走る一両の電車。発展から取り残された線路は、それでも確かに人々の暮らしを繋いでいた。変わらないことを選んだ道が、逆説的に人々の変化を支えている。
へいちくは違う風景を繋いでいく。穂香の故郷と、自分の住む町と、汐の住む海辺と。汐、どこに引っ越していくのかな。すぐに会いに行けるくらいの近くだったら良いな。
「今のうちに見ておかないと、かぁ」
「ま、みんな見たいものだけ見て、見たくないものから目を背けるけんね。睦ちゃんは特にね」
穂香の言葉が、車輪の音に重なって響く。誰かを見つめることと、誰かに見つめられること。その両方を繋ぐ場所が、この狭い車両の中にある気がした。
へいちくは当たり前のように行橋駅に到着した。当たり前だけど、よくよく考えればもうこの瞬間は二度と訪れない。しっかり今を生きていないと、見えている世界は、本当はほんの少ししかないのかもしれないと思った。当たり前のことを当たり前だと思わないように気をつけないと。浴衣で歩きにくそうな穂香を見て、あの活発でたくましい背中が当たり前じゃないんだって思った。
「睦ちゃん、あれ見て!」
何気ない仕草で指さす穂香の横顔に、思わず見入ってしまう。いつもと変わらないはずなのに、なぜだろう。これが浴衣効果というものなのだろうか。
「なに見とん?」
「ああ、なんでもない」
慌てて視線を逸らす。浴衣だからなのだろうが、穂香のことが気になって仕方ない。それを誤魔化すように、必死で汐のことを考えようとする。でも、それが逆に不自然に感じられて。
あえて浴衣姿を見るのもなんだかそわそわするので、目線は常に変わり映えしない町の方へ向いてしまう。こう見てみると、意外と知らない店が多く、看板も錆びて古くなったものばかりではなく新しくて今っぽいデザインのものもちらほら見えている。駅前の新しい道路のそばに、キッチンカーが停まっている。あの抗議活動が招いた一瞬の好景気に乗ったのか、いつの間にか町は少しずつその姿を変えていた。
地元の祭りということもあって、飲み屋街も早い時間からお店を開けていた。まだ昼ご飯にするにも早い時間帯に、酒屋が店を開けて千ベロコーナーを作っている。そこを子どもが行き来して、大人はすでに顔を赤くして大きな口で笑っている。人々の何気ない会話に垣間見える、町への愛着。本当は行橋の人達は、あえて言わないだけで行橋のことが好きなのだろう。会場の今川河畔に近づくたびに、どこにこんなにいたんだろうと思うほど人が増えてきた。
「睦ちゃん、あれ長野さんじゃない?」
穂香の下駄の音が止まり、指さされた先には、キョロキョロあたりを見回しながら自転車を押して裏路地に入っていく汐の姿があった。今日は引っ越し準備で忙しいって言っていたはずなのに。なんだ、来てるじゃん、お祭り。
人気のない方へ進んでいく汐に、無意識のうちに引っ張られる。自転車の後ろには、牡蠣を入れて配達するための缶が数個。牡蠣の配達のために飲み屋街に来たのだろうか。
「ね? あれっち長野さんよね?」
「だな。缶の回収とか?」
「ああ、あれ殻付きの牡蠣が入っちょうやつよね。あんなに集めて、何するんやろ」
「牡蠣を届けて、その代わりに前に配達した時のを持って帰っちょうって考えるのが普通じゃない?」
「睦ちゃん、今、何月や思う? 八月よ? 牡蠣小屋一緒に行ったの一月よ? 季節が違うちゃ」
「確かに……」
悪い予感がする。確かにただの配達ならそんなにコソコソする必要はないだろうし。
「睦ちゃん、長野さんのこと、気になるんやろ?」
「いや、別に。全然。そんなことないよ」
「嘘ちゃ。私に隠し事なんか通用せんっちゃ。……行ってき。睦ちゃんにしか見えん真実があるかもしれんし、睦ちゃんにし」話せんこともあるはずちゃ。私は、ここで待っとくけん」
穂香の声が微かに震えていた。何もかも見透かされている。穂香には敵わない。
「悪い! せっかく一緒に来たのに!」
「ええよ。あとで焼きそばと肉まんとモモ焼きとラムネと、全部奢ってね」
「分かった! 何でも奢るわ!」
金屋交差点から簑島方面に進んでいった汐がどこへ向かったのかはわからないが、その道は真っすぐ行けば牡蠣小屋に続いている。牡蠣を入れるための缶をいくつも持っているのだし、おそらく牡蠣小屋に向かっているのだろう。
自転車には追いつけないが、できるだけ追いつけるように早足で住宅街を駆け抜けた。正午の日差しが蝉時雨とともに圧力をかけてくる。ぱっと目の前が開けると、ひたすらに堤防沿いの道路がまっすぐに伸びていた。奥にはゴルフの打ちっぱなし。抗議活動で使われていた横断幕やカラフルなプラカードが、堤防沿いに虚しく打ち付けられている。
工事関係車両が時々すれ違う以外に、ほとんど車は走っていない。遠くのほうで数人座り込みをまだ続けているが、声を上げている人はもういない。結局抗議活動よりもお祭りのほうが大事なようで、ほとんどの人間は海の端っこではなく市内の中心に目が向いているようだった。
牡蠣小屋に到着したが、鍵がかかっていて、中には入れそうもなかった。しかしその裏で、水が流れる音が聞こえた。恐る恐る近づいてみると、初めて会ったときみたいに、汐が海に向かってしゃがみ込んでいた。
「汐……」
俺の声にビクッと反応し、汐はパッと振り向いた。
「え、睦? なんで? ……てめえ、なんで来たんだよ!」
声は大きいが、手が震えている。浜辺にはほとんど海水が届いておらず、砂漠のように砂が乾いている。ということは、今は干潮時の汐のはず。なのに、目はキツくないし、寂しげで弱々しい。
「いや、なんか、こすもっぺ来ててさ。さっきそっちで汐のこと見かけてさ。今日引っ越しで忙しいって言ってたのに、いるじゃん、って思ってさ。なんかあったのかなぁって。それに、牡蠣の缶も、季節じゃないのに自転車に乗っけててさ。なんか、嫌な予感がしたから来てみた」
「ああ、なんでもないよ。ごめんね、心配させて。じゃあ、こすもっぺ楽しんで!」
変にはぐらかそうとしていて怪しい。それに言い方も柔らかいし、やっぱり干潮時の汐ではなさそうだ。
「もしかして、今って、満潮時の汐?」
「……やっぱりバレたか。睦はよく気づくなぁ」
開き直ったのか、余裕があるように見える。
「なんで? ついこの間、どんな汐でも受け入れるって言ったじゃん。他に誰もいないのに、わざわざ干潮時の汐の真似なんてする必要ないじゃん」
「……わたしなんかがそんなに優しくされるべきじゃないよ」
そう言って、海だった乾いた浜辺の方に向き直した。視線の先には黒ずんだ流木と、腐りかけのロープ。それに、それを囲むように敷き詰められている牡蠣の殻と、缶の山。水道からはホースが伸びて、干からびている砂浜に水が注がれている。
「これ、何やってんの?」
「……見たら分かるでしょ。海を作ってるんだよ」
汐は振り返らずに、背中越しに俺に答えてくれた。か細く、何の希望も感じない、寂しげなその声に、辺りの空気が変わったような気がした。雨雲は海の方向に避け、この上だけは太陽光が直に降り注いでいる。本来は綺麗な景色のはずなのに、胸の奥には不安が募る。
「海? 海はもうここには無いんだよ。俺らの抗議活動は届かなかったんだ。今さらこんな悪あがきをしても、何にもならないだろう?」
「……なるよ。満潮になれば、睦が好きなわたしでいられるんだよ? 睦はそのほうが嬉しいでしょう? 今だって、こうやって海を作ってるから、流木を海で満たしているから、わたしはわたしでいられるんだよ? このために睦は一緒に抗議活動に参加してくれてたんでしょ?」
確かに、人工的に海を模して満潮状態を作っているから、目の前に満潮時の汐がいられるわけで。このまま水を出しっぱなしにすれば、汐は永遠に満潮時の汐としていられる。それは誰でもなく俺が望んできたことだった。でも、なぜか納得できなかった。
そのままホースで海に向かって放水している汐の背中は寂しげで、いたたまれない気持ちになる。こんなに悲しい最後の抵抗になるなんて、ほんの数ヶ月前には想像すらしていなかった。
「もうやめなよ」
「なんで? いいじゃん。このままずっとさ、ここで水を流し続けたら、ずっとこのままでいられるよ? わたしとずっと一緒にいたいでしょ? それが睦が望んだ未来でしょ?」
「いいからやめなって」
「やめないよ」
これじゃ埒が明かない。仕方なく、俺は汐からホースを奪い取った。その勢いで、汐の顔面に水がぶっかかる。
「ちょっとなにするの? やめてよ!」
「いいかげんにしろよ! こんなことしたって、なんにもならないだろ!」
わざとではないにしろ、女子の顔に水をぶっかけてしまったので、俺も自分自身の顔に向かって水を噴射した。鼻の穴に入ってむせたが、そこで冷静さを取り戻した。
「もういいんだよ。こうやって、全部水に流せば良いんだ。埋立工事の失敗も、澪のことも、終わったことはもう、全部水に流せば良いんだよ!」
「そんな簡単に言わないでよ! 睦に何が分かるのよ!」
「分かんないけど! もう、諦めようよ!」
「諦められない。この場所が、この場所がなくなったら、わたしの罪を証明する場所がなくなる。発電所だの防災だの、そんなのわたしにとってはどうでもいい。ただ、この場所だけは、この罪の証だけは、無くすわけにはいかないから! わたしがずっと、ここを満潮状態にし続ける! そうやって、わたしはわたしの役目を果たしていくんだよ!」
「でも、そうすると、汐はずっと澪として生きていかないといけなくなる! そんなの苦しいだろ? 汐は汐のままでいいんだって!」
この前伝えたばかりなのに、もう忘れてしまったのだろうか。いや、癖になってしまって簡単には治せないのかもしれない。それほどまでに深い傷を負っているのだとしたら。こんな行動を起こしてしまう気持ちも分からなくはない。
「汐のまま、か……」
なにか言いたげに歯を食いしばっている。何を言われるのだろうかと、反射的に体がこわばる。
「満潮時の汐、つまり澪っていうのは、汐の心が生み出した幻なの。汐が小さい頃、耐えられない罪悪感から作り出した、都合のいい存在。ただの慰めの人形なんだよ」
その言葉に、胸が締め付けられる。なんでそんなに卑下してしまうのか。小さい頃に感じた責任感からなかなか抜け出せない汐に、かけてあげられる言葉が見つからない。
だけど同時に、違和感もある。そのなんともいえない客観的な視点からの物言いに、どうも作り物感が拭えない。自分のことなのに、「わたし」や「あたし」を使わずに、まるで自分を使って人形遊びをしているように見える。
それに、満潮時の汐は澪の人格のはず。なのに、なぜ澪が自分自身を殺した罪を償おうと必死になっているのだろう。まさか干潮時の汐が満潮時の汐のフリをしている? いや、今は流木が海水ではないが水道水で水位が満たされているから、満潮時であることに変わりはない。ということは……どういうことだ?
「ああもう! しゃあしい! 何がしたいんだよ! 本当の汐って、どの汐なんだよ!」
「本当の汐? ……どれなんだろうね。もしかしたら、どれでもないのかもね」
「はぁ?」
もうわけがわからない。頭がパンクしそう。またもう一回水を被りたい。なんなら今からこの水道水の水たまりに飛び込んで頭を冷やしたい。
一体何を言っているのか分からず、イライラが募っていく。
「私ももう、自分が誰なのかが、わかんないの」
「はぁ? だから汐は汐だろ? 干潮時も満潮時も過去も未来も関係ない。汐は汐なんだってば! なんで分かっ」
「わたしの名前は!」
食い気味に大声を張り上げる汐。その勢いに押されて、言葉が繋がらなかった。
「わたしの、名前は、長野、澪!」
海に薄くこだまする汐の声。一体何を言っているのだろうか。汐が自分自身を見失って、澪だと名乗り始めたのだろうか。
「まぁ、うん、そうだよね。満潮時の汐だから、澪だよね。そりゃそうだよ、一旦落ち着こうか」
「違うの!」
文字通り、水を打ったような静けさ。汐の叫びが、乾いた浜辺に吸い込まれていく。
「どういうこと?」
「だから、わたしは汐として生きてきたけど、本当は澪なの!」
その瞬間、全身が凍りついた。その告白は、今まで抱いていた想いが砂のように指の間から零れ落ちていくような感覚だった。憧れていた満潮時の汐は、澪は、その存在自体が演技だった。満潮時の汐への想い、その笑顔への憧れ、すべてが幻だったのだ。
頭の中で無数の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
初めて会った日の神秘的な藍色の瞳。抗議活動での爽やかな笑顔。三井寺での風鈴の音色に乗せた優しい声。すべてが、演技だったのか。
満潮時の汐が消えるのを食い止めるためにここまで参加してきた抗議活動は、一体なんだったのだろうか。せっかく一生懸命になれるものが出来たと思っていたものが、実は別の誰かの逃避行の果てだったなんて。
「汐として生きてきた? ……って、どういうこと? 汐が満潮時に、澪として、人格形成されていったんじゃなかったのか?」
「だから、本当はわたしが澪なの! 汐のふりをして生きてきたの! でもだんだん苦しくなってきて、わたしがわたし自身に戻る時間が欲しかったの! だから、汐がわたしの人格を生んでしまったストーリーを作ったの! わたしは満潮のときだけ、わたし自身でいられたの!」
「そんな! 汐が澪だったけど、本当は澪が汐で……ああもう、しゃあしい!」
はじめは汐が干潮時と満潮時で分かれていたという話だった。なのに、三井寺で満潮時は澪の人格だと言われ、それは小さい頃の悲しい思い出によって引き起こされた悲劇だったはず。でも、実はそれが全部、澪が仕組んだストーリーだった。ややこしさで頭がオーバーヒートしそう。
だが、そうなると小さい頃のあの悲しい思い出もすべて嘘なのだろうか。この浜辺は一体、何のために存在するのだろうか。目の前に広がる水道水で出来た水たまりは、無用の長物なのではないだろうか。
「わたしが、本当は溺れる汐を見てるだけだったんだよ」
まるで足に岩を付けられて深海に引きずり込まれるような、深い重み。最初は衝撃を受けただけだった言葉が、次第にその重みを増していく。
ふと目の前の水たまりに目をやると、そこに映る自分の姿に気づく。
俺もまた、見ているだけの存在だった。
満潮時の汐が好きだから、その時だけ会いに来る。可愛らしい笑顔に癒されて、爽やかな物言いに心が躍って。でも、干潮時の汐には会わないように時間を選び、荒々しい言葉には耳を塞ぎ、苦しむ姿は見ないようにしてきた。水面のように、都合の良いものだけを映して、自分の心地よさだけを求めて。
波のように押し寄せてくる記憶。結局俺は、汐が必死に抗議活動をしているときも、ただの傍観者でしかなかった。抗議の声が風に消えていくのを、じっと見ているだけ。本気で工事を止めようとしたわけじゃない。満潮時の汐に会えなくなるのが嫌だから、形だけ参加している。汐の想いに寄り添おうとしたことなんて、一度もない。
穂香にだってそうだ。困ったときだけ頼って、普段は当たり前のように扱って。たくましいから、強いから、いつもそばにいるから、すべて「見ているだけ」で済ませてきた。穂香の優しさも、気遣いも、想いも、すべて「見ているだけ」だった。
汐が沈んでいくのを見ているだけだった目の前の澪を、責めたり説得したりする資格なんて、俺にはなかったのだ。




