1.灰色の祈り
まるでモノクロの世界だと思った。
牡蠣の殻が積み重ねられた灰色の浜辺。静寂で濁った灰色の海。手がかじかむほど寒いのに、黒ずんだ流木に引っ掛けられている縄を素手で引っ張りながら、同い年くらいの少女が海に向かって呟いている。波が引いてはまた押し寄せる。波が交差する潮目で、水面に映る影が不自然に揺らめく。
「ごめんね。なくさないからね」
誰かに語りかけるようで独り言のような。何に謝っているのだろう。何をなくさないと誓っているのだろう。寂しげな少女の背中が振り返った瞬間、目が合った。
その藍色の澄んだ瞳に、思わず生唾を飲み込んだ。灰色の冬の海に映える不釣り合いな藍色は、深海を照らす一筋のグランブルー。それだけが灰色の世界から浮き上がって見える。
その色が見えるのは俺だけなのかもしれない。そう思った瞬間、胸が高鳴った。この町で、こんなにも鮮やかな色に出会えるとは思わなかった。この灰色の町への小さな反逆のように、その藍が心に染みていく。冬の寒さも忘れて見入ってしまう。じっとそこで耐えていたのかと思うと、かわいそうになってきた。
「大丈夫?」
思わず声が出てしまった。誰かが困っていると、反射的に声をかけたくなる。でも関わりすぎると疲れるから、いつしか見て見ぬふりをするようになった。でもこの少女に対しては、不思議と声が出てしまった。余計だっただろうか。もしそうだったら申し訳ない。
鼻と頬がほんのり赤らんでいて、手で髪を耳にかける仕草が妙に落ち着かない。目を合わせないように俯き、上目遣いでチラチラと俺の反応を窺う瞳には、不安と焦りが混ざっている。まるで急に別人のように、さっきまでの凛とした雰囲気が崩れ、代わりに幼さの残る仕草が目立ち始めた。
「別になんでもないので。……優しいんですね」
そういって俺の横をすり抜けた時に潮の香りがして、引っ張られるように振り返る。
「あの、何も見てないので。心配しないで!」
俺の声を聞いた少女は軽く会釈して長い黒髪を整え、牡蠣小屋の中に戻っていった。風に舞う黒髪が、まるで別の世界の欠片のように濁った潮の香りの中に異質な清潔さを運んでくる。
白い吐息が、凍えるような空気に溶けていく。 低い防波堤に穏やかな波が当たり、規則正しい音を立てている。しかしそれもどこか力なく、灰色の海は眠ったように静かだった。残されたのは、モノクロの背景としての町と、そこに漂う俺だけだった。
牡蠣小屋の会計を済ませると、一緒に来た幼馴染の穂香が外で心配そうに待っていた。
「睦ちゃん、大丈夫? もしかして牡蠣にあたった?」
たくましい背中を見せて歩き出す穂香。いつもは当たり前すぎて気にもならない後ろ姿が、妙に目についた。さっきのスラッとした背中を目に焼きつけてしまったせいだろう。また見たいな、あの少女のなんともいえない背中の感じ。
一旦落ち着こうとしたが、出来なかった。どうしてもさっきの少女の藍色の瞳が頭から離れない。穂香という幼馴染の同い年の女子高生と一緒にわざわざ休日にお出かけしているというのに、頭の中からすっぽり穂香が抜け落ちたみたい。その藍色に輝く瞳も、流れるような黒髪も、どこか影のある雰囲気も、それぞれが引力を持っていて、吸い込まれそうになる。
「なんもないって。穂香はいっつも考えすぎっちゃ」
「睦ちゃんが考えてなさすぎちゃ!」
いつもの穂香らしい返事。でも、普段なら何とも思わないその口癖が、今日は少し引っかかる。まるで自分の中に、見えない棘が刺さったみたいに。
「てかやめろよ、その呼び方。女みたいで好かんちゃ」
「ええやん別に。てか、睦ちゃんが見たもんっち、そんなに綺麗やったと?」
「はぁ?」
「なんか見たんやろ? 睦ちゃんは細かいと言うか繊細というか、睦ちゃんにしか見えんもんがあるっちゃねー」
「別になんもないわ」
嘘。本当はさっきの少女が気になって仕方がない。あれは一体何だったのか、何をしていたのか、どういう状況だったのか。あのモノクロの背景に一人だけ鮮やかに映った藍色の瞳が、どうしても頭から離れなかった。
「ま、そのせいでいつもより鼻の下が伸びちょんは気付いとらんみたいやけどね」
「ほ、ほっとけ!」
いつもより、ということは、いつもチェックしているのだろうか。恐ろしいなこの幼馴染は。まるで俺専用監視カメラのように、俺のことは何でもよく知っている穂香。もしかしたら俺より俺のことを知っているのかもしれない。
分厚い雲で覆われた灰色の空に、一羽の白鷺が舞い上がった。その白い羽が、雲間から差し込む陽に透けて見える。海に映った鳥の影が、波に揺られて歪んでいく。あの少女の藍色の瞳のように、この町の海や空が映っていたような気がした。
「睦ちゃん視野が狭すぎるんやけ。ちゃんと前見て歩かんと」
「ん? ああ」
ハッとして前を向く。穂香はまたいつものように笑っていた。お世辞にも可愛いとは言えないが愛嬌のあるその笑顔。一重まぶたが笑うと本当に一本線になる。ショートカットが揺れるたびに、さっきの黒髪ロングとどうしても比較してしまう。
その笑顔の奥に何か違う表情が隠れているような気がして、思わず目を逸らした。穂香の存在は近すぎて真正面から見られない。
口の端に残る磯の香りを袖で拭き取り、自転車にまたがる。乾燥した冬の空気を深く吸い込むと、塩味がして思わず咳き込んだ。
昼飯を食べた帰り道。蓑島からの長い海岸線を、自転車でまっすぐ、行橋市内まで戻っていく。ゴルフの打ちっぱなしを横目に、手直しされた凸凹のアスファルトに悩まされながらひたすらに真っ直ぐ進む。冬の冷たい空気が鼻と頬に擦れて、吐き出す白い吐息と混ざって視界を遮る。
住宅街を抜けて、自動車整備業者のところで交差点を曲がり、大通りに出た。冬休みになったばかりだと言うのに車はまばらで、時々いかつい軽自動車がブサイクな音をぶりぶり鳴らして走り去っていく。信号が変わり、コンビニを過ぎると、一気に道が狭くなった。横を通る軽トラが大げさに自分たちを抜かし、道に痰を吐いて去っていった。
今川を越えて市役所の横を通り抜け、閑古鳥の鳴いているシャッター通りのスナック街を通り過ぎる。この町にいると、あんなふうにはなりたくないな、こんなところに住んでいてもどうしようもないな、と思うことばかり。誰も見向きもしない殺風景。嫌なところが妙に目について、そのたびにがっかりする。
元々は穂香からのお誘いだった。秋に稲刈りの手伝いをしてやったから、その御礼に牡蠣小屋での食べ放題に誘ってくれたのだ。穂香がこの前、平成筑豊鉄道、略してへいちくで、自転車を乗せて電車に乗れる、サイクルトレインというサービスを教えてくれて、それで自転車でわざわざ行橋の端っこまで牡蠣を食べに行っていたというわけだ。
穂香とは生まれたときからほぼずっと一緒だった。一番古い記憶は穂香と一緒に餅つきをしているのを見ている場面だし、一番記憶に残っているのは穂香と小さい頃にした田んぼ遊びがエスカレートして喧嘩になったときだった。穂香もそうだと思うが、一番近くにいたからこそそういう関係にはならなかった。俺は穂香を男友達のように扱っていたし、穂香は俺のことを女の子扱いしてくる。そんな関係が幼稚園に入る前から高校に上がるまでずっと続いていた。同じような学力で同じような成績だったから同じ高校に入るのもある意味運命だったのかもしれない。
緑色の古びた細い橋をわたって住宅街を進み、京都高校前の三叉路を、右手に進んでいく。ガラの悪い先輩が毎日のように暴走族の真似事をしているが、何が良いのかさっぱりわからない。俺はあんなふうにはなりたくないし、あんな奴らとは違う。
バイク屋の横の抜け道からコスタに向かう道路に出ると、寒空の下、一羽の白鷺がドブ川を優雅に歩いていた。この鳥は何が良くてこの町に住み着いているのだろう。その翼で、自分の好きなところに飛んでいけば良いのに。
「この町のどこに価値があるってんだよ」
行橋の景色は相変わらず灰色一色。誰かが無理に彩りを加えようとしたのか、駅前の飲食店の壁が数軒、原色のペンキで塗られている。
「睦ちゃんは、そういうとこやねぇ」
隣で呆れたように言う穂香。幼い頃から一緒の幼馴染は、たくましい背中で、いつも前を向いて歩いている。ちょっと怖いくらいの正義感の持ち主で、俺のダメ出しは得意分野。そんな穂香の横顔が、灰色の背景に滲む。いつも見ている、当たり前の風景。
「だって見ろよ。発展も何もない。観光資源もない。このまま朽ち果てるのを待つだけじゃん」
「そう? わたしはこの町、良いところもあると思うけどなぁ」
穂香の声には、いつもの力強さがある。けど、その声の奥には何かが隠されているようにも見える。でもそれがなにかは全くわからない。
「どこよ?」
「静かで、穏やかな風が吹いていて、海も山も近くて。のんびりな町って感じ?」
「中途半端な田舎って言ってるようにしか思えないけどな」
「ホンマしゃあしいねぇ」
気兼ねなく話せる穂香のちょっとした変化が気になりつつも、やっぱりさっきの可愛い少女のことのほうが印象に強く残っていた。
また会えるだろうか。近寄りがたいけどお近づきになりたい、矛盾したこの感じ。やっぱり、あの藍色の瞳との出会いは、運命だったのかもしれない。
でも、しゃあしい。他人の表情の些細な変化が気になりすぎる。声の調子の違いも、仕草の違和感も、全部入ってきてしまう。だから、人と関わるのにエネルギーを使ってしまう。いちいち使ってしまうとすぐエネルギーが切れるから、出来るだけ消費するのは抑えたかった。
「まだまだ時間あるっちゃね。コスタでなんか見よく?」
「いい。金ないし」
行橋にある屋外型のショッピングセンター、コスタ行橋。スーパーやドラッグストア、スポーツ用品店や百均もあるので、見ようと思えば見るところがなくはない。その裏にできたのが令和コスタ行橋駅。令和になって初めて作られた駅だから、わざわざ令和ってつけたそうだ。話題性を狙ったそうだが、一瞬でその話題も消えた。
「せっかくなんやけ行橋を堪能しようやぁ」
「いい。行橋よりスマホのほうが楽しい」
「睦ちゃんったらもう」
当然だろう。娯楽はすべて手のひらの中にあるんだ。わざわざこんな寂れた町で楽しそうなことを探しに行かなくたって、スマホで動画を見ていれば時間なんてあっという間に過ぎていくのだから。
それに万が一、いや億が一、この町の良いところを見つけてしまったら、ここから出ていく理由が見つからなくなる。だから意地でもつまらない町であることを覆そうとは思えない。
ほぼ一時間に一本のへいちく。一両編成がゆっくりと近づく。ピンポン、と間抜けな音が聞こえてスライドドアが開く。自転車を車内に押し入れて座ると、乗客は俺と穂香以外に誰もいなかった。いつものことだから、スマホに意識を向ける。
急に暖房の中に閉じ込められると、顔の周りが否応なしに火照らされて、思わず頬を抑えた。登下校の時に見ているから、外の景色はどうでも良い。どうせ住宅地と田んぼしかないのだから見る価値もない。
でも時々、穂香が窓の外を見つめる横顔に、俺には見えていない何かを見ているような気がして、ちょっと悔しかった。だからだろうか。穂香に外の話をされても、どうも素直に反応できない。
「睦ちゃん、ほらそこに雪残ってる!」
「興味ない」
「あ、この前うちの高校の不思議ちゃんがバズったの見ようや!」
スマホを取り出す穂香が、無理やり話題を絞り出しているようで滑稽に見える。
「興味ないち」
「ほら! いいから見てみいね! ここほら! まぁ、私はなんか様子がおかしいけあんま好かんけどね。実は双子説とか宇宙人説とかあるし」
「興味ないっちゃ……しゃあしいのう」
目を逸らして「しゃあしい」と呟くのは、そのほうが楽だから。人と関わるエネルギーを使わずに済むから。こんな風に突き放すことで、実は自分の弱さから目を背けようとしているのかもしれない。近すぎて怖い。本当の気持ちに気づくのが怖い。だから、わざと距離を置いて、冷たくしてしまうのかもしれない。
そうやって自分を守ろうとしているのに、穂香はいつも変わらない優しさで接してくれる。そのことにも心の奥で気づいているとは思うが、認めたくない。穂香はいつも俺の気持ちを察してくれる。だからこそ、このままの距離で、このままの関係でいるのが、一番安全だ。
窓から見えるのは、何の変哲もない山と、枯れたような田んぼが続くだけ。そこに灰色の線路が伸びるだけの、どうでもいい景色だ。スマホの画面の方が数倍面白い。穂香の声も、車輪が軋むリズムも、すべてが単調で退屈だった。やっぱり見る価値ない。ため息をついてスマホに目を戻そうとした時には、すでに最寄りの東犀川三四郎駅に到着していた。
降りる際に、もうひとつ向こうの犀川駅で降りる穂香が手を振ってくるから、仕方なく返してやるというていで手を振り返し、自転車を押して外に出た。
遮るものが無いせいか、行橋の町よりも犀川のほうがもっと寒く感じる。午後三時前、鼻と頬に冷たい風が擦れて、今日の昼に会ったあの灰色に浮かぶような藍色の彩度を思い出した。
あの藍色の瞳には、あの町はどう見えているのだろうか。
灰色の背景にくっきり見えた鮮やかな藍色の瞳が、いつまでも頭に残っていた。
工場の煙突が海風を裁つように立ち並び、煙が灰色の空に溶けていく。田んぼの水鏡に映った山の稜線は、まるで誰かの横顔のように憂いを帯びていた。町全体に諦めが蔓延している。町の風景は、この町の表情そのものだった。
牡蠣を入れる銀の缶のほうがよっぽど輝いているように見える、灰色の町並み。行橋という町は、人生の牢屋だと思う。錆びた看板と曇った窓。昭和に取り残されたような古い建物が並び、息が詰まりそうになる。この町には何もない。あるのは工場と田んぼとスーパーマーケットくらい。そんな町でどう希望を持てば良いというのか。山があって海があるのに、全く活かせていない中途半端な町の空気は生ぬるく、人々は無気力。誰もが諦めたように生きている。俺だってそうだ。だから、この町から出ていくことだけが、唯一の希望だった。
大晦日、自宅の大掃除を終え、その勢いで穂香の家の大掃除の手伝いに駆り出された。
「睦ちゃん久しぶり! ごめんねぇ、助かるわぁ」
幼馴染のよしみで毎年駆り出されるが、あんなにたくましい穂香がいるのに俺なんかが必要な訳が無い。愛想よく会釈して中に入ると、ほとんどの作業は終わっているようで、居間にいる穂香とそのおじいちゃんおばあちゃんの話し相手になることくらいしかなかった。
「今ちょうど行橋の例の件の話をしとったところなんよ」
「例の件?」
「沿岸部の再開発よ。知らんの?」
「え、全然興味ないけ知らん」
「行橋がモデル都市になるっち、数年前からやっちょうよ。それで反対運動とかも蓑島で起こっちょうやろ? この前不思議ちゃんの動画見せたやん。その工事が年始から始まるそうちゃ」
「へぇ。何? 今さらなんか建てて観光客呼ぼうとか? 無茶やろ」
「違う違う。潮力発電っち」
「ちょうりょく発電? 耳の検査で電気作るん?」
「アホ過ぎる。潮の力で潮力。海の潮の満ち引きで発電するんよ。そんなんやけ追試ばっかで冬休み短くするんよ」
「余計だわ」
「なんか、九大かどっかの研究チームが九電とはじめた研究の実験場所として行橋市が手を上げたらしいちゃ」
「頭の良い人の話ね。俺には関係ないわ。で? 行橋でその発電所ができるってこと?」
「そう。なんか、潮の満ち引きが激しい場所じゃないと難しいっち言われとったらしいんやけど、なんかできるようになる技術があるらしくって。南海トラフもいつ起きるかわからんけん、大きな壁を作って、発電しながら防災するっち。災害対策とエネルギー政策を同時に推進させるんやって、さっきテレビでやっとった」
「なんか難しいことを一気に言われてよくわからんわ。とりあえず俺には関係なさそうやし、どうでもええわ」
「いや大アリちゃ! この前の牡蠣小屋も無くなるか移転する予定やけん、わざわざ食べに行ったのに」
あの牡蠣小屋、なくなるんだ。じゃあ、あの少女とも、もう会えなくなるのだろうか。
不意に牡蠣小屋の裏で何かをしていた、藍色の瞳がちらつく。
「あー、そうなん? まぁ、それはそれで仕方ないよな。別に牡蠣小屋に内定しとったわけじゃないし、どうでもいいかな」
「睦ちゃんはいっつも無関心で、目の前のことばっかり見て、お気楽っちゃねぇ」
「ま、来年にはおらんくなる町のことなんか、どうでもええわ」
またはぁ、とため息を吐かれた。実際そうなのだから、仕方ないだろう。
台所の方から穂香が呼ばれて、席を外すと同時にスマホに目を向けた。
穂香が戻ってくると、慌てた様子で手招きされた。
「ごめん、明日予想より人が来るみたいやけ、追加の買い出し頼まれたんよ。一緒に来てくれん? 重たいの持ちきらんけ」
嘘つけ。俺より腕太いくせに。
「まぁいいけど。ちょうど暇しちょうし。どうせ近くやろ?」
「いや、大晦日やもん、もうどっこも閉まっちょうちゃ。どっち行く? 田川の方に行ってもいいけど、やっぱ行橋のほうが近いし店も開いてそうよね」
また行橋か。とは言いつつも、ここら辺で一番栄えている行橋を無視できないことはわかりきっている。
へいちくに乗って行橋へ。結局、学校が休みでも行橋からは離れられないのか。予想通り、行橋の方は大晦日でも開いている店が多く、追加の買い出しも順調に進んだ。
それでも大晦日とか関係なく、シャッターが閉まっている店は多く、逆に年末になっても平常通りの静かな行橋市内。錆びた看板に、曇った窓。昭和に取り残されたような古い建物が並んでおり、息が詰まりそうになる。沿岸部の大規模工事より先に、駅前を全部取り壊して再開発をするほうが先なんじゃないかと思えてくる。
大掃除を手伝ったご褒美に、そろそろ晩ごはんをごちそうにならなくてはならない。行橋駅に戻ろうとした瞬間、大通りで自転車に乗った黒髪の長髪とすれ違った。どこかで見たことあるような、ないような。
そこで思い出した。牡蠣小屋のあの少女だ。蓑島から自転車で来たのだろうか、白い吐息を残して、凛々しいシャープな横顔が大人っぽい。牡蠣小屋の裏で何かを祈っていたあの少女とは雰囲気が違って見える。黒髪が風になびいて、寒空にシャンプーの香りをまとわせていった。どこに行くのだろうかと思ったが、そのまま飲み屋街の方に突っ込んでいった。
「睦ちゃん、どうかした?」
「いや、別に」
結局両手にしっかり荷物を持っている穂香に話しかけられたが、今はまだ秘密にしておこう。不思議そうに首をひねったが、次の瞬間には忘れたようだった。
「明日、初詣行くやろ? いつもの生立八幡宮でいいよね? それか行橋の正八幡宮にする?」
「あー、どっちでもいいや。明日迎えに来て。で、どっちに行くか決めて」
穂香との初詣より、あの少女のことが頭に残って、他はどうでもよく感じていた。夜、布団に入っても、あの藍色の瞳が頭から離れなかった。まるで海そのものが宿ったような、深くて澄んだ瞳。誰に向かって祈っていたのだろう。何を守ろうとしているのだろう。気がつけば、あの少女がいた牡蠣小屋と、それを取り巻く行橋の開発計画について検索していた。年越しのカウントダウンは、いつの間にか終わっていた。
年が明けた。
結局生立八幡宮に行った後、親戚の家を回って最後のお年玉をもらい、その足で行橋の正八幡宮にもお参りに行くことになった。どこにそんなにいたのかと思わされるほど人の海。なのに、しんと静まり返った町が、余計に寂れている感を醸し出してくる。
「睦ちゃん、おみくじ引こうや!」
せっかくもらった最後のお年玉なのに、二百円でさえもったいない。
「いいよ別に。どうせ悪いことばっか書いちょうけ」
「いいから! 引いてみらんとわからんけ」
穂香のたくましい腕に掴まれるともう逃げられない。食堂でコロッケ二個変えたのになぁと思いつつ引いてみると、末吉だった。またなんとも微妙でリアクションしづらい。
「私、大吉! 睦は?」
「末吉。やっぱ引かなきゃよかった。捨てよ」
「なんでよ、中読んでみらんともったいないよ」
「えー、願事。努力を怠らなければいずれ叶う。ま、そりゃそうだ、恋愛。一人に集中しないと運気が下がる。一途が大事ね。そりゃそうだ。待人。もう出会っている。後は気付くだけ。……誰か待ってたっけ?」
「真面目に読みなさい!」
当たり障りのないことばかり。こんなの信じて何になるっていうのか。このまま捨ててバチが当たってもいけないので、財布の中にそっとしまっておいた。多分もう二度と見ることはないだろう。
「へぇ。恋愛は一人に集中しないといけないんだね」
「だな。どこにいくにも穂香と二人だから、そろそろ一人で行動しろってことだな」
「そういう意味!? ひどっ!」
こういう冗談を軽く笑ってくれる穂香と一緒にいると、楽だな。
「待ち人はもう出会ってるんだねぇ。誰なんでしょうねぇ」
「ん? なんか言った?」
「なんでもない」
巫女さん可愛いなぁとか思いつつ、あの長い黒髪があの牡蠣小屋の子と同じくらい長いなぁとかついつい考えてしまっていた。
正月休みも終わり、始業式から数日後の日曜日。
今日も今日とて穂香と一緒に行橋駅前にいた。幼稚園の頃から、いつも横には穂香がいる。当たり前過ぎてどうとも思わないが、やはり周りから見たらそうでは無いようで、付き合ってるだとか結婚してるだとか言われるのは日常茶飯事。
今日は行橋駅前の広場でかきフェスタ。豊前海一粒かきはこの辺りのブランド牡蠣で、肉厚かつジューシー。この時期が一番美味しいので、食べに来ないわけには行かない。牡蠣以外にもキッチンカーが色々出ており、ついこの間もらった最後のお年玉が飛ぶように消えていく。
一周する頃には財布はすっからかん。どうしても最後にあと一回は牡蠣が食べたかったのにな、と思ったが、遠くで見守ることしか出来ない。
と、その時。店員のお姉さんが、牡蠣の入った缶から両手でガサッと塊を掴んだかと思いきや、勢い余ったのか壮大に落としてしまった。
誰もが見ないふりをする光景。でも、彼女の必死で掻き集める姿に、目を背けることができなかった。誰も気にも留めない日常の断片に、なぜか引き込まれる。
殻付きの牡蠣だからそのまま提供すれば良いものを、食べ物だから衛生的にダメなのか、手からこぼれたものはすべてゴミ箱行きとなった。もったいない。俺なら全然気にしないのに。
店員のお姉さんはひと通り片付けたあと、エプロンを外して休憩しに行った。きっと疲れていたんだろう。
「睦ちゃん、ちょっとトイレ行ってくるね」
穂香の言葉を聞き流しながら、店員のお姉さんを追う目が自然と動いていた。その瞳の藍色が、この町の空よりも深く、海よりも澄んでいた。
穂香が行橋駅の方へ行ったのと交差するように、店員のお姉さんが店に戻ってきた。穂香が見ていないのを確認して、その店員さんにさっき落とした牡蠣をもらえないか、交渉してみることにした。
人混みの中、ゆっくりゆっくり近づいてみる。お店の裏のコンプレッサーのところで、まさにゴミを整理している店員のお姉さんに声をかけてみる。
「あの」
はい、と前を向いたその顔には、見覚えがあった。