6.
町が見えてきた。
日は西に傾いたが、空はまだ青い。
草葺き屋根のこじんまりとした家が水浸しの野原にバラバラになっている。
沼は掘割でつながっていて、住人たちは手漕ぎボートで移動していた。
道は町の南をかすめるように曲がっていて、道に沿った建物のひとつには〈事務所〉の表記があった。
「前の事務所みたいに狂った人がいるのかな?」
「彼は輝かしい人だよ」
土を固めてつくった部屋には若い女性がひとり、大きな磁気テープのリールがまわっている機械の前でヘッドホンをつけて、ノートに数字を書き込んでいた。
女性は赤いボタンを押して、リールを止めると、ヘッドホンを外した。
「あの、何かご用ですか?」
「いえ、前に来た町でも、こんなふうに事務所をうかがったもので。それで、その、ご挨拶をと――」
コトフは顔を赤くしてもじもじした。その女性はとてもきれいで、自己犠牲の狂気が垣間見えていないにもかかわらず、輝かしい人類に見えた。
「ああ、それでは兄に用があるんですね?」
「兄?」
「ここは兄が管理しているんです」
「ああ、そうですか」
「申し訳ありません。兄は狩りに行っていていないんです。もうすぐ帰って来ると思うんですけど」
「お兄さんは狩りが上手なんですか?」と、殺し屋。
「いえ、全然」女性は笑った。「いつもウズラや野鶏を撃ちに行って、一度も獲物が取れたことがないんです」
「ああ、そうですか」
「この町を訪れるのに、特に必要なことはありません。もちろんお泊りもできますよ」
「厩舎のある宿屋ってありますか?」
「それなら、この建物ですね。ここは旅行に来た方に泊ってもらうための部屋があるんです。厩舎は裏にありますから、そちらへどうぞ。秣もご自由にお使いください」
馬車を入れ、シムツが馬を外して、秣を桶いっぱいに入れているあいだ、コトフはもっときちんとしたお礼を言いにいくと〈事務所〉へ行ってしまった。
シムツは汚すのにちょうどいい水たまりを見つけたといって、煙草を嚙みながら外に出た。
殺し屋は水と水のあいだの細い道を特に何も考えず、ぶらぶらした。空はまだ青いが、光には切なげな黄色が混じるようになっていた。数十分もすれば、空も水面も薔薇色に燃える時間がやってくる。
二本の棒のあいだに濡れた網をかけている漁師が殺し屋のほうをじろじろ見た。
「嘘つきに会いに行くのか?」
「嘘つき?」
「その道の先は嘘つきの家につながってるんだよ」
「特に考えないで歩いていました。ぼくは旅行者なんです」
「まあ、一回あってみるのも悪くないかもな」
嘘つきの家は西の外れにあった。
流木と泥レンガでできた小さな家には表札も何もなく、知っている名前も『嘘つき』だったので、どう呼びかければいいのか戸惑ってしまった。
「そこにいるんだろ?」なかから声がした。町じゅうから嘘つきとして遠ざけられた暮らしをしているにしては明るい声だった。
「おれはここに自分からいるんだ!」声が言った。「だから、何にも負い目なんてないのさ! さあ、入ってくれ!」
嘘つきの家は部屋がひとつしかなかった。煮炊きするための石の台と軍用の折りたたみベッドは隣り合っていて、床をぶち抜いて作った小さな生け簀には今日の夕飯になる予定の小さなナマズが二匹泳いでいる。
家の西側の壁には窓がなかったが、外に通じる戸口に布がかかっていた。
「そこから外に出てくれ。テラスがある」
西向きのテラスにはイーゼルが何もない草原に向かって立っていて、嘘つきは絵筆をとって、毒々しい赤を塗っていた。嘘つきはパレットを置いて、絵の具で汚れたスモックを脱いだ。
「おれは自分からここに来たが、たまにはものの分かるやつといろいろ話したい。そこの椅子に座んな。蟹ビールを出してやる」
「蟹ビール?」
「ちゃんとホップをつかってる。癖があるが、それがたまらない。それにキンキンに冷えてる」
嘘つきはテラスの端に置いてある木の箱を開けた。それは箱ではなく、小さな井戸だった。沼の底よりも深いところにある冷たい地下水から蟹ビールの入った籠を引っぱり出した。
蟹ビールは陶器の大瓶に入っていて、それを陶器のジョッキに注ぎ込んだ。ジョッキと呼ぶには細すぎるし、少し歪んでもいたが、とりあえず飲んでみた。
「で、味はどうだ?」
「悪くない」
「そんなとこか。でも、お代わりはいけるだろ」
「うん」
ジョッキにビールを注ぐ。
「誰にも邪魔されず、絵を描いて、キンキンに冷えた蟹ビールを飲む。いい暮らしだろ?」
「描いているのは抽象画?」
「おれはあるままを描いている」
「でも、その絵、どう見ても真っ赤なキノコ雲だ。それもたくさん」
「おれにはそれが見えるんだ。だから、嘘つきなんだ。簡単に言えば、おれはいつだって真実が分かっちまう。たとえばだ。お前、今日、ひとり殺しただろ? 喉仏をえぐって。そして、ナディア――ってのは、あの事務所に住んでる管理人の妹だが、おれは一度だってナディアに、あいつの兄貴が本当に狩っているものを教えたりしなかった。いつもウソを教えた」
殺し屋は黙って、ビールを口にした。
「ずっと西で世界が終わった。いま、キノコ雲が二十七、同時に上がってる。でも、これをこの町の住人に教えたら、おれはキチガイ扱いだ。だから、ウソをついてるんだ。世界は平和で、明日も平和だって。ホントはいつまで続くか分からねえのにな、その平和。もちろん、おれはウソをついてるのかもしれん。こんなキノコ雲は全部ウソなのかもな。世界は永遠に平和なのかもな。あんたが人を殺したことも、機関銃を乗せた馬車で旅をしてるのも、管理人がウズラ以外を狩りに行ってるのも、全部ウソなのかもな」
「そうやってウソをずっとついてるの?」
「つきすぎて、ついていいウソとダメなウソが分からなくなった。ある日、漁師に、そこじゃ魚は獲れないって真実を教えた。そうしたら、キレられた。このおれが何年漁師をしてると思ってるって。別の日に、そこなら魚が獲れるぞって真実を教えた。そうしたら、キレられた。このおれが何年漁師をしてると思ってるって。そんなことが続いたある日、ちょっと蟹ビールを飲み過ぎてたんだが、魚が獲れる場所にいる漁師にそこじゃ魚が獲れないって言っちまったんだ。で、魚が獲れたわけ。おれは漁師を魚が獲れる場所から追い出そうとしたってさんざんけなされて、それで、おれは噓つきって呼ばれるようになった。漁師なんてみんなくたばっちまえばいいんだ」
「どこかよそに行こうと思ったことは?」
「そいつは素晴らしいアイディアだが、おれはさんざんあちこち追い出されてここにいるんだ。もう、行き場所なんてない。キノコ雲が本当であろうとなかろうと、おれの世界はとっくに終わってるんだ。それが真実なんだ。でも、おれにはどうってことない。大切な真実はだ、いま、ここにキンキンに冷えた蟹ビールがあるってこと。それさえ真実なら、後はウソでも構わない。さ、そろそろお暇してもらおうか。嘘つきの泣き言なんてこれ以上、ききたくないだろ? それにおれはキャンバスに向かって、真実を描くんだ。あと、十七個のキノコ雲をな」
殺し屋が帰るとき、嘘つきはジョッキを板床に叩きつけた。
「蟹ビールなんてくたばっちまえ。一番大切な真実はナディアだ。この町で彼女だけがおれをまともな人間として扱ってくれるのに、おれは彼女に真実を言えねえんだ。これまでもこれからも」