嘘告
ピッという音が鳴り、彼は動き始める。オープンスタンスの構えをとり、まずは軽くジャブとストレートを放つ。彼にとってはストレッチ的な意味を持つ二発だったが、速さは相当なものだ。
彼は段々とギアを上げ、多彩なコンビネーションを足を止めず繰り出していく。もちろんガードとスウェーも彼は欠かさず行う。拳を振るい、体を捻る度に肌に汗が浮き出る。彼のシャドーは激しかった。速さや鋭さだけを見れば、彼はプロレベルだろう。
だが、それだけである。彼は靄に向かって拳を繰り出していた。彼が渾身のストレートを放とうとした瞬間、彼の動きは止まる。目の前には鏡があった。彼の瞳に初めて靄以外のモノが写った。彼は動けない。目が見開かれ、呼吸は乱れ、拳は震えている。何かがこみ上げてくると思った瞬間、ピピピピ!という音が鳴った。彼がシャドーを始めて三分が経ったのだ。彼は予め用意しておいたコップ一杯の冷水をあおり、タオルで体を拭く。深くため息を吐きながら、タオルに顔を埋める。
もう一度ピッと鳴ると、何処からか風切り音が聞こえてくる。彼は鏡から遠く離れた場所でシャドーを始めた。彼の名前は安保 一清。自ら夢を捨てた、元ボクサーである。
『次は~星華校前~星華校前~。』
半分寝ぼけていた意識が覚醒する。ろくに覚えていない英単語帳をスクールバックにぶち込み、バスから降りるための準備をする。星華校とは俺が通っている高校の略称だ。正式名称は私立星華高等学校。全校生徒は1000人を超える、結構なマンモス高校だ。この時間帯にバスに揺られているのは大体星華校生だ。いつの間にかバスも止まり、ぞろぞろと出口へ向かい同じ恰好の連中が動き出す。もちろんその中に俺もいる。
「おはー、一清。」
教室に入り自分の席に荷物を下ろすと、隣の席から挨拶が飛んできた。足を組み、手を頭の後ろに回しているその姿は中々にだらしない。
「おはよう。朝っぱらからでかい態度だな、駿。」
こいつの名前は小山内 駿。俺の数少ない友人の一人だ。隣の席というだけでここまで随分仲良くしている。サラサラの黒髪マッシュに、案外整っている顔。現代高校男児の模範生だ。
「はは、まあいつものことじゃん。それよりさ、英コミの予習プリント見せてくんね?今日多分俺からなんだよー。」
俺はファイルから英コミの予習プリントを取り出し、駿の頭上でひらひらさせる。駿の顔がプリントがなびくのに合わせて動く。猫みたいで結構おもろい。
「俺が言いたいこと、分かるよな?」
「ぐぬぬ、分かった。ジュース一本で!」
「はい、どうぞ。」
俺がプリントを渡そうとすると、駿はひったくるように俺の手から奪い取った。節操のないやつだ。パソコンで撮って保存している駿を尻目に、俺は教科書をバックから取り出していた。
粘ついた視線が俺にまとわりつく。
後ろをチラリと見てみれば、何人かのクラスメイトがこちらを見ながらニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべていた。またろくでもないことを考えているのだろうが、巻き込まれるのは勘弁だ。ため息をつきながら、少々荒めに教科書を机に入れる。
「俺からちょっと言っとこうか?」
プリントを撮りながら、こちらを見ずに駿が言う。どうやら駿も気づいたらしい。こういうところが憎めない理由だ。しかし、俺は自他ともに認めるチキンなので駿に頼む勇気もない。それよりも、駿に申し訳ない気持の方が大きい。
「いや、キモいけど実害があるわけじゃないからいいよ。それに、波風立てるのもだるいし。」
「そうか、まあやりすぎてたら俺が勝手に動くから。」
駿は今度は違う角度でプリントを撮っている。なんか、素晴らしいイケメンが俺の前にいた。こいつが友達でいてくれるのなら、宿題なんて安いものだ。先程よりも五倍増しぐらいイケメンになった駿はプリントを動画で撮り始めている。
「おまえ、何してんの?」
「あ、バレた?」
やっぱりこいつは残念イケメンだ。
「気を付け、礼。ありがとうございました。」
『ありがとうございました。』
俺はほぼ礼とは言えないお辞儀をして、席に勢いよく座った。七限目が終わり、ようやく自由の身になれたのだ。
「じゃ、部活行ってくるわ。また明日。」
「おう、じゃあな。」
隣の席の駿はもう荷物を背負って部活動に向かって行った。部活はもちろんサッカー部だ。詳しくは知らないが、一年生ながらもう試合に出させてもらっているらしい。涼しい顔をして、案外すごいことをしている。友人の凄さを再確認しながら、机に入れていた教科書などをスクールバックに入れていく。バックのサイドポケットが震える。俺はそこからスマホを取り出し、通知を確認する。一応校内でスマホを使用するのは校則で禁止されているのだが、守っている奴はほとんどいない。私立万歳!
「は?『Yui』?」
スマホにはメッセージが届いていた。送られてきたアカウントを見てみれば、そこにはありえない名前が記されてあった。
混乱する頭を無理矢理再起動して、俺はメッセージの内容を確認する。
『いきなりメッセージごめんね。今日の放課後、大切な話があるので体育館裏に来てください。』
俺は頭を抱えて、堅い椅子の背もたれに深く体をあずけた。アカウントの主は『佐々木 唯』、この学校の二大美少女の一角、そして俺のクラスメイトの一人でもある。俺は脳みそをフル回転させてすべての可能性を考えた。
①単純な嘘告。
②これは偽のアカウントで一軍連中がウキウキで体育館裏に来た俺を馬鹿にする。
③ガチの告白。
うん、③はないな。今すぐ脳みそから削除しよう。①に関しても理由がなさすぎるな。佐々木さんとはそもそも交流がないし、わざわざあいつらに協力するとも思えない。②だろうなあ。めんどくせえなあ。
あいつらまじで気色悪すぎるだろ。俺はアカウントをブロックして帰路に就く。一歩二歩と進んだところで何故か立ち止まった。俺は校門とはまったく逆方向の体育館へと進行方向を変えた。
体育館裏へと向かうと、まさかのそこには絶世の美女が神々しい光を放ちながら誰かを待っていた。ただ待っているだけで絵になる人間がすぐそこにいた。絵になる人間こと佐々木 唯がこちらを向いた。
「君、安保君だよね?」
「え、あ、はい。」
「きょどりすぎだよw」
何故か俺は放課後の体育館裏であの佐々木 唯と会話していた。言葉が出てこない、繋がらない。こんなにも近くで佐々木さんの顔を見るのは初めてだ。あまりにも綺麗でのけぞってしまいそうになる体を何とか抑える。眼球だけを動かし、周りにあいつらはいないのかと探すが、誰もいない。
「ふーん、じゃあ付き合おっか。」
「え?!」
衝撃的な言葉が俺を襲う。この人は一体何を言っているんだ。俺はここで初めてまともに佐々木さんの顔を見た。蠱惑的という言葉以外に、いまこの顔に当てはまる言葉はないだろう。
「いろいろお話聞かせてね、もとUJ王者『安保 一清』君♪」
全ての考えが吹き飛んだ。俺はただ何も言えず、佐々木さんの顔を見続けた。
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