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リボンを掴め

作者: 物雪恵人

第二十九回電撃文庫大賞、二次選考通過、三次選考落選した話です。


あらすじにも書きましたが、この話には「交通事故」「いじめ」「自殺」「虐待」「殺人」といった言葉や、性的マイノリティーへの差別的な構造の描写が含まれますので、少しでも苦手と感じましたらお逃げください。



 生まれることと生まれないことの、いったいどちらが不幸なのだろう。




 正気を失った人間の顔には表情がねーんだな。音楽の授業で見させられた教材ビデオ。それに出てきた、能面みてーだ。

 自動車と壁に挟まれながら赤澤は思った。

 運転手は老いていた。

 六十五歳以上の高齢ドライバーによる交通事故が多発し、各メディアで報じられ、運転免許証の自主返納が呼びかけられている昨今。

 まさか自分が事故の当事者、もとい、被害者になるとは微塵も思っていなかった。

 運転手はパニックから正気を失っている。赤澤を壁に押しつぶしてもなお、ブレーキと踏み間違えたアクセルを踏み続けていた。騒ぎを聞きつけて集まってきた人達が窓を叩き大声で制止を呼びかけるが虚しく届かない。

 禍々しい魔物と化した自動車は、ごうごうと留まることを知らない唸り声を響かせていた。

 赤澤の視界はめっきり白んでいた。もはや何もかも見えない。

 頭の中に映像が浮かんだ。父と母と妹と祖母の顔を皮切りに、亡くなった祖父やクラスメイト、部活の仲間の姿が、ピクチャーアプリのスライドショーのように切り替わっていく。小学生の時から打ち込んでいただけあって、グローブやバットやグラウンドといった野球関連の映像も多かった。

 次に多かったのは花の映像だ。赤澤の家は花屋を営んでいる。友達にはからかわれるので秘密にしていたが、赤澤は花が好きだった。特に好きなのは、祖母が一番好きなヒマワリ。祖母はよく赤澤の頭を撫でながらこう言った。


「お前はやんちゃ者だけど根はまっすぐだ。そういう子の心にはヒマワリの種がある。ヒマワリはお天道さんに向かって咲き誇る花なんだ。お前もヒマワリのように上を向いてしゃんと胸を張って、お天道さんの下を歩ける人になりなさい。いつでも、心にヒマワリを咲かせるんだよ」


 わぁーってるよ、ばあーちゃん。

 それが、赤澤が抱いた最期の言葉だった。

 そして無が訪れた。

 次に赤澤が感知したのは、規則的な振動と、それに伴う「ガタンゴトン」という音だった。

 とろとろとした眠りの中にある赤澤の胸を、懐かしさがこみ上げた。練習試合や大会を終えた後の帰りの電車を思い出していた。電車の座席というのはただでさえ眠気を誘う魔力がある。その上くたくたに疲れ果てていては抗えるはずもない。赤澤は疲れてはいないが、感覚は限りなくその時と似ていた。

 おりゃ電車ん中にいんだったか?

 部活帰りの電車にいるように赤澤は目を開けた。下車する駅を通り過ぎていないかを確認すべく、案内表示へ視線を走らせようとして、


「おはようございます」


 と対面から声をかけられた。

 赤澤の視線は半ば強制的に対面の座席に座る人物へと引き戻される。

 コドモ? と赤澤は訝しんだ。挨拶をしてきたのは幼児といって差し支えない年恰好の子供だった。

 幼稚園児のようなスモッグと半ズボン着て、肩には幼稚園鞄をかけている。胸には名札もつけていた。奇妙なことに衣服が黒一色で統一されている。靴も靴下も真っ黒だ。鞄と名札は白だが、それがかえって不気味だった。


「人生お疲れさまでございました、赤澤さま」


 奇妙な子供が奇妙なことを言った。赤澤はそう思った。一方でこうも思った。ああ、そうか。おりゃ死んだんだった。

 死んだことに驚いている自分もいれば、当然と受け入れている自分もいる。水と油、静と動といった、相対するものが同居しているみたいで、赤澤は不思議な気分だった。

 もっと不思議なのは目の前の奇妙な子供のことだった。唐突で突拍子もない存在。それにもかかわらず、赤澤は子供への信頼を覚えていた。それは生後間もないひな鳥が、初めて目にしたものを親鳥と認識するのと似ていた。

 生前の赤澤は直感を重んじる性格だった。死後にも通用するかはわからないが、自分の直感を信じることにした。


「お前はあれか、三途の川の水先案内人ってーやつか?」


 子供は虚を突かれた顔を作る。不可解な状況を飲みこみ、冷静にふるまう赤澤の度胸に感心の笑みをこぼした。


「落ち着かれていますね。皆さま往々にして取り乱すのですが」

「取り乱すようなガラじゃねーからな」


 左様でございますか。子供はホテルマンのように恭しく答えてから切り出す。


「先ほどのご質問ですが、当方は死に神と申します」

「しにかみ……死に神? 死神じゃなくて?」

「ええ、濁りません。濁りのない神ですので」


 死に神の本気とも冗談とも取れない言葉を、赤澤は「ほーん」と流した。


「そんで? 俺の魂の回収でもすんの?」

「とんでもない! 当方はそのようなことは一切行いません」


 ……仕事のできるビジネスマンと話してるみてーだ。死に神の大仰な言動に赤澤は心の中でぼやいた。


「赤澤さまにはこれより、生まれ変わるための権利を賭けた勝負に挑んでいただきたく存じます」


 死に神がそう言い放った時、死に神の頭上にぽっかりと口を開ける車窓の景色が、暗闇から光へと変わった。

 赤澤の目がまぶしさに眩む。明るさに慣れてくると、窓の外に広大な川と針葉樹林が広がっているのがわかった。遠くには連綿と並ぶ青白い山々もうかがえる。明らかに日本ではない、スケール感の狂う大自然。赤澤は思わず絶景に見入り、言葉を失った。

 赤澤は漠然とした予感があった。この後自分の身に起こることは決定事項であって、拒否は許されない。そんな胸騒ぎを窓の外の大自然と己の体が訴えかけていた。

 前かがみになった赤澤は意を決して訊ねる。


「……詳しく聞かせてくれ。勝負のこと、この空間のこと。それから、俺の体がオンナになってることもな」

「お気付きでございましたか。その上でのその冷静ぶり。いやはや感服いたします」


 死に神は胸に手を当て敬意をあらわにした。

 赤澤は「よせやい」というように手を振る。


「気付いたっつっても今さっきだ。見たこともねー絶景にビビッてキンタマ縮みあがるぜーって思ったのによ、ねーでやんの、キャンタマ。代わりに別のもんがついてっけどぉー」


 おどけてみせることで、赤澤は下心からくる鼓動に気付かないふりをした。赤澤の胸は中々に大きく、野球一筋だった男子の手に余る。

 そんな赤澤の心情も見越して、死に神は請け負う。


「順を追って説明いたします。――まずは赤澤さまが二番目におっしゃった〝この空間〟についてからはいかかでしょうか」


 愛嬌を振りまいて死に神が了承を求めた。赤澤は鷹揚に頷く。


「赤澤さまが現在いるこの空間を、当方では狭間の世と呼んでおります。いわゆるあの世とこの世の、狭間にある世界と捉えていただいて結構ございます」

「ハザマの世ねぇ……。さっさとあの世に送らねーで、生まれ変わりの勝負をさせるその心は?」

「赤澤さまが望まぬ死を迎えたからでございます」


 赤澤の入れた茶々に死に神はよどみなく答えた。


「この狭間の世では、肉体の寿命を待たず、他者によって死に到らしめられた方々にお集まりいただいております。当方の担当は二十歳以下に該当する方でございます」

「ナルホド。殺されたやつらを集めて勝負させて、勝ったら生まれ変わらせてやる。……いやフツーに全員生まれ変わらせてくれねーのかよ」

「そうしたのは山々でございますが、何分出生率が低いので」


 赤澤は唖然とした。少子化の波がこんなところまで影響するとは政治家も思うまい。


「勝負は絶対参加なのか? 生まれ変わりたくねーってやつがいたらどうすんだ」


 質問を口にした直後、赤澤は「あそっか。負けりゃいーのか」と自ら答えを導き出した。死に神は黙して微笑んでいる。


「ではお次は、赤澤さまが三番目におっしゃった〝俺の体がオンナになってること〟にお答えいたしましょう。現在赤澤さまの魂が宿っているその体は、狭間の世限定の仮の肉体となっております。狭間の世の規定に基づき、二十歳以下の方にはどなたにも一律十七歳の肉体が提供されています。赤澤さまは生前より一歳年上になられていただいていますね」

「死んだ後に年を数えられてもなぁ」


 赤澤は複雑そうに応じた。


「性別ですが、こちらは赤澤さまが生前認識していた性別とは異なる肉体がご用意されています。別段理由はございません。狭間の世のユニークポイントとお考えください」


 なんだそりゃ。ぼやきを内心にとどめ、赤澤は確認する。


「勝負に支障はねーんだな?」

「ございません。狭間の世で行われる勝負において男女の肉体の差は意味を成しません。勝負にかける思いの強さ――気持ち、心、思いといった精神的な強さが肉体の強さとなります。どんなに強靭な肉体であっても、勝負に賭ける思いが弱ければ見かけだおし。強者にはなりえないのでございます」

「勝負に賭ける思いって、絶対生まれ変わってやんぜ! ……みてーなのでいーのか?」


 赤澤が拳を振り上げ、力んでみせた。死に神は愛想よく首肯する。


「問題ございません。勝負に賭ける思いの形は赤澤さまの自由でございます」

「野球やりてぇー! とかでもいいわけか」

「その通りでございます」


 死に神が大きく頷いた。切りそろえられたおかっぱが躍動する。

 赤澤はしばし、何事かをぶつぶつと呟いては小刻みに頷くことを繰り返した。死に神から聞かされた話をおさらいしていた。やがてそれも終わり、赤澤は死に神に向き直る。中断させた話の続きを、片手を開いて促した。


「勝負の説明に移ってくれ」

「勝負はこれからこの電車が到着する停車場で行われます。形式は一対一。時間による制限や場外アウトはございません。武器の持ち込みは禁止されていますが、停車場にあるものは使用可能でございます。例えば、転がっていた空き缶を相手に向かって投げつける、といった行為は禁止されておりません。ここまで宜しいでしょうか」


 赤澤は人差し指と親指でオッケーサインを作った。

 問題がないことを認めると、死に神はおもむろに幼稚園鞄を開いた。小さな両手が黄色いリボンを取り出す。手のひらにひよこを乗せたかのような動作で、死に神は黄色いリボンを赤澤へ差し出した。


「赤澤さまのリボンでございます。どうぞ、お受け取りください」


 赤澤はリボンを片手で受け取る。しげしげと眺めてみたが、ハチマキといっても遜色はなさそうだった。


「勝負の際は、リボンを体の目につく場所に着けていただきます。相手のリボンを奪えば勝利、リボンを相手に奪われれば敗北でございます」

「おー、わかりやすい」

「一度着用したリボンは自ら解くことはできませんので、よくお考えの上で着用してください。一度着用したリボンは対戦相手にしか解けません」

「自分から負けんのはナシ。自殺点は入れられないっつーわけか」

「一概にそうとも言い切れません」

「ん?」

「リボンを巻いた腕を相手に差し出すことは可能でございます」


 なるほどな、と赤澤が手のひらを拳で打った。


「そいつは思いつかなかった。サスガだな」


 謙遜せず、死に神は目礼を返した。

 話が一段落したのを見計らったように、雨がぱたぱた、と窓を叩く。

 赤澤は視線を上げて窓を見た。そして束の間、呆然とする。窓の外を流れる景色が、街並みへと様変わりしていたのだ。広大な川も針葉樹林も蜃気楼のごとく消え去っている。見知らぬ街ではあるものの、本来の凡庸な景色を取り戻せたようだと赤澤は感じた。赤澤が送っていた日常の延長線上と思える風景に安堵を覚えた。


「まもなく停車場でございます。何か聞きそびれたこと、ご不安なことはございますか」


 一通り診察を終えた医者が患者に問うように死に神が言った。

 赤澤は多少緊張した面持ちで低く訊ねる。


「勝負は……チャンスは一回ぽっきりか?」

「はい」


 と死に神が簡潔に答え、赤澤も、


「そうか」


 と短く返した。

 沈黙を埋めるように雨音が強さを増した。

 電車がゆるやかに速度を落とし始める。停車場が近い。赤澤は蛇行動で揺れる中、腰を上げた。今のうちに立っておかなければ、停車場に着いても立ち上がれない気がして怖かったからだ。

 赤澤はドアの前に陣取った。この電車には片側に四枚の扉が設置されている。どちら側のドアが開くか赤澤には見当もつかなかったが、そこは直感に従った。

 死に神から特に指摘もないので間違ってはいなさそうだ。

 銀色のドアは鏡面のようにぴかぴかとしていた。赤澤はドアに映る自身の姿を観察する。

 でっけー目にでっけー口だよぉ……。あれだ、元気っつーか、ニギやかそーなオンナ? 女子には好かれっけど、男子からはケンエンされそーなカンジだ。

 でもまぁー、悪くねーじゃん、と赤澤は総評した。満更でもない笑みを浮かべている。

 服装は下は細身のジーンズ、上は白のTシャツと青と白のツートンカラーのスカジャン。スカジャンの背面には、ヒマワリの花を下から見上げた構図の刺しゅうがある。どれも赤澤が死亡時に着用していたものだった。


「髪型はポニーナントカのミツアミかぁ、これ」


 背中をドアに映しながら、赤澤は長い髪の感覚を確かめるように頭をゆすった。長髪がもたらす重量や反動が赤澤には物珍しく新鮮だ。

 ひとしきり堪能した後で、赤澤は軽く体を動かす。体の可動域や反応速度を試して、生前とズレがないことを確かめた。

 そうこうしているうちに電車がいよいよブレーキをかける。レールが「ギィィィ」と甲高い悲鳴を上げた。

 赤澤は黄色いリボンの端と端を両手で持ち、ピンと張る。リボンと相対する赤澤の表情も張りつめている。赤澤はどこにリボンを着けるか決めかねていた。敗北条件を聞いた当初は足首に着けるつもりでいた。足首であれば、容易に手は届かないだろうから。だが、気が変わった。リボンを足首に着けるのは守りの姿勢に感じられた。それが悪いわけではない。しかし赤澤の性分には合わない。

 赤澤は思い切って、リボンを左の手に巻きつけにかかる。包帯のようにぐるぐると巻き、拳を握ることでリボンの端を留めた。

 肩越しに振り返って赤澤が死に神に問う。


「こーゆうのはアリか?」

「はい。赤澤さまらしくて素敵でございます」


 死に神が恥ずかしげもなく答えるので、赤澤は照れ臭くなった。仕方なく、照れ隠しに混ぜっ返す。


「いけしゃあしゃあー! この強メンタル!」


 でもま、あんがとよ。目を閉じた赤澤が小さくささやいた。

 電車が止まり、赤澤の前のドアが開く。

 停車場へ到着した。

 停車場は小ざっぱりとしていた。構造はプラットホームの両側が線路に面した島式ホーム。駅舎へ続く通路と階段はなく、ベンチや自動販売機もない。反対車線にはスカイブルーの車体が止まっていた。これは赤澤が乗ってきた電車と同車種だ。

 電車の空色は整然としたホームによく馴染み、また雨天の下にもよく映えている。だが、その光景を楽しむ余裕は赤澤にはなかった。

 一度降りてしまえばもう後には戻れない。とはいえ下車を拒むことはできない。わかっている。それでも赤澤は初めの一歩をためらっていた。

 そんな赤澤の背中を押すように、死に神が嘯く。


「いざ生まれ変わるため、リボン(Re born)を掴め」


 死に神の言葉を赤澤は反芻した。

 生まれ変わる。生まれ変わってもう一度得る。「おはよう」を言い合える家族を、昼寝に費やす昼休みを、犠牲を払ってでものめり込んだ好きな物を、花をキレイと思えた瞬間を、そんな普通の日常が、新しい日々が、欲しい。生まれたい。生まれ変わりたい。

 もう一度生きたい。

 赤澤はヒマワリのように胸を張り、


「おお!」


 と雄々しく吠えて停車場に降り立った。

 時を同じくして、真向かいに人影が降り立つのを赤澤は見た。他でもない、対戦相手だろう。

 両者は互いを注視しながらじわじわと回り込み、縦に伸びるホームを準じて向かい合った。

 赤澤は対戦相手が女性だと一見してわかった。白髪であることに度肝を抜かれたが、顔は若々しかった。仮の肉体が女性ということは、すなわち生前は男性ということだ。

 ほんの少し肩の力が抜けた気がして、赤澤は笑った。非常事態だというのに、この期に及んで男女の別を気にしているなど、我ながらヘンな奴だと呆れた。

 赤澤は軽く辺りを見渡す。肩の力が抜けたことで視界が狭まっていたことに気がつけた。

 電車に乗っている時はわからなかったが、街は荒廃していた。住宅は半壊しているか全壊しているかのどちらか。道路は蜘蛛の巣を張ったようにひび割れている。人の気配は微塵も感じられず、ゴーストタウンという言葉が気持ちいいくらいに当てはまった。

 代わりといっては何だが、草木はたくましく生育していた。荒廃した街に生い茂る緑はうつくしく、その力強さに励まされる心持になったのか、赤澤は対戦相手に語りかける。


「悪くないよな、こーゆー景色」


 その口調は、見知らぬ者同士が何の気なしに交わす「いい天気ですね」のあいさつに似ていた。


「実際なったら困っけど、遊び心くすぐられねー?」


 相手に問いかけておきながら、赤澤は「いや男心? 冒険心か?」と悩み出す。


「子供心じゃないかな。幼いがゆえに是非や善悪のわきまえがない。不謹慎な状況も無邪気に楽しんでしまえる。ちがう?」


 対戦相手は赤澤の反応を窺うように首を傾げて訊ねた。まつ毛が長く、瞬く度に音が聞こえそうだ。

 その恐ろしく整った顔立ちは気にも留めず、赤澤が頷く。


「それだ!」


 顔を見合わせた二人は口元に笑みを浮かべた。


「俺は赤澤。そっちは?」

「ぼくは東郷」


 東郷は学生服の胸に手を当てて答えた。

 東郷は全体的に白かった。髪はもちろん、眉毛、まつ毛も白い。歯も肌も白ければ、学生服の色も白い。目につく黒はリボンの色だけだった。

 東郷のリボンは、絹糸のような長く垂らした髪の先に結われている。

 赤澤が東郷のリボンの位置を認めた時、東郷もまた赤澤のリボンの位置を認めていた。そんな些細な視線のやり取りが両者の間に緊張感を生んでしまう。二人は対戦相手だった。

 前触れもなく電車のドアが閉まる。戦えと促しているように赤澤の耳には聞こえた。


「東郷」


 呼びかけて赤澤は言葉に詰まる。

 生まれ変わりたい。けれども、いざ対戦相手を前にしてみると気が引けた。善人ぶってるわけじゃない。聖人を気取るつもりもない。では何に対して気が引けているのか。単純なことだ。俺も生きたいが、相手も生きたいんだ。そこなんだ。きっと俺も東郷もまだどっかで生き物のままだろう。死んでも、生まれ変わりのチャンスを与えられれば生きようとしてしまう。すべての生き物が背負ってるもん、性だが業だかにおりゃビビッてんだ。

 感情の正体をつきとめた赤澤は「ヘヘッ」と鼻の下を掻くと、拳を突き出して言う。


「おっぱじめるよーぜ、東郷。気は進まねーかもしんねーが、それはオタガイさまってもんだ。何つったけな……キセン、か? 生きようとすることにキセンはねーと思うんよ。だから勝負ろーぜ」

「構いませんよ」


 東郷がさらりと応じた。葛藤のない様子に赤澤は拍子抜けするが、一方で感心もしていた。


「勝負の仕方はどーする? 殴り合うか、じゃんけんすっか、話し合うか」

「赤澤さんが生まれ変わりを望んでいるのなら、話し合いは不毛ですね」

「そうか。んじゃ、話し合いはナシだ」

「じゃんけんを提案する胆力は尊敬しますけれど、ここまで来てそれというのも、いささか情緒に欠けませんか。それに、仮に僕が負けたとして、おとなしくリボンを差し出せるかわかりません。恐怖に負け、往生際悪く抵抗してしまうかもしれません」

「そんときゃあボコる……ってことになんなら、最初はなっから殴り合った方がいーな!」


 結論に行き着いた赤澤が人差し指を立てた。

 それを見ていた東郷は、教え子を導く教師のような面持ちになると、


「僕もそう思います」


 と同意した。

 東郷の余裕な態度を受けて、赤澤はもう素直に誉め言葉を口にする。


「スゲーな、お前。全然ビビんねーじゃん」

「ポーカーフェイスには自信があります」

「すずしい顔してられんのも今のうちよー?」

「かもしれません」


 返事にそつがない。したことねーけど、のれんに腕押ししてるみてーだ。赤澤は内心で冷や汗をかいていた。

 生きていた時、公式戦で甲子園の常連校とぶつかったことがある。善戦をした。エースが登板するまでは。県下屈指の投手に赤澤達の打線は手も足も出なかった。敗戦濃い相手との打席で味わった口内の渋味。その時以上の渋味が今、赤澤の口いっぱいに広がっている。


 ――こいつ、つよいだろ。


 赤澤の直感もそう告げていた。

 続けて赤澤の直感が赤澤に命ずる。〈強者に有効な手立ては奇襲だ、ただちに実行せよ〉と。

 赤澤はミサイルのように飛び出した。生まれ変わりに駆ける思いのなせる技なのか、爆発的な加速を誇っている。さほどもなかった二人の距離などあっという間に詰まってしまう。


「わりーが、先手ぇ、必勝ぉだー!」


 とこのように放たれた言葉も、尋常でない速さについて行かれず、東郷の耳には「わりりりりが、せんんんんて、ひっしょしょしょしょしょうだだだだだだ」と聞こえていた。

 赤澤の手が黒いリボンの寸前まで迫る。


 ――取った!


 そう確信した赤澤をあざ笑うかのごとく、たおやかな声が耳元でささやく。


「悪くありませんよ。僕は同意しました。その時すでに勝負は開幕しています」


 次の瞬間、赤澤は吹っ飛んだ。ホームの屋根を突き抜けて、のけ反り、雨雲を拝んだ。やがて墜落する。

 赤澤には何が起こったのかわからなかった。気がつけば腹ばいのまま雨ざらしになっていた。なぜか音が聞こえなかった。

 無音の中、雨が赤澤の横面を叩いている。

 ここどこだ? なんで雨が……?

 弾かれたように身を起こした赤澤は、自分が屋根の上に移動していることを知った。呆然とする猶予も与えられず痛みが赤澤を捕らえた。激痛に目の前が赤黒く塗りつぶされる。

 赤澤はうずくまり、もだえ苦しんだ。


「いってぇ……⁉」


 思い出したように音が戻ってくる。赤澤の感覚がようやく事態に追いつき、濁流となって押し寄せたのだ。


「なん……だよ、これ」


 意識がくらくらしている。いや、と赤澤は否定する。くらくらなんてナマヤサシーもんじゃねー。ぐわんぐわんだ。


「なぐられたんだ……よな?」


 状況からいってそれしかない。返り討ちに遭ったのだと赤澤は判断した。


「えれぇーもん、かましやがって」


 体に受けた衝撃と精神的なショックで赤澤の手足は未だしびれていた。特に両手の麻痺が強く、開いて結ぶことすらままならない。それでも黄色いリボンはまだ左手にあった。

 赤澤は腕組みの要領で両手を横腹に押し付け、更に腕で押し固めた。できあがった握り拳は何とも心許ない。しかし赤澤は納得した様子でよろよろと立ち上がる。


「殴るうちにもとに戻んだろ」


 ナマクラが真剣になるように。

 赤澤は己が開けたであろう屋根の穴からホームへ飛び降りた。


「待たせたな」


 いえ、と東郷は返事をした。待ち合わせ時間より数分遅れてやって来た友を迎える顔をして、こうフォローする。


「僕がやったことですから」

「ホントだよ。赤澤危機イッパツ状態だったじゃねーか。おりゃ黒ひげじゃねーぞ」

「よく、わかりません。どういう意味ですか?」

「ぐ、知らねーのかよ。ハズィーな俺」

「……すみません」

「あやまんな、あやまんな。お前のせいじゃねーし、しゅんとすんなよ」


 肩をすくめる東郷に赤澤は励ましの言葉をかける。


「おりゃあ、お前の攻撃がすぐれてたってホメたかったんだからよー」

「そんな、初手は大事というだけですよ。でもありがとうございます」


 東郷は素直に照れてみせた。


「お、おう」


 面食らいながら答えた赤澤は、東郷の実年齢が少し気になった。俺より年上かと思ったけど、もしかすっと年下なのかもしれねーなぁ。

 そう思った直後、脳裏に映像が飛び込んできた。ウェブ動画の途中で流れる広告のように、自動再生を始める。

 それは傷付き泣き叫ぶ、見知らぬ少年の姿だった。中性的な顔立ちをした亜麻色の髪の少年が、級友らしい子供達や、面立ちの似通った中年男性から受ける罵倒と暴力が、断片的に映し出される。とても痛ましいものだった。


「どうかしましたか」


 東郷が嫣然と問いかけた。偶然だろうか、映像の少年達が着用している制服は東郷が着ているものによく似ている。

 直感が赤澤に動けと命じていた。


「……いンや。しきり直しだ。次はワンパンで場外ホームランされるなんてミットモネーことにはなんねーようにすっから――よっ!」


 赤澤は再び攻撃をしかける。むやみに突っ込むのではなく、バッターボックスに立った時の感覚を思い出しながら広く観察していた。

 守備の位置、投手の目つきや表情から得られる情報。そこから導き出される、相手が思い描く自分のバッター像を想像する。それらを踏まえた上で、どういうバッティングをするのか。

 そうやって打席で働かせていた頭を勝負でも働かせればいい。が、観察に徹しすぎために反応が遅れ、綺麗に右フックを入れられる。

 ただし一撃目とは異なり、反撃をくらうかもしれない、いやきっとくらうだろう、という心の準備があった。よって堪えられた。


「だぁーもう! ぜんっぜんボカスカ殴り合えねーよ! よえーな俺ぇ!」


 反撃には堪えられたが、理想と現実のギャップに憤懣としてみせた。そうして稼いだ時間の中で、赤澤は己の直感が的外れでなかったことを知る。

 先ほどと同じ類の映像が赤澤の脳裏に流れたのだ。


 ――見えたぜ、東郷。お前が受けたいじめとぎゃく待が。


 赤澤は核心を突くべく口を開く。


「なぁ、お前が受けたいじめとぎゃく待なんだろ。さっきから俺の頭ん中に流れてくる胸くそ映像は」


 確証はなかったが、確信を持っていた。


「僕も見えましたよ。赤澤さんがおじいさんにひき殺されてしまうところ。……悲しく、切なくなります。辛かったですね」

「ん? ん、まぁーな」

「恨んでいますか」


 オブラートに包むことなく東郷が訊ねた。ストレートな物言いをされると、ストレートに答えてしまうのが赤澤の性分。


「恨んじゃいねーけど、許しゃしねーよ。命がフジョーリに奪われっことを許しちゃいけねーからな」

「そうですね」

「家族にもそーゆー気持ちでいてもらいてーかな。悲しまないでいられねーだろうし、俺のこと忘れてほしいわけじゃねーけど。ヒマワリみてーに上向いて、元気でいてほしいよなぁ……」


 心の内を語った気恥ずかしさと、逸れた話の道筋を戻すため、赤澤は咳ばらいを一つ入れる。


「コホン。えっと、つまりなんだ、殴り合うごとに俺達は互いが生きていた時の記憶が見えるっつーわけか」


 問いかけにこそ答えなかったものの、東郷との一連の会話は赤澤の確信を裏付けた。


「正解ですが、厳密には接触するごとです」

「正解ね」

「話は変わりますが、赤澤さん、高校生だったんですね」

「……そういうお前はいくつだ? 毛並みのいい学ラン着てっけど、私立のエリート校か?」

「十二歳です」

「じゅうにィー⁉ 小学生ガキじゃん⁉」

「間違ってはいませんが、生きていれば二月後には中学生でしたし、今の発言はちょっと切なくなります」


 高校生だった赤澤から見て、小学六年生は幼い部類にあった。だが思い直す。数字にしてみれば四歳しか違わねーのか、と。


「そうだな。わりー。よくねー言い方したわ」

「赤澤さんは気立ての良い人柄なんですね」


 育ちの良さをかもし出す東郷の返事を聞き、赤澤は勝手に敗北感を喫する。中身は向こうのが年上だろ、こりゃあ。

 赤澤をブルーな気分にしたことなど露知らず、東郷は話を続ける。


「赤澤さんみたいな人を見ると、対話をしたくなります。どうでしょう。言葉を交わしながら、拳を交わしてみませんか?」

「対話ァ? おりゃムズカシイ話はさっぱりだぞ」


 そう言って赤澤は耳の穴を小指でほじくった。


「赤澤さんが思ったまま、感じたままを言葉にしてくれればいいですから」


 穏やかながらどこか熱心な印象を受け、赤澤は提案を飲んだ。

 破顔した東郷は、笑顔のまま対話のテーマを口にし、ファイティンポーズを取る。


「赤澤さんはどうして生まれ変わりたいんですか?」

「――は?」


 接近戦インファイトを得意とするボクサーのような踏み込みを見せて、東郷が赤澤の懐に入った。東郷の左アッパーが直撃した赤澤の顔は斜めに跳ね上がった。顔が衝撃で大きく歪んでいる。

 東郷の攻撃は止まらなかった。打ち下ろすように振り上げられた右ストレートが、赤澤の顔面を捕らえている。挟み撃ちのような連続攻撃だ。加えて東郷は、おしゃべりも止めなかった。


「生まれることはとても不幸なことなのに、どうしてまた現世を目指すんです?」


 地獄のコンビネーションをくらった赤澤は、顎から崩れ落ちる。運よく東郷の腕を掴み、ダウンを堪えた。見ようによっては、東郷が進んで赤澤を手助けしたようにも見受けられた。

 ぼそぼそと赤澤が問う。


「おまえ、うまれたくねーのか」


 赤澤は胸中で憤っていた。生まれ変わりを望まない者がどうしてこんなに強いのだろうか。生まれ変わりに賭ける思いの強さが、肉体的な強さにつながるのではなかったか。


 ――どーなってんだよ、死に神!


 そう問いかけてみても返答などあろうはずもない。

 仕方なく赤澤は、死に神の言葉を思い返した。


『勝負にかける思いの強さ――気持ち、心、思いといった精神的な強さが肉体の強さとなります』


 生まれ変わりに賭けるとは言っていなかった。

 更に、死に神はこうも言っていた。


『勝負に賭ける思いの形は赤澤さまの自由でございます』


 よーするにだ。勝負に賭ける思いが「生まれ変わりたくねー」でもありってことか。赤澤は声もなく哄笑する。俺の「生まれてー」って思いは東郷よりよえーんだな。ケッサクじゃねーか。

 自嘲的な笑みを浮かべた赤澤を東郷は訝しんだ。


「赤澤さん?」

「うまれたくねーのに、しょーぶにせっきょくてきな、そのこころは?」

「生まれ変わることが幸福だと信じ込んでいる赤澤さんを説得するためですかね」

「ありがためーわくだよ、こんクソ」


 赤澤は東郷の胸を突き飛ばした。


「今はまだ相容れませんか。残念です」


 赤澤の拒絶を東郷はそっと目を閉じ、静かに受け入れる。それから気を取り直すようにまぶたを見開いた。


「では今一度訊ねましょう。赤澤さんはどうして、生まれ変わりたいんですか?」


 小刻みに放つ拳とともに質問をぶつけた。

 狙いを定められないよう、赤澤は頭を左右に振り続ける。耳のすぐそばを東郷の拳が走る度、鳥肌が立ったが、気取られぬよう腹に力を込めて声を出す。


「理屈じゃねー。生きたい。生まれたい。そんだけだ」

「うらやましいです。そうキッパリと言える人生だったんですね。でも次生まれる人生もそうとは限りませんよ。生まれなければよかった、心から後悔するような人生を送る可能性もあり得ます。例えばそう――義父の日常的な虐待と、実母からのネグレクトによりわずか九歳で死亡」


 刹那、赤澤に釘づけられていた東郷の目が虚空へ向けられる。おや、と赤澤が思う頃には、その不思議な眼差しは消えていた。


「受けた暴力の痛みに泣きじゃくる娘の姿を、笑いながら撮影する大人が親。睡眠も食事もろくに取らせてもらえない。七夕の短冊に書いた願い事は〈おかずでいっぱいの冷蔵庫で誰にも邪魔されず眠りたい〉。そんな人生をどう思いますか?」


 妙に現実味のある例え話だった。打てば響く返答をしてきた赤澤も答えに窮する。東郷の実体験なのかとも思ったが、年齢や性別が異なっている。映像の中で見た東郷と今の話では平仄が合わない。

 考えてもわからないことはさて置き、赤澤は東郷の問いかけに想像力を働かせて答える。


「殺してやりてーだろうな、当事者おれだったら。けど九歳の子供じゃ、そんなふうには思わねーんだろうな。それを思うと、当事者でなくても殺してやりてーな」


 やるせない表情を浮かべていた赤澤が、ふと寂しげな笑みを漏らす。


「殺してやりてーだなんてワード使ったら、フキンシンだぁーって言われんのかなぁ」

「言われるでしょうね」

「そうかぁ、そうだな。でもさ、殺してやりてーってのは、非道なおこないを許せねーって思いから出た言葉だろぉー? それをフキンシンだぁーって言ってつっかかってくんって、何かズレてねーか?」

「議論すべきはそこでないという赤澤さんの意見はわかります。が、適切な言葉を選ばなければならいのも事実かと思います」


 正論と同時に回し蹴りを入れられた赤澤は衝撃で後方へ吹っ飛ぶ。辛うじて防御が間に合い、どうにか体勢を保った。


「おっ……まえ、考え方オットナなー!」


 赤澤は立つ瀬がなかった。高校生の自分が小学生の東郷に勉強を教えられているような居心地の悪さに、苦笑いが漏れる。一方でこうも思った。だからかもな、と。


「なまじ考え方がオトナびてっから、悪い人生かもしんねーから生まれねーほうがいいなんて言うのかもな」


 赤澤は両腕をぶらぶらと振る。ガードの際に負ったしびれが鎮まっていくのを感じつつ、そういえば、と両手をグー・パーした。とっくに治っていた左右の拳を確かめるように固く結び、交互に前へ前へと突き出す。猛攻撃を浴びせながら赤澤は東郷に疑問を投げかけた。


「けどよ、それって〈どうせ悪い点とっからテスト勉強しねー〉とか、〈どうせ強豪校には勝てねーから練習しねー〉ってのとおんなじで、スッッゲー後ろ向きな思考なんじゃねーの?」


 東郷はあえて赤澤の拳を受けた。そして、その節もあるかもしれません、と理解を示した上で反論を口にする。


「〈どうせ悪い点とっからテスト勉強しねー〉、〈どうせ強豪校には勝てねーから練習しねー〉は、確かに後ろ向きの思考かもしれませんが、そこには怠惰の感情も存在していませんか? 勉強をするしない、練習をするしない、の選択肢も与えられています。強制ではありません。それに、学生のテストや部活動というのは、個人の力または有志と力を合わせることで変えられる範疇にあると思いませんか? けれど人生は違います。人生には選べないものがあまりに多い。性別、容姿、能力、親兄弟といった家族に付随する環境。それらの前では個人の努力など水泡のように容易く壊されてしまう。有志の協力など得られれば好都合。多くの場合は看過される。運良く発見されても及ばないことばかり。不公平にして不条理。それが僕達のいた世界です」


 東郷は眉一つ動かさず、ノーガードを貫いた。

 見上げた根性だ、と称賛する気持ちよりも、なめられたもんだ、という腹立たしさの勝った赤澤は、渾身の力を拳に乗せて打つ。


「だからそんな世界には生まれねーほうが幸せ、か?」

「少なくとも、理不尽な不幸を背負わされずに済みます」


 東郷は鼻血を噴出させたが、気にも留めずに訴える。


「世界に生まれるか否かさえ、前の人生で僕達は選べなかった。現在は違います。選べるんですよ」

「選んだことを覚えてねーって可能性もある。無意識に選び取ってる可能性もな」

「だとしてもそんなもの、生物に科せられた呪縛じゃないですか」


 鼻血を拭って答えた東郷を見て、赤澤は思った。あー言えばこー言うだな。


「さっきの質問に戻すぞ。九歳で死んだっつー子供の、そんな人生だったらどう思うってやつだ」


 赤澤は未回答のままにしていた話を持ち出した。


「そりゃ嫌だしひでぇ人生だけど、それでも一生けんめいに生きるしかねーだろ。その子供だってそうしたはずだ。結局、俺たちゃ死ぬまで生きるしかねーんだ」

「その死ぬまで生きるしかないという考えが、生物にかけられた呪いだと言っているんです」

「嫌な言ー方する天才かよ、お前は。ノロイじゃなくてもっとこう、マジナイっつーか……あー、願いはどーよ? 大昔のサルからヒミコ、ショウトクタイシ、ヨシツネ、ノブナガ、ヨシノブ? とかの時代から現在まで受け継いできた願い。自分で言ってて寒ィーけどよぉ」

「壮大な呪いです」


 東郷は頑なに言い張った。

 赤澤の額に青筋が浮く。願いだつってんのによぉ、こんガキャ……!


「そのソウダイな呪いのおかげで現代社会があるんだろうよ! ないほうがよかったつーのか⁉」

「お陰様で貧困、自殺、ハラスメント、人種差別、紛争、ジェンダー、大気汚染、エトセトラ! 様々な問題を抱えていますねぇ、現代社会」

「だとしてもこのゴにおよんで命を、イトナミを止めらねーだろ!」

「それは生きるという大義名分を掲げた思考停止じゃないんですか?」

「話をでかくヤヤコシクすんな! ここまで生きてきたからこれからも生きる! 単純なことだ! 思考停止もクソもねぇー!」


 天を衝かんばかりに赤澤は声を張り上げた。気迫に当てられた雨が一瞬揺らぐ。定かではないが、東郷にはそう感じられた。

 赤澤は東郷からの反論に身構えた。だが、予想に反して東郷は赤澤を肯定する。夜のうちに降り積もった新雪を愛でるような表情を浮かべて。


「ここまで生きてきたからこれからも生きる。大昔から現在まで受け継がれてきた願い。理屈じゃなく生きたい、生まれたい。うん、その通りだと思います」

「……あ? あぁ?」


 突然の手のひら返しに、赤澤は目を白黒させていた。絶交を言い渡された直後に親友になろうと言われたような気分だった。

 東郷は赤澤へ抱く親愛の情をひた隠しにして、次なる対話を持ちかける。


「死ぬまで生きるしかない、と赤澤さんは言いましたね。じゃあ、死ぬまでを待てず、自ら死ぬことをどう思いますか?」


 クエスチョンマークと一緒に上段蹴りが飛んでくる。言葉を交わしながら、拳(時々蹴り)を交わすスタイルにもすっかり順応した赤澤は、防御の体勢を取りつつ、思考をめぐらせる。すると、ふと気になることがあった。


「いちおー聞いておくけど?」

「はい。僕もしましたよ、自殺」


 けろりと答えて、東郷はこう続ける。


「どうぞお気になさらず。なんて言わずとも、赤澤さんなら忌憚のない意見を述べてくれるって、僕信頼しています」

「そーかよ」


 額に汗を浮かべた赤澤がため息交じりに言った。

 赤澤は少なからず焦れていた。対話に応じている限りは東郷にリボンを奪われる心配はないものの、いつ話を打ち切られるかもわからない。何か一つでもいいから突破口を見出せないものかと思っているのだが、現状芳しくない。わかるのは己と東郷の力量差ばかり。今こうして殴り合いの体を保っていられるのも、東郷が上手うわてだからだ。赤澤の下手な返球を、東郷が巧みな技術でもって絶妙に打ち返してくれているからこそラリーを続けられているようなものだった。

 とすれば、対話に活路を見出すほかない。

 努力では補えない天性の差があることを赤澤は野球から学んでいた。それが野球をやらない理由や、努力を惜しむ理由にはならかった。だからか、歴然とした実力の差を目の当たりにしてもなお、赤澤はあきらめない。あきらめることなく東郷に立ち向かう。


「自殺をする奴の心を否定しねーけど、だからっつっても、いいことみたいにコウテイもできねー。ただ、自殺した奴が悪いって言われんのは嫌いだ。おりゃあさ、自殺のニュースを知るたンびに思うよ。自分がそうなったっておかしくねーんだって。いじめを苦にした学生だと特にな」

「赤澤さんがそう思うんですか」


 攻撃の手を止めて東郷が言った。思わず本音を漏らしたその様子に、赤澤はシニカルに笑う。


「思いそうもねーってか?」

「赤澤さんがそうなるとは思えません。例えそうなったとしても、やめろときっぱり言えるものかと思いました」

「あー、まぁー、そら言えるかもしんねーけど、言えねーかもしんねーよ? やめろって言ってやむもんでもねーだろうし」

「そうですね。実際そうでした」


 東郷が無表情に答えた。

 攻防の折に見てきた東郷の記憶が、赤澤の脳裏によぎる。「やめて」と抵抗する東郷をあざ笑いながら痛めつける子供達。いじめを増長するように囃す教師。見て見ぬふりをするその他の児童と教員。ありふれたいじめの風景だ。

 本来ならありふれていいはずがない風景は、落とし穴のように日常に潜んでいる。それはいつ、俺自身が落ちないとも限らなかった。赤澤は、自殺を選んだ東郷に全く自分を見ないわけではなかった。


「俺がそうなるとは思えねーっつったけどよ。それこそわっかんねーだろー。返事がねー、ムシした、ノリがわりー、調子のってる、マウントとってくる、キャラ作ってる、うるさい、キモイ、うざい、ブサイク、何となく気に入らねーまで、いじめの理由は何でもありだ」

「油断できませんよね。ちょっとした文句、不満、友達や恋人間での内緒ごともスクリーンショットで簡単にさらされてしまいますから」

「小学生の時点でそれだもんなァ……」

「僕らの暮らしはずいぶん便利ではありましたが、便利であることが等しく幸福であるわけではない。これは他のことにも当てはまりますね」

「金持で金はあっても幸せがあるわけじゃねー、みたいなことか?」

「そういうことです」

「へっへー。コムズカシーお前のおかげで、俺もちったぁカシコクなってんだろー」


 笑いを誘おうとした赤澤に対し、東郷は、


「赤澤さんはもとより、僕より大切なことをたくさん知っている方ですよ」


 とお世辞も媚びへつらいもない、純度100%の誉め言葉を口にした。


「へっ? あ、そらドーモ……」


 運動のことならまだしも、おつむの出来を褒められることがめったにない赤澤は、柄にもなく本気で赤面した。外見が少女であることも相まって初な乙女そのもの。微笑ましく様子を見ていた東郷の頬にも、かすかな赤みが差す。


「話を戻しましょうか」


 そう切り出した東郷の声が、この時を名残惜しんでいるように聞こえた。しかしそれは、自分の思い過ごしだろう。赤澤は邪推を打ち消して頷く。「受けて立つ」


「……ンけどさ、対話とやらに満足したら一、二発殴らせてくんね?」


 片手を口の横に立てて、内緒話をするように頼んだ。口早に「ムテーコーで」と付け足すのを忘れずに。

 年下相手にするこっちゃねーが、そうも言ってらんねー。

 恥も外聞も捨てた赤澤の申し出を、東郷は愛想よく応じた。

 俄然やる気の出た赤澤の鼻っ柱を折る勢いで、東郷が質問と拳を叩き込んでくる。


「自殺した人が悪いと言われることが嫌い。その心を聞かせくれませんか?」


 赤澤は防戦一方の中答える。


「自殺するまで追い込まれた奴を、それ以上追い込むようなことはしたくねーだけだ! 自殺って行動自体は悪いことだとしても、自殺した奴はでも悪人じゃねーだろ!」

「なぜそう思うのか教えてください」

「……フィクションだったけどよ、いじめで自殺したキャラのことを母親がこういったんだ。〈社会に出たらもっとツライことがあるのに〉ってな。俺そん時思ったんだよ。自分がもしいじめられる立場の時に同じこと言われたら、自殺を選んじまうかもしんねーなぁって」

「どうして?」

「現在進行形でツライ思いしてっ奴に、もっとツライことがあるって追い込んでどーんだってんだ! つーかよ、いじめよりツライきょうぐうって中々ねーんじゃね? もしあんならそりゃ犯罪の域に達してんだろ。だっていじめってもう犯罪じゃねーか」


 攻撃の手を緩めつつあった東郷が、完全に手を止めて赤澤に抱き着いてきた。


「お、おぉ? 何の感情の表れだこれ?」

「……約束通り一、二発どうぞ。無抵抗にしていますので」

「いや、スッゲやりづれぇーわ」

「お構いなく」


 東郷は赤澤の腹部に抱き着いているため、両腕は自由に使うことができる。赤澤は一度は腕を振り上げたものの力なく下ろした。手持無沙汰も手伝ってか、赤澤は東郷の白髪をわしゃわしゃと撫でる。


「ぼくがいじめを受けるようになった理由は、同じクラスの男の子からされた嘘の告白を受けたせいでした」


 びくり、と赤澤の手が硬直した。赤澤の内側で一瞬忌避が芽生えた。自分とは異なる性的指向に共感できず、畏怖してしまう。そうした反応が差別意識であることを心得ているため、罪悪感が生じる。

 赤澤の戸惑いを察知した東郷は、赤澤から離れた。


「驚かせてすみません」

「……正直ビビった。けど謝るこたねーよ」


 困ったような笑みを浮かべる東郷に、赤澤がそう言った。


「オトコが好きなのか?」

「そうとも言えました。男女ともに惹かれる部分があって、自分が男性と女性のどちらに性的指向を持つのか、どちらにも持つのか、判別する前に死んでしまいました」

「そうか」

「死んでよかったんです。自分でも知りたくなかったから。だってそうですよ。同性の告白を受けたことを散々否定されて、暴言と暴力を浴びせられ、助けを求めた父親には拒絶されたんですよ。別に僕が選んだことじゃなかったです、異性と同性の両方に惹かれる僕を。異性が異性を好きになるのと同じくらい自然に、生まれ持ったものだった。それが間違っていると言われるなら生まれたくなんかなかっ――」

「間違っちゃねーよ!」


 赤澤は大声を出した。いてもたってもいられなかった。自分の早逝を肯定せざる得ない東郷の境遇に憤っていた。


「お前は間違っちゃねー! お前がオトコをスキんなっても、オンナをスキんなっても、それは暴言や暴力を浴びせていい理由にはなんねーんだ」

「……そうですかね」


 東郷は自分の性的指向を素直に肯定できない。東郷を取り巻く環境がそうさせたのだ。


「回転ずしで置きかえてみろよ! すしが異性愛、サイドメニューのポテトフライやらデザートのケーキやらが同性愛とすんだろ? どっちを食おうが自由じゃねーか! きちんと金払って店のマナーを守ってりゃ、誰にもモンク言われる筋合いねーんだ! そうだろ⁉」


 赤澤は東郷の両肩を持って力説した。赤澤の熱に気圧され、きょとんとしていた東郷だが、顔をくしゃっと顔をゆがめ、泣き笑いの笑顔を見せた。


「ありがとうっ」


 ようやく見せた年ソウオウの表情がこれか、と赤澤の胸が痛んだ。東郷は生物の生誕と生存を呪いと断じた。しかしそれこそが東郷にかけられた本当の呪いではないか。


 ――だとしたら?


 痛む胸を押さえて赤澤は思う。


 ――おりゃ、こいつの力になりてぇな。


 芽生えた気持ちがヒマワリのように大きく上を向いて咲く。腹を括った赤澤は行動に移す。


「オヤジさんのキョゼツが理由か? 自殺も、生まれねーことが幸せっつー考えも」

「お前なんか俺の息子じゃない、死ね、そう言われました。母も父のいいなりでした。小学生の僕にとって、世界も同然だった両親と小学校との二段構えでの拒絶です。その絶望は髪を白髪に変えるのにも、自殺するのにも十分事足りていました。誕生不幸説は経験を踏まえて出した答えです」


 言い終わると同時に、東郷が手を差し出した。


「赤澤さん。僕は貴方の人間性が好きです。対話を通して触れた貴方の人生観と人柄に親愛を覚えています。けれどあの世界は、そんな貴方を死にいたらしめました。そんなところへ生れ落ちることは不幸以外の何ものでもないと思いませんか?」

 同意を求めて開かれた東郷の手。赤澤は自らの手と一緒に、巻かれていたリボンの端を乗せる。もう一方の手を使い、リボンを東郷の手に握らせる。

「不幸かもしれない。けど、不幸に生まれても誰も不幸を目指そうなんて思っちゃいない。幸せを目指して人は生きる。俺とお前は不幸で、だから死んだんじゃない。幸せを目指してる途中で死んだんだ。俺達は幸せになろうとすることのできる生きもんなんだよ」


 ――だから、生きてくれ。


 祈りを込めて、赤澤は黄色いリボンを手放した。リボンの端を東郷に持たせたまま解き放った。

 勝敗が決した。


「赤澤さん……⁉」


 信じられないといった面持ちで東郷が赤澤を凝視する。大きく揺れる瞳と、震える口が驚愕の度合いを表していた。

 対する赤澤は、太陽のようにまぶしい笑顔を咲かせていた。


「わりー。でも、もう一度生きてみてくれよ。お前が受けた仕打ちばっかりが人生じゃねーんだ。やめないでくれよ、生きることを。お前はムツカシイ野郎だけど、心にヒマワリがある。そういう奴は幸せんなれる。幸せになっていいんだ。だって俺達は、幸せになろうとすることのできる生きもんなんだからよ」


 もうじき消える。予感を覚えた赤澤は最後に言い募る。


「繰り返すぞ! 俺達は幸せになろうとすることのできる生きもんだ! 忘れんなよ! あとはー……いつでも、心にヒマワリを咲かせろ!」


 ニッコリと笑った後、赤澤の体が煙のように消えた。入れ替わるように、煙の中から何かが飛び出した。

 その何かとは真っ白な小鳥だった。

 空に向かって羽ばたく小鳥を迎え入れるように雨雲が散り、薄日が差す。真っ白な小鳥は光の柱を突き進み、あっという間に見えなくなった。


「生まれ変わりおめでとうございます、赤澤さん。ありがとうございました」


 小鳥の旅立ちを見送って、東郷が丁寧にお辞儀をした。

 小鳥は、仮の肉体から解き放たれた赤澤の魂だった。

 赤澤の旅立ちから送れること数分、赤澤の乗ってきた電車が発車した。スカイブルーの車体が流れるように遠ざかっていく。

 東郷の乗ってきた電車は依然として走り出す気配はない。その代わりドアが開いた。

 昇降口から現れたのは、スモッグを身にまとった子供。


「お疲れ様でございました、東郷さま」


 かしこまった口調、モノクロで統一された出で立ち、おかっぱ髪。見間違えようもない。赤澤の案内役を務めた死に神だった。


「君もね、死に神。案内役ご苦労さま」


 東郷は特段驚くこともなく死に神の登場を受け入れた。日常を送るような、自然な態度だった。


 ――赤澤さん、この場に貴方がいたら、さぞや怪訝な顔をしたでしょうね。


 胸の中で語りかけた東郷は空をあおぐ。再び垂れ込めた雨雲が薄日を遮りつつあった。

 東郷は今度は声に出して語りかけた。


「いざ生まれ変わるため、リボン(Re born)を掴め……というのはね、赤澤さん、方便なんですよ。生まれ変わりの権利は、死した全ての人間に与えられています。ところが、強い負の感情を持つ者は前世に囚われてしまい、中々生まれ変わろうとしません。彼らは総じて、望まぬ死を迎えた者ばかり。それを発散させる目的で、リボンを奪い合う勝負が行われているんです。勝敗に関係なく、負の感情を晴らせた者は生まれ変わることができます」


 赤澤への感謝を込めて、東郷は更に語りかけた。


「赤澤さん。貴方はこれから生まれ変わり、新たな生を得るんです。貴方もまた、どうか今度の人生では、そのかけがえのない命が不当に奪われることのないよう、ここでお祈りしています」


 両手を組んで一心に祈りをささげた。初めて勝負の相手を見送った時から毎回、東郷は祈りを欠かさずにいる。

 そんな東郷の祈りが済むのを待って、死に神が話しかけた。


「東郷さまが電車を見送られるのは、かれこれ十五回目でございますね」

「そうだね」


 弔辞を述べるような口調で東郷が諳んじた。


「最初の相手は、アルバイトからの帰り道、強盗に撲殺されたDさん。その次が、不良仲間による集団暴行を受けたBさん。クラスでいじめに遭い、クラスメイトの男子二人に凌辱を受け自殺したWさん」


 そこまで言うと東郷は一度言葉を切った。 そして、思い出し笑いならぬ、思い出し苦笑いをする。


「僕が勝負の真意は別にあるのでは、と怪しんだのはWさんの後だったね。一度きりと説明された勝負だったにもかかわらず、敗者復活戦が二回も続けられれば、さすがに怪しんじゃうよね」

「無理がございましたね。何分、生まれ変わりのチャンスが一度しか与えられないと知ると、どなたさまも皆、ご自身の内に秘めた一切合切を吐き出されていたものでございまして。まさか、そのぉう……」


 眉を八の字にした死に神が口ごもった。すかさず東郷が続く言葉を引き継ぐ。


「まさか、三度の勝負を終えてもなお、負の感情を晴らせないこじらせた人間がいるとは想定外でございました?」

「え、えへへへへへ~」


 愛想笑いでお茶を濁した。これはもう認めたようなものだが、追及しては不憫だ。それに自身の首を絞めることになる。

 東郷は片目を閉じて謝罪を口にした。


「僕も悪いと思ってるんだよ」

「それはもちろん存じてございますとも! ご自身の負の感情を晴らせない代わりに、せめて対戦相手の負の感情を晴らせるようにと、時に愛らしく、時に無関心に、時にシニカルにと、それはもう懸命に働きかけていただいています!」

「ありがとう。働きかけができたのは、実質四戦目からだけどね」


 東郷は再び弔辞を述べるような口調に戻し、中断していた続きを諳んじる。


「アイドル活動中、ストーカーに刺殺されたYさん」


 ――押し入り強盗に一家もろとも惨殺されたGさん。

 ――家出中に声をかけてきた中年男性に監禁殺害されたOさん。

 ――意中の教師を巡って同級生と刃傷沙汰になり、頭部を強打して死亡したMさん。

 ――ショッピングモール内で起こった無差別殺傷の唯一の死亡者だったTさん。

 ――遊泳禁止とされている河川で溺死したEさん。

 ――子供を庇って車にひかれたSさん。

 ――塾の帰りに拉致され、絞殺されたIさん。

 ――柔道部の行き過ぎた指導、いわゆるしごきの最中に頭部を殴打されたKさん。

 ――自動二輪の二人乗りで事故を起こしたHさん。


 それから、と言ったところで東郷は奥歯を噛みしめる。顔に浮かぶ哀惜の念が一層強くなった。


「義父の虐待と実母のネグレクトで衰弱死したJさんが、赤澤さんの一つ前だった」


 既に知れていることだが、勝負時、対戦相手同士が接触することで互いの記憶を垣間見てしまう。

望まぬ死を迎えた者達の記憶だけあって凄惨なものが多かったが、とりわけJの記憶は東郷にとって骨身にこたえた。十五名の中では最年少であり、目にしてから間もないことも相まっているのだろう。

 東郷の心中を察した死に神が、暗く沈んだ気分を持ち直そうと水を向ける。


「赤澤さまとの勝負はいかかでございましたか?」

「……とても楽しかったよ。赤澤さんみたいに明るく前向きなパワーに溢れた人との対話はかけがえのない時間だね。大切な言葉をたくさんもらうことができた」


 笑顔を取り戻して、東郷が力強く答えた。それも束の間のことで、バツが悪そうに言い足す。


「勝負の趣旨からずれてしまって、君には申し訳ないけれど」

「いえいえ、そんなことはございません。赤澤さまが負の感情から解き放たれ、無事生まれ変われるのも、東郷さまの助力のたまものでございますよ」

「疑問だったのだけど、赤澤さんに負の感情なんてあったのかな?」

「……ございました。生まれ変わりを願う心の底の部分に。赤澤さま本人は自覚しておりませんでしたが、ご自身の命を奪った相手への恨みがあったのでございます」

「無理もない。自覚してないということは頭では許していたんだよ。心の奥底に恨みが巣くっていたって、それは無理もないことだよ」

「ええ。しかしそれも、東郷さまに勝利をゆずった時点で晴れたのでございます」

「うん」


 強く頷いた東郷は思っていた。


 ――それは僕の心にも言えることかもしれない。


 黄色いリボンを解き放った時の赤澤のあの笑顔に、東郷は満開のヒマワリを手渡された心地だった。

 そしてヒマワリは、東郷の心に根を張った。

 東郷は考える。僕はまだあの空へ羽ばたけていない。それは僕がまだ負の感情を晴らせていないからだ。赤澤さんがくれた金言の数々を僕の頭は受け入れていても、僕の心が受け入れてないんだろう。生まれることと生まれないことの、いったいどちらが不幸なのだろう。そう考えた時、僕はやっぱり生まれることが不幸だと思ってしまうんだ。

 けれども、と東郷は続けて考える。勝負を通し、理不尽に命を奪われた人達と触れ合い、負の感情を晴らす姿を見届けることで、僕は少しずつ自分の負の感情を晴らせている。

 東郷は赤澤から言われた言葉を思い返す。


「――もう一度生きてくれよ、か。ありがとうございます、赤澤さん。そしてすみません。僕はもう少しここで生きてみます」


 ささやいた声は、今しがた振り始めた雨にかき消された。

 死に神が電車に乗り込みながら東郷を呼ぶ。


「東郷さまー! そろそろ次の停車場へ向かうでございまーす!」


 望まぬ死を迎える若者の何と多いことだろう。嘆き、俯きかけた東郷の心でヒマワリが叫ぶ。


〝いつでも、心にヒマワリを咲かせろ!〟


「っ……はい!」


 東郷は顔を上げ、死に神に手を上げて応えながら電車に飛び乗った。


〝俺達は幸せになろうとすることのできる生きもんだ! 忘れんなよ!〟


 その言葉に背中を押されながら。




了 


ご覧いただきありがとうございました。

この話は本来、長編での応募を考えていました。ラストのシーンにて凄惨な死を迎えた人達が紹介されるのは、彼ら彼女らが元々はこの話の登場人物だったからです。

きちんとした名前(といっても苗字ですが)がありましたが、同じ苗字の方がいたら不快になるかなと思い、あのような形にしました。

なぜ短編で済ませたかといいますと、私の手に余るからでした。

編集部からいただいた講評シートにて、きっちりとその辺の甘さを指摘されてしまいました。

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