麒淵③―歴史の裏に隠された、桃源郷の真意―
「あぁ、お前か。まて」
空間魔道を抜けた直後、麒淵が踵を返した。ゆっくりと階段をあがる紺樹に向かって飛んできた。
麒淵の右手に浮かぶ光の珠を見て、紺樹はすぅっと息を吸い込んで吐いた。ゆっくりと、全身の二酸化炭素を吐き出すように、循環する酸素ごと変えるように。
そうして瞼をあげたのは、いつもの『魔道府の次席副長』である顔した彼だった。
飄飄とした表情に読めない口元。そこが愉快そうな形に変わり、しゃんと背が伸びる。襟元を崩し、呆れたような仕草を加えれば完璧に紺樹副長のできあがりだ。
「これは我が主である魔道府長官殿。良いのですか? こんな時期に心葉堂の守霊と直接連絡をとるなど。勇み足はなさらぬようにと申し上げたはずですが」
髪を掻き上げた奥にあるのは、余裕たっぷりに微笑み。見ようによっては牽制が含まれている。
麒淵は一瞬だけぽかんとしたが、腹を抱えて笑い出した。ツボにはまったのかくるくると回転している。
「あぅあぅ。勇み足ではないのです! そろそろ、紺樹の方も首尾よく運んでいるかと思いまして。真赭と浅葱が紅の失踪を伝えに来てくれたのです」
「えぇ。そうですね。恐らく……もう動けるでしょう。白龍師傅からの連絡は?」
「それはまだなのです。けれど、白は約束の時刻までに必ず戻ってくるのです」
辿々しかった長官の声が、しっかりとしたモノに変る。それを合図に、紺樹が纏う空気もまた変わる。今度はびりっとした緊張感を纏ったのだ。
紺樹は階段を踏む速度をあげていく。石階段と岩肌の空間に反響した音が、やけに大きい。
「先ほど、真赭と浅葱を心葉堂に戻らせたのです。便宜上の手紙を持たせて。馬車を遣わせているのでさほど時間に猶予はありませんが、準備を進めてくださいなのです」
「それは滞りなく。あとは蒼の気持ちの問題ですから。そちらも大方かたがついているかと」
きっぱりと言い切った紺樹に対して、長官は何も応えなかった。紺樹も特に何も問いかけない。魔道の向こう、長官がものすごく渋い顔をしているかは想像に難くない。
「問題は紅じゃな。あの子は自分の出生のことがある故に、潔癖で生真面目なところ所がある。非常に強い意志を持っている反面、危うさもあるからのう」
「だからこそ問題ない」
紺樹と魔道府長官の声が重なった。
断言されたことに麒淵は少なからず驚いた。そうして、次の言葉が容易に浮かんできて、先に大笑いしてしまった。
「そうじゃな」
紅を奮い立たせるのは単なる家族愛ではない。多少歪んでいて根深い。
だからこそ萌黄に同情せず、華憐堂の店主に臆さずに守りたいものを盾となって立ち向かう。
「紅は自分が守るべきものを知り、切り捨てるものを理解している。蒼はそんな紅が切り捨てるものを恐れ、零れ落ちるのを両手で受け止めようとする」
紺樹の呟きに麒淵が大きく頭を振った。
それは否定の仕草ではないと紺樹は知っている。それを口にした紺樹にえも言われぬ感情を抱いたのだ。
「麒淵は、すべて必然だと思いますか? あの状態にまでなった華憐堂が訪れたのが、心葉堂のあるクコ皇国だったことを」
辿々しさのない声は、それでも確かに魔道府長官のものだった。甘い音程はそのままに、凛と、けれど泣きそうな湿っぽさがある。
紺樹は長官のこんな様子は初めてみた。
後ろに控えているのだろう。翡翠双子が息を飲むのが聞こえた。
「しらんわ」
清々しい返事が階段に響き渡った。麒淵は宙であぐらを掻き、あっけらかんとした表情をしているではないか。
長官さえ麒淵からこんな回答が返ってくると予想していなかったのだろう。光の玉の向こうで絶句している長官の姿が容易に想像できる空気が漂う。
「人の心など一番わからんし、運命なんてものは聖樹でも知り得ぬものだ」
「……なのですね」
「だが、わしは心葉堂の守霊として、第一にこの心葉堂に害を及ぼすものは捨て置けん。あとは、そうさのう。萌黄の中身の想いを知りたい。それが今回手を貸した二番目の理由じゃて。他は白やおんしが考えることじゃろ?」
「実に麒淵らしい理由ですね」
副長の口調で紺樹が噴き出した。
光の玉から「そっそういうもんかいな」と陰翡の戸惑った声が聞こえてきた。陽翠は「おっしゃる通りです」と納得しつつも、守霊の堂々とした主張にやはり困惑しているのがわかった。
(麒淵らしい。それは人に似ているが、あくまでも守霊であるがゆえの加勢理由だ。しかし、『心葉堂』と表現したからには、国も守るという意味も含まれているのだろうな。でなければ、名前を呼んでいるはずだ)
この心葉堂という存在を守るという意味。それが存在するための現状を維持――つまりはクコ皇国の首都を守る必要がある。
先々代の白龍に似て、麒淵も随分と捻くれた表現をするものだ。紺樹と魔道府長官は静かに笑った。
「では、また後ほど」
通信が切れてからもしばらく、紺樹の靴音だけが鳴り続けた。
「やっと蔵に出るか。あの暗さだと、まだ雨はひどいんだろうな」
頭上に光りがみえ、地上が近くなったのを知る。四角い降り口から漏れてくる明かりは、ここに入る頃と同じだ。
木の床に手をつき、地上に出ると案の定鼻先をくすぐったのは雨の香りだった。雨に濡れているからだろう。庭の藤の花はいつもより強い香りを漂わせている。
「のう、紺樹よ。先ほど昔話をした理由じゃがな」
今度は木の床を鳴らし重い扉を押したことろで、麒淵がおもむろに口を開いた。
蔵の外、軒下の濡れない場所にかけていた雨具を羽織り、紺樹は
「なんだ、教えるつもりはあったのか」
と意地悪な笑みを浮かべた。
「先ほどは、今回の件に手を貸した理由を二つ述べた。それに、おぬし尋ねたな。黒龍が桃源郷の名を背負い、手を貸している裏を」
紺樹の横に並んだ麒淵。大きな深緑色の瞳が透明度を増している。
「強制はできぬ。が、可能な限りこれは紅暁や蒼月、それに他の者には言わんで欲しい」
「……麒淵が望むなら。けれど、確約はできない。魔道府の人間として」
「長官に尋ねられたという意味なら心配はいらんよ。ホーラは承知の上じゃ」
麒淵が長官の名を呼ぶ機会が少ない訳ではない。けれど、この瞬間ではどう考えても意図があるとしか思えなかった。
だから紺樹は激しく土や葉を打つ雨に忍ばせて、誓いの言葉を紡いだ。緘黙の誓いを。
唇の動きをいったん止めて、紺樹は麒淵を見据える。そんな紺樹に麒淵は真剣な眼差しで応えた。
「此度の件、桃源郷はだれよりも責を負う必要があるのだ。だから、黒龍は先祖の業を拭うために動いておる」
「それは、聖樹の民という意味か?」
紺樹も承知のうえで尋ねた。麒淵の重々しい口調からそんなありきたりの意図とは異なるのは。言い淀む麒淵の背中を押す意味で、あえて否定されるであろう要因をあげたのだ。
案の定、麒淵は緩く頭を振った。
「この不完全な反魂の術を生み出しのは、他のだれでもなく始まりの一族なのじゃよ」
紺樹は驚きのあまり小さく目を見開いた。
小さく、というのは材料としては頭の隅にあったからだ。あくまで可能性のひとつとして。
「当の昔から把握しておるのだよ、桃源郷は」
「……そもそも溜まりを利用した大がかりの術に、始まりの一族の知識が反映されていないと考える方が難しいだろうな」
「うむ。そして、華憐堂も幾度も術を繰り返して居るが、それ以外にも数度、反魂の術が発動し、その度溜まりが枯れ、気が遠くなる時間をかけて新しい溜まりが生まれるのも」
今度こそ、紺樹があっけにとられてしまった。
紺樹が桃源郷にいた時間は短い。人間でいうなら五・六歳ほどまでだ。
だが、任務を請け負っている以上、様々な情報を与えられている方ではある。それでも末端の情報だけなのは承知していた。
「なにより、見逃してきたのだ。むしろ、術の情報をあえて外界に残してきた」
そして、紺樹はさらなる衝撃を受けた。
「あえて残して、きただって?」
「あぁ。そして、彼らは『動く標本』――つまりは術を受けた者を回収し、桃源郷に閉じ込めた」
今後こそ、紺樹は絶句した。
「ゆえに、術自体は術者や関係者によって世に残され、伝説として受け継がれていたのじゃ」
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紺樹が動けるようになったのは、近くで雷が鳴ってからだった。
「始まりの一族は純粋に聖樹の願いを広め、アゥマのことを――」
紺樹は叫びかけて口を覆った。
そう、始まりの一族は『純粋』に聖樹の願いを広め、『アゥマのこと』を考えてきた。
人のためというのは、つまり、人間の勘違い。
『聖樹』が救いたかったのは、あくまでも『世界』と『生命』。別に人間だけを救おうとしたのではない。
「反魂の術も、聖樹の願いから生まれたとも言えるな。じゃが、それは聖樹が望む完全な形で成功せなんだ」
「だから……」
「そう。じゃから、始まりの一族は反魂の術の精度を高めるのを諦め、より生命のためになるアゥマを作る溜まりを生み出すことに、思考を移行したのだよ。これもまた、聖樹の願いゆえに」
紺樹は吹き込んでくる雨に打たれながら、間抜け面で口を開け立ち竦む。
呆然と紺桔梗の目をしばたかせている紺樹。白い息がしっきりなしに吐き出されている。
「精度を高めるのを、だって?」
麒淵は思うのだ。蒼が両親の死に対して向き合う必要があるように、紺樹も真相を知った上で最終局面に向かうべきだと。
それがきっと紺樹を、ひいては紺樹がなくしたくない人を守ることになるだろうから。
「それは、つまり」
戦場とも言える場面においては、一瞬の怯みや戸惑いが命にかかわる。今ならいくらでも動揺も困惑もして良い。
だから、麒淵はじっと待った。紺樹自身が次の言葉を口にするのを。
「反魂の術をただのすべとして、溜まりを……間引いていたということか?」
間引くとは、現代においては植物を栽培する際に、少数の苗を残して残りを抜いてしまう作業を意味する。
つまりは、増えすぎたものを人為的に減らすのだ。
それによって、残った苗はより強く、より良いものとなる。
「間引きを繰り返させることで、周囲の溜まりがより強く、より濃くなる。そのために、小さい溜まりを糧として生きていた命を消したのか?」
消した、という表現は正確ではない。
(守霊の表現を使うなら『取り込まれた』が一番しっくりくるじゃろう)
けれど、人間と濃い関係を築いてきた麒淵には、紺樹に訂正を入れるに正しくないことだとわかる。
人にとっては確かに『消えた』のだから。
「術を施行させ、絶望と犠牲を背負わせ。それでも、より強いアゥマを持つ溜まりを生むために、人の願いを利用してきたと! 守霊を犠牲にしてきたと! そして、あわよくば反魂の術の精度もあがればとでも思っていたのか⁉」
紺樹の叫びは、鳥の鳴き声と雷に掻き消された。まるで、何かの意思の元そうなったかのように。激しさを増した雨の中、紺樹は全身を強ばらせるしかなかった。
がちがちと鳴る歯は唇を切る。きつく握りすぎた手からも赤い筋が落ちている。でも、痛みは感じない。
「純粋すぎる想いは、だれかを傷つける武器でしかないのだよ」
麒淵はすいっと先に進む。やはり、通り過ぎざまに紺樹の頭をひとなで、ふたなでして。
蔵から住居への道は雨どいなどはない。麒淵も紺樹もあっという間にずぶぬれになった。
「じゃがな。傷ついた心を撫でてくれるのも、また、純粋な想いなのだよ。この世はなんとも理不尽でこまる」
ちっとも困った調子のない声で笑った麒淵。
「まったく、この局面で価値観が崩壊するような情報をぶっこんでくるなよ」
「それは、まぁ、なんというか、若干すまんとは思うておる」
麒淵が本当に申し訳なさそうに、頭を掻いた。
だから紺樹も足を進める。視線は地面を睨んだままだったけれど、大丈夫だと思った。
(雨の中、一人で感覚も拒否して止まっていた十年前の自分とは違う。麒淵の言葉が含む色はわからなくても考えたいと思える。なにより、自分が守るべき確固たる存在がいる)
だから、紺樹は寒さに震える腕を摩った。
「まったく。蒼を前に上手く笑えなかったら、麒淵のせいにするからな」
「さもありなん」
それからどれほどの時間が過ぎてからだろうか。
紺樹は魔道府に戻り、蒼と麒淵は溜まりに潜り、そして紅は――狂った萌黄を前に命の危機をむかえることになる。




