紺樹と蒼①―可愛くてしかたがない―
キィィと心葉堂の扉が軋む。いつもならゆっくりと開ける扉を、紺樹が急いて押したせいだ。
紺樹は心葉堂の解錠魔道の呪文を教えられている。居住空間のある裏門よりも、店の方が表通りに近い。そのため、蒼を雨のない場所に連れてくるのに都合が良かったのだ。
「さすが心葉堂ですね。休業していても、しっかりと温度管理やアゥマの調整がされています」
紺樹が掌を入り口すぐにある角灯に向けて手をかざす。桜をあしらったガラスの内側に、ぽっと明かりが灯った。
それを合図に、店内のいくつかの角灯もあたたかく色づいていく。これで躓かない程度には歩ける。
「店の床を濡らしてしまうのは申し訳ないですが、今は私も蒼もずぶ濡れですから。紅には後できちんと謝りましょう。まぁ、元は蒼に黙って外泊なんてしている紅が原因ですけど」
紺樹の言葉に、俯いている蒼の体がぴくりと反応した。
きっといつもの蒼なら『本当だよ! でも紅だって大人なんだし、でもでもさ、心配はするよね!』と怒りながら心配して、紺樹に同意を求めてきただろう。
(先ほど、蒼は紅の失踪について、あからさまな可能性を言葉にしなかった)
突然の失踪ならともかく、心葉堂が休業状態の時期に白龍が旅に出て、紅が魔道府に呼び出された直後の出来事だ。
(蒼も、紅の失踪の裏になんらかの意味を察しているのだろう)
だから、蒼は紺樹に抱きついてきた時、紅がいなくなったという事実だけを訴えたのだろう。
幼馴染たちはともかく、どこでだれが聞き耳を立てているかわからないから。
紺樹は蒼の手を握っている左手に力を込める。
「もちろん、蒼も一緒にお願いしますね? 私だけだと確実に軽く二週間は出禁にされてしまいます」
あいた手で、蒼の頭を軽く撫でる。その拍子に、頭からかけてやっていた紺樹の雨具がずり落ちた。
いつもの蒼なら、人様の雨具を汚してしまうと慌てて拾い上げるところだろう。
けれど、蒼は俯いたまま、全身から雨滴を床に落とし続け微動にしない。
「雨具をここで干すわけにもいかないので、住居空間の方に移動しましょう」
むろん、紺樹にとっては雨具なんてどうでもいいし、蒼の様子の方が気がかりだ。
とはいえ、どちらかと言わなくとも紺樹自身、蒼の首筋を流れる雫に波打った喉を誤魔化すことに必死だった。
「おっと。雷も鳴り始めましたね」
人知れずあがる体温を誤魔化すための言葉だったが、実際、硝子窓の向こうでは激しい雨音が聞こえ始めてきた。
静まりかえって温度のない店内には、殊更響く。雷も紺樹の声も。
「蒼、大丈夫……ではないと思いますが、まずは蒼の体が心配です」
紺樹が身をかがめて、俯いている蒼の顔を覗き込む。けれど、蒼はじっと立っているだけだ。いつも何かしらの感情を見せる蒼が。
それだけ、今の蒼にとって紅の失踪はこたえているのだろうと、想像にかたくない。
「蒼」
うさぎの耳のようにくくられた長い髪を手の甲でよける。それでも、見えたのは虚ろで、それこそうさぎのようも真っ赤になった瞳だった。痛々しい染まり具合に、紺樹の胸ははりさけるように痛んだ。
それでも、紺樹の顔は穏やかな笑みを乗せたままだ。
「蒼、ひとまず風呂に入ってきなさい。一体どれだけ雨の中歩き回っていたら、こんな状態になるんだか」
紺樹が繋いでいる手を離そうとすると、蒼は音をたてて顔をあげた。
「――っ!」
言葉なく紺樹を見上げる目には、めいっぱい涙がたまっている。
それだけで、紺樹の胸は大きく跳ねた。縋るような視線と甘えるように握られる手。それに反するように、決定的に甘える言葉を出せずただ震える青い唇。
「蒼――」
紺樹が思わず魔道府副長の仮面をはがした声色で名を呼んだ瞬間、蒼はひしと抱きついた。
片手は繋いだまま、もう片方の手が必死に紺樹の背中を掴んだ。それだけでも、蒼が震えているのが伝わってきた。ふわりと丸い後頭部を撫でると、蒼はしゃくりあげはじめた。
「こん、くん。おじいは、旅にでてるの。それで、私、紅とふたりで。お店、しめてても、紅と頑張るって。でも、昨日、魔道府に行くって言って出かけてから、紅が、かえってこなくて、さがしてもいなくて。ぜんぜん、みつからなくって」
紺樹が触れるたび、蒼はぼろぼろと涙を零し始めた。
「わっわたしの、せいなんだよ。先日の、華憐堂での件で、暴漢に襲われたのかも、しれなくって。わたしのせいで、魔道府の仕事の邪魔、しちゃって。魔道府のみんなにも、迷惑をかけちゃって。なのに、わたしは、たすけてもらって」
蒼は堰を切ったように話し始めた。
(魔道府も武道府も不安定な気候とアゥマの状態から、街の見回りを強化している。そんな状況で紅が姿をくらましたのは、魔道府の計算のうちだ。もちろん、萌黄が関与しているからすぐに命の危険がないという確信があり、所在を把握しているから。そして――)
華憐堂を追い詰める最後の欠片が揃った。もちろん、蒼に教えることはできない作戦内容だ。
なにより、これから紺樹は現状を利用して、蒼を一番危険な場所に誘導するために心葉堂を訪れた。
この世で一番大切な存在を、己の存在意義である本来の使命を遂行するために良いように使う。
(罪悪感なんてものが、まだ俺にも残っていたのか)
紺樹は心の中で吐き捨てた。自己嫌悪が込み上げてくると同時、蒼の鼻を啜る音でそんなものはどうでもよくなってしまう。
縋ってくる柔らかい存在を片腕で遠慮なく抱きかかえて、擦り寄った。
「少なくとも、蒼を始めとした心葉堂をよく知る者は、心葉堂の水のせいで萌黄さんが怪我をしたなんて思っていませんよ」
在り来たりな言葉が良くなかったのか。蒼は音を立てて、紺樹から離れてしまった。
紺樹を見上げる目に責める色はない。ただ、自分を責めるように潤んでいる。
「みんな、そうやって庇ってくれる。でも、私がかけたうちの溜まりの水が萌黄さんに火傷を負わせたのは事実なんだよ」
紺樹は蒼が言わんとしていることが手に取るようにわかってしまう。庇う人間を無責任だと責めているのでも、事実を無責任に否定するなと自暴自棄になっているので、ない。
紺樹は自分の両手に何度か息を吹きかける。
蒼は不思議そうに首を傾げている。そして、紺樹は若干冷えがやわらいだ手で、そっと蒼の頬を包み込んだ。あまりの冷たさに、指先にぴりっと痺れが走った。
「魔道府の検査も通っているのに、という点を気にしてるのですね」
蒼は牡丹色の目をめいいっぱい満月にした。元から大きな目は紺樹を吸い込んでしまいそうなほどに見開いている。
「それぐらい、すぐわかる」
紺樹はそっと額をこすりつけた。自分がこっそりと印としてつけた守護魔道陣。それが残っているのを感じて、胸の奥が熱くなっていく。
華憐堂対策でつけた印だ。
麒淵は察していただろうし、実際に発動も感知していたので蒼も把握しているだろう。
(それにも関わらず、守護魔道とはいえ得体の知れない印を残したままにしてくれている蒼)
脳が焦げるような高揚感と、今の立ち位置に胸を抉られる。
「心葉堂のせいで、魔道府さえも不正を働いていると思われるのが、辛かった。麒淵の能力を疑われて、白龍師傅のフーシオとしての立場も政治的なものだと罵られ、紅の魔道府入府されも不正があったのではと疑われた」
「ぜっぜんぶ、わたしのせいだって。でもね、それよりも、もっとちいさいの、わたし。いま、こわいって、紺君にすがっちゃってるのは、もっと自分本位なの」
ごめんなさいと謝る蒼に、紺樹はやっと本音を口にしてくれたと苦笑した。
「意地の悪い誘導した。ごめん。でも、蒼はむかしっからこうやって果物の皮をむくようにしていかないと、一番辛い本音は零さないからさ。猪突猛進なくせに、俺にはちゃんと大事なところは教えてくれるのに。心葉堂の茶師としてだけみたいな言葉ばかり口にするから、拗ねた」
紺樹は昔のように、ぎこちなく笑っていた。意図せずに。
はっと口を押えた紺樹。
取り繕うとした紺樹だが、目が合った蒼はみるみる間に表情を崩していった。
「まっ街で怖い顔で近づいてくる人たちがいたの。内緒話も聞こえたの。石みたいなのなげられたの。それはまだよくって。おっおそわれそうに、なって。魔道を発動するよゆうもなくって、あんな目も手つきも、すごくこわくって」
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を必死に手の甲で拭う蒼。
しゃくりあげるたび、肩に乗る髪がはらはらと滑っていく。
「手付きって、触られたのか?」
紺樹の顔から表情が消えた。
「手首を、おさえつけられて、太ももをちょっと」
なぜ魔道を発動しなかったのか、などとは紺樹も尋ねない。蒼は学院時代も演習で優秀な成績を残しているが、それはあくまでも対異形であり、人間に対しては模擬試合などでしか経験のみだ。躊躇いの一瞬をつかれたのだろうと、容易に想像ができる。
「あしを、ちょっと。つまりはちょっとでも触られたと」
蒼は裾をひっぱって、紺樹から目を逸らした。紺樹の内心に鬼が降臨した。
「ゆっ雄黄さんと彼女さんが、すぐに助けてくれたよ。じゃなくて、私はいいの。でも、だから、紅だって危険な目にあっているかもって。おにいちゃん、もっとひどいめに、あってるかもって思ったら、わたしの、せいなのにって。おにいちゃんは、なんにも悪くないのに」
もう言葉にならない呟きを零し続ける蒼。
そんな蒼を抱きしめながら、紺樹は誓った。
(翁の陰や魔道府の護衛も決定的な事案にならない限り、手は出せない。だとしても、任務が落ち着いたら、そいつら全員ぶっころす。陰から情報は得られる)
蒼の頬を撫でると、蒼はおとなしくすり寄ってきた。その拍子に目尻から溢れた涙が、紺樹の手を濡らす。そのまま紺樹の手に自分のソレをそえて、深く息を吐いた。
(親友たちの前とはいえ、我慢していたのだろう)
そして、自分の前ではありのままの姿を見せてくれる蒼が、紺樹は愛おしくしかたがなかった。紺樹としては不本意に副長の仮面が剥がれた直後というのも、嬉しくて堪らない。
案外真面目な蘇芳が耳にすれば、『不謹慎だぞ』と叱られる自覚はあるが。
「大丈夫。紅は絶対見つける」
紺樹はずっと過保護な程に蒼を守っていた。それこそ出会った蒼が六歳程の頃から。
けれど、蒼が修行に出ている間に、紺樹は自分の出生を思い出してしまった。それからは、紺樹は蒼に抱いていた想いを封印することにした。
(それでも、俺は蒼が大切なことに一片の揺らぎもない)
ただひたすらに自分を求めて縋る蒼。紺樹は彼女の震える背を撫で、囁く。
「紅は失踪直前、魔道府長官に呼ばれていた。姿を現さなかった紅の捜索はすでに始めている。白磁副長が指揮をとっているから、見つかるのも時間の問題だろう。双子もかなり気合を入れているしな」
「本当にっ⁉」
一気に蒼の血色が戻っていく。
「あぁ。それに俺だって師傅不在の心葉堂を守るために来たんだ。しばらくは一緒にいられる。なんなら、蒼が望むなら一晩中側にいるよ」
蒼の頬を撫で笑う紺樹。口調は幼馴染みのまま、顔には蒼や紅に胡散臭いと言われる笑顔を貼り付けて。
紺樹の計算では『紺君、曲がりなりにも女性に対して失礼だよ!』と蒼が諫めてくれる予定だった。が、当の蒼は顔をぱぁっと明るくして見上げてきたではないか。
「本当に? 紺君、一緒にいてくれる? お仕事忙しいのに、大丈夫なの? って、お仕事か」
蒼が紅や紺樹以外に我が儘を言うことは珍しい。
最近で言えば、紺樹だって言われない側の人間だった。蒼は紺樹の前では凛と大人ぶろうとしていることが多い。
「もちろんだ」
気がつくと、紺樹は自然と蒼の額に自分のものを擦りつけていた。寒くてしょうがないのに、蒼と触れあっている箇所だけが焼けるように熱い。
「あぁ。それに、どうせ抱きついてくれるなら、あったかい方が嬉しい。湯につかっておいで」
頬を寄せた紺樹に若干の身じろぎをした蒼は、しばらく考え込んだ後、とんでもないことを口にした。
「紺君は側にいてくれるんだよね。なら、私、お風呂に入るよ。声が聞こえるところにいてくれる? 子どもっぽいって思うかもだけど、今日だけ、お願い」
上目遣いで口に手を当てた蒼に、紺樹の意識は飛びかけた。
「だめ、かな? 知らない間に紺君も消えちゃうのかなって不安もあるんだけど……紺君の声を聞いていると、すごく安心するから」
おまけに、固まっている紺樹を不安げに見上げ、小首を傾げたときたもんだ。潤んだままの牡丹色の瞳にじっと見つめられ、紺樹の心臓は年甲斐もなく踊っている。殺し文句も良いところだ。しかも、無自覚。
それでも、紺樹は必死に理性を総動員した。
「あぁ、風呂場の入り口の前で見張っているよ」
「ほんと?」
見て明らかに、蒼の頬が色づいた。
紺樹には嬉しそうな声と表情だけで、室内が一段階明るくなったように思える。
「じゃあ、ちょっと待っててね! お湯溜めて、着替えとってくる! あっ! 紺君の着替えも持ってくるね。っていうか、私の前にお風呂入る? 紺君の方が風邪ひいたら大変だもん!」
ぴょんと勢いよく飛び上がった蒼の額を、思いっきり叩いた紺樹を誰が責められようか。当の蒼も「あいたっ!」と声をあげたものの、ほんの少しだけ頬を緩ませて額を摩った。
蒼が完全に顔を上げる前に紺樹をその背中を押す。幸い、蒼は素直に推される力に従い、屋敷の奥へと駆けていった。
「蒼は俺のこと、幼馴染みどころか犬猫だと思っていないよな……」
紺樹は真っ青になりたいのか真っ赤に染まりたいのか不明な肌を叩く。蒼を追いかけて抱きしめたい衝動を必死で制して、魔道を発動した。
どちらにしても、麒淵と話をしようとは思っていた。誰にするわけでもなく、紺樹は口の中で言い訳をする。
「麒淵、即、きてくれ」
紺樹の右手の平には、八卦の陣が浮かんでいる。陣が数度、光を流したあと、紺樹のすぐ側に麒淵が姿を現した。相変わらず眠そうに瞼を落としている。
「おぅとも。なんだ、紺樹よ。おぬしが耳まで赤くなるなんぞ、珍妙な」
「うるさい」
紺樹は苦々しい声を共にうずくまった。自分で呼んでおきながら、近くをぷかぷかと浮かぶ小人に構っている暇は無いと言わんばかりに。
両手を組んで眠たそうな目をしている麒淵は、さらに大きなあくびをした。
「どうせ、蒼になんぞ突拍子も無いことを言われたか、はたまたされたのだろう?」
暢気な麒淵を、紺樹はきっと睨みあげる。その視線はとても鋭い。
けれど、麒淵にとっては可愛らしく見えたらしい。麒淵は、ほくほくと頬を緩ませた。
「お前も含め、白龍師傅や紅たちは、蒼にどんな情操教育をしているんだ。昔から可愛かったが、年頃になりさらに魅力的になってきた今、あの危機感のなさすぎは危険すぎるだろう」
「それは白や紅の責任というよりも、おぬしのせいだろうな」
麒淵はしれっと言ってのけた。
多少なりとも自覚がある紺樹は、うずくまったまま濡れた前髪を掻き上げるのがやっとだ。
伸びてきた前髪から、雫が落ちてくる。麒淵から視線をずらすのが、せめてもの抵抗だ。
「学院時代の同年代を含めて、魔道府に訪れる定例報告の際も、過保護なおぬしや紅が悪い虫を排除しまくっておったのを知らないでか。そのせいで、蒼にとって身近な異性は、じじいや仕事相手を除いては紺樹や蘇芳、陰翡くらいだ。しかも、そろいにそろって蒼をいつまでたっても子ども扱いしよる」
紺樹は反論のしようがない。しかも、説教してくる相手は人の世に疎いはずの守霊だ。麒淵は他と比べ特別人の心に聡い守霊だと、クコ皇国中の溜まりをみてきた紺樹は知っている。
「言うなよ。少しは思うところはあるんだ。というか現在進行形で、俺が耐えているのを知っていて追い詰めるか」
「少しかいな。おぬしの気持ちより、わしは蒼を優先するからな。蒼も大概自分の気持ちに鈍いが、紺樹はそれ以上に誤魔化すのが気にくわんのじゃ」
麒淵がすいっと店の保管庫を抜けて、中庭に続く廊下に飛んでいく。
紺樹も首筋を不満げに撫でながらも、大人しくついていく。
(濡れた服が少々重くうっとうしいな)
そう言えばと、紺樹は伸ばしたままだった袖をまくる。そうして、ふと思い出した。
蒼が初めてそういう紺樹の様子を見て『なんか仕事人て感じ』と両手を握っていたことを。大きく丸い瞳がきらきらと輝いていた。
「思い出し笑いか。気味が悪い」
「麒淵。よそ見していると柱にぶつかるぞ」
「任務中に邪な思いをいだくような青二才に言われとうないわ」
あくび混じりに言われた麒淵の言葉に、紺樹は頭を掻く。
(本来なら陰翡が任せられるはずだったのに。距離を置きながらも俺は耐えられなかったんだ。蒼が一番辛い時に、他の男が蒼の側にいるなんて)
一番悔しいのは、魔道府長官がそれを承知した上で紺樹に任務を命じたことだ。
正直、紺樹は今回の一件が終わるまで心葉堂と極力関わりたくなかった。だが、あの一見優しいようで容赦なく厳しい上司は、紺樹を仕事と私情ともに甘やかすことはない。




