東屋の翁衆
東屋が多く並ぶ場所までくると、蒼は紺樹に向き合う。
「紺君。それじゃあ、私は浅葱に手土産を買うのに饅頭屋さんに寄っていくから――」
「よう、蒼嬢!」
蒼の言葉を遮ったのは、しゃがれた声。声の主は、厚みのある絹性のゆったりとした長袍を身に着けた老人だ。近くの東屋から、二胡の弓を大きく振っている。
「紺樹の大将も一緒じゃないか。二人して仲良く散歩なんて、いいねぇ」
「下世話なこと言ってんじゃない。これだから『じじいは』て、若いもんに嫌われるんだよ」
「そうさね、あたしたちみたいに枯れた年寄りは、茶でも啜りながら詠っていればいいのよ」
声をかけておきながら、東屋の中だけで話を進める老人たち。
「お婆にお爺たち! こんにちは!」
蒼は顔を輝かせて、彼らに駆け寄った。
老人たちの輪の中に意外な人物を見つけ、蒼は思わず「あっ!」と声をあげてしまった。
「萌黄さんも一緒なんだね」
飛び跳ねそうない勢いで驚いた蒼に、一斉に視線が注がれた。その一呼吸後、今度は萌黄と呼ばれた女性に集中してしまう。びくりと華奢な体が震えた。
萌黄は兄の紅に惚れている競合店の娘だ。
「ごっごめんなさい、驚かせちゃったね! 私、昔から声が大きくって」
悪いことをしたかと、蒼は慌てる。
しかし、蒼の予想に反して、萌黄は目があったとたん、顔を輝かせた。しかも、黄緑に近い勿忘草色の瞳は、潤いを増していく。
(え⁉ そっそんなに喜んでもらえる登場だった? 紅はいないのに)
陽気よりも熱すぎる歓喜の空気に押されてしまい、蒼は後ずさってしまう。
けれど、それを追いかけるように、萌黄は風を切る勢いで立ち上がった。胸の前で手を組み、きらきらと瞳を煌かせている。物語の女主人公さながらの輝きだ。
「なんだ、蒼嬢ちゃんの知り合いかいな」
あまりの反応に、黙って茶を啜っていた石翁が、好奇心旺盛な目で尋ねてきた。
「うっうん。ほら、中央通りに大型の茶葉堂が開店したでしょ? その華憐堂のお嬢さんだよ」
萌黄の勢いに押されながら、蒼がなんとかといった調子で答えた。
それに驚きの声をあげたのは、紺樹だった。
「ほぅ、貴女が。というか……」
だが、すぐに半目になる紺樹。
「翁たちは見知らぬ女性を無理やり井戸端会議に巻き込んでいたのですか?」
「あらやだ、大将。茶瓶を持って所在なさげにまごついていたから、てっきりどこかの東屋に入りたいのかと思って、お誘いしただけよ」
「……所在なさげというよりも、どこかへ行かれる道中だったのでは?」
紺樹にため息をつかれ、老人たちは数回瞬きをした。顔を見合わせた老人たちを見る限り、本気で良かれと誘ったようだ。目じりの深い皺が、溝を深めていく。
たっぷりと空気を吸い込んだ後、がたんと大きな音が鳴り響いた。
「なんとっ!」
「まぁっ!」
「とんだことでっ!」
近くの東屋にいる人間たちが、何事かと振り返る。
しかし、東屋の中にいる人物たちが確認できると何やら納得したようで、すぐに興味をなくし各々の会話へと戻っていった。
「まさかの、まさかじゃ!」
「あっ危なかった」
彼らが立ち上がった衝撃で、危うく煮水器が倒れそうになったのを、蒼は慌てて手を伸ばし支えた。
机の反対側にある煮水器に両手で掴みかかったので、上半身が机に乗りかかってしまう。腹部あたりがわずかに痛むけれど、大事には至らなかったことに蒼は安堵した。
「いやっ! まっこと、すまんかった! あっ、お嬢さんもだが蒼ちゃんもなっ」
蒼の頭の上から、木爺の大きな声が降ってきた。ついでに頭を撫でられる。
「お嬢さん、あたしはてっきり。いやだよ。そりゃ、お嬢さんのような若い娘さんなら、好きな人のもとへ行こうとしていることくらい容易に想像つきそうなものを」
「水婆様、それも極端な話ですよ」
「そうよね。恋に年齢は関係ないさね」
「私がそこを指摘したとお考えでしたら、魔道府の突っ込み担当をご自宅に向かわせますよ」
紺樹が井戸端会議の発想を、呆れた口調で押し流そうとする。それと同時に、蒼が起き上がるのを手伝ってくれようと手を差し伸べた。
昔なら、蒼が掴みに行くより先に腰ごと引き上げられていただろう。蒼は若干の寂しさを伴いつつ、女性扱いされているのだと思うことにして、遠慮なく手をとった。だが、反動をつけるために強く握り返してしまったせいだろう。紺樹の身体がわずかに揺れた、と蒼は思った。
「いっいえ。あの、わたくし……そのように見えてしまいましたか?」
萌黄の声は揺れている。先ほどまでのおどおどとしたものとは異なる色だ。
水婆の想像は、あながち間違いではなかったようだ。
蒼の確信を後押しするように、石爺が糸目をさらに細めて前を指差した。
「大将、どうやら水婆の意見は的を射ているようだ」
しわしわの指先にいるのは、耳から火が出そうなくらい赤く染まっている萌黄だ。
蒼は自分の後ろに隠れ袖を握っている萌黄を振り返る。真っ白な肌を上気させ伏し目ではあったが、はっきりと
「見抜かれてしまい、お恥ずかしいですわ」
と肯定の言葉を口にした。
「春だねぁ……うらやましいのう」
「安心おしよ。あんたの頭は年がら年中そうさね」
水婆が、木爺の肩を裏手で叩いた。
相変わらず、漫才のようなやりとりだ。しかし、萌黄はそのやり取りを気にしてはいないようだ。おどおどした態度とは反対に、彼女の語気は少しばかり恨めしさが、込められていた気はするが。
(私の考えすぎかな。まっ、翁たちが気にしていないならいっか)
わずかにだが、蒼よりも身長の高い萌黄は、猫背になってしまっている。自分の腰帯を掴んでくる萌黄を振り返り、蒼は頬を緩めた。
よほど人見知りなのだろう。萌黄は下を向いて、時々視線だけを上げる。的外れな方向を見ているわけではないが、わずかにだけ目が合わない分、余計にひっかかりを覚えてしまう。
(なのに、どういうわけか紅に対しては、やけに積極的に想いをぶつけてるんだよねぇ)
蒼が心内で頷いていると、頭上で紺樹の手が弾んだ。
「蒼、そろそろ行きますか。店に戻るのが遅くなると、紅に叱られますよね」
紺樹に声をかけられ、蒼は我に返った。
「そうだ、お使いの途中だった!」
紅の怒りが覚める時間をとったというのに、逆効果になってしまう。蒼は見て明らかに焦りだした。
「翁たち、またね!」
慌てて両手を振った蒼に、三人の老人は微笑み返してくれた。
「おぉ。蒼嬢たちも気をつけてな。人が増えたせいか、街中が歩きにくくなっておるから」
「そうそう、白のじいさまにも『久しぶりに顔を出せ』とでも伝えておいておくれよ。まだ落ち込んでいるようなら、ひっぱっ――」
水婆が扇をゆらしながら、ため息まじりにぼやく。
「え? 落ち込んでいらっしゃる?」
そこにかぶせるように、萌黄が不思議そうな声をあげた。
「おいっ! 一言多いっ!」
老人二人がぎょっと目を見開き、水婆の肉厚な腕を叩いた。ぼんっと、まるで銅鑼のような良い音が鳴り響いた。
結構な衝撃だったはずだが、叩かれた水婆は怒らず、ただバツが悪そうに蒼を見つめる。
蒼には三人が自分を労わりの眼で見ているのがわかった。それに対してどう返していいのか、一瞬浮かんでこなくて。蒼は口の中が急に乾いていくのを感じた。動悸が激しくなる。
(みんなを心配させちゃダメ。もう何ヶ月も前のことだもん。私もおじいも立ち直ってるよって笑わなきゃ)
わかっているのに、心の外側から来る刺激にはどうにも弱くなってしまう涙腺が恨めしい。原因なんて重々承知だ。
落ち込んでいる。その原因。
それは、蒼の祖父である白龍にとって娘と娘婿――つまり、蒼にとっての両親が亡くなったことを示すに他ならない。
(おじいは飄々としているから、余計に心配になるよね。私も最近のおじいはちょっといつもと違うって感じてる)
下を向いてしまった蒼の頭に、温かさがしみてきた。ついで、数度熱の元が軽く弾む。それにあわせて、蒼は心臓がとくんとくんと鼓動を打つのを、全身で感じた。
慰めるのでもなく、鼓舞するのとも異なる。昔から紺樹がくれる、ただ寄り添ってくれると感じる不思議な律動。
(大丈夫、私は大丈夫だよ。みんながいてくれる。それに、私は心葉堂の茶師だもん)
心の中で数度呟くと、蒼は徐々に平常心を取り戻していった。
それを察したように、頭を撫でていた紺樹の手が動くのをやめる頃には、「ありがとね」とにっこりと笑うことができた。紺樹は少し眉を下げて笑い返してきた。
「そもそもですね」
紺樹がわざとらしく頭を振る。
「翁たちも、ご自分たちから師傅にお会いになればよいものを。老人の心配の照れ隠し姿なんて全くもって、かわいくないですよ」
紺樹の悪戯な声が空気をほぐしていく。年配の者に対して失礼なくらい不遜な態度に思えるが『かわいくない』という言葉選びで帳消しになっていると、蒼はさらに笑いを零してしまう。
翁達も声を揃えて、
「てっ照れてなどおらんわ! 加えると、断じて白のためなんぞに照れてなどおらんが、老人だってツンデレというやつで可愛くてなにが悪い!」
と空気を割く勢いで声を重ねて空気を震わせた。
あまりの大声だったからだろう。周囲の東屋からもどっと大きな笑い声がさらに被さった。
「そーいうの大好物でーす」
だとか
「許されるのは若い美男美女だけだぞー」
などと、他の東屋からもヤジも飛んでくる始末だ。あまつさえ「白様ならなんでも素敵だわ」と言う黄色い声まであがった。
「私も悪くない派だけど、おじいは間違いなく『そんなにわしのことが好きか、そうか、しょうがないから好きでいさせてやるかのう』って、にやつくね」
蒼は自分で考えながらも笑ってしまう。苦しそうに飛び出て来る笑いを堪えようと口を押さえるが、どうにも収まってはくれない。
「確かに! 萌えるわー!」
という声が後押しになり腹を抱える蒼。
「ありがとー!」と片手を振る蒼を見て、紺樹は微笑を浮かべた。そうして、もうひとつおまけにと言わんばかりに、わざとらしく澄ました表情をつくり、
「そうですか」
と肩をすくめた。
「おじい? 師傅?」
萌黄はひとり、きょとんと大きな切れ長の目を瞬いている。
それに気がついた蒼は目じりを拭いながら、萌黄に向き直る。
「萌黄さん、置いてけぼりにしてごめんね。えっと、私と紅の祖父は――私たちはおじいって呼んでるの。幼馴染の紺君の体術や学術の先生でもあって、世間では『師傅』って呼ばれていたり、翁衆には『白』って呼ばれていたりするから、ちょっとわかりにくいかもだけど。あっ、本名は『白龍』っていうの」
「そうなのですね。お見かけしたことはありますわ。紅さんによく似ていらっしゃる」
紺樹と翁たちを交互に示し説明すると、萌黄は納得いったように頷いた。
受け止め方がどこまでも紅中心だと空笑いをする蒼に、こそりと顔を近づけてきたのは水婆だ。
「なんだね、このお嬢さんはいたく紅に惚れとるの?」
「そうみたい。かなり、押し強め」
「控えめなお嬢さんほど熱が入ると危険なもんさね。あんまからかわないで守ってあげなよ?」
からかう様子はなく、萌黄の言葉の強さから何かを察したようで心配の色が濃い。蒼は女性特有の感かと思った。
「はーい」
萌黄には聞こえないようにと、小声で会話が交わされる。けれど、『紅』という単語に敏感な彼女が気づかないとも限らないので、蒼は早々に話を打ち切ることにした。
情報通の水婆も特に追及してくることもなく、軽く腰元を数度叩いてきただけだった。
「翁たち、ありがと。おじいにみんなが心配してくれていたことは、ちゃんと伝えておくね。あと翁たちも、たまには望月と朔月以外の日にも茶葉を買いに来てね」
いつもどおり、くしゃりと笑った蒼に、老人たちは胸を撫で下ろしたようだった。
東屋の階段をとんとんと下りる蒼と紺樹、それに萌黄に向かって老人たちは軽く手を振った。
「えぇ、あたしの得意な練り菓子持っていくからねぇ。楽しみにしておいておくれ」
「そちらのお嬢さんも、おいしいお茶ありがとよ」
「いえ、その、よければお店のほうも、覗いてくださいまし」
そう言いながらも、すでにかなり後退し始めている萌黄。
その姿に一同は顔を見合わせ、やがて、柔らかい笑い声を響かせた。