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白龍の願い

「一滴でも残っておって良かったわい」


 白龍は空間の中央で足を止めた。爪先には、親指の先ほどの水が波打っている。薄い水色とも紫とも見える色を映しており、明らかにアゥマを宿らせている色だ。

 膝をついた白龍は水を覗き込み、指を浸す。その拍子に香ったのは、例えるなら出涸らしの茶葉のようなものだった。


「どうだ?」


 黒龍の問いかけに、白龍は無言で頭を振った。

 特に目立った反応を示さない黒龍を気にとめるのでもなく、白龍は膝を伸ばす。


「アゥマ――溜まりの水ではあるが、魂がもぬけの殻といったところだ。守霊の気配は零じゃ」

「むしろ、儀式の後……しかも、枯れてからの年月を考慮すれば滴だけでも残っていたのが奇跡というところか」


 黒龍は周囲を見渡しながら、しみじみと呟いた。改めて気配を探ってみても、生き物の気配は皆無だ。

 今の世ならまだしも、一昔も二昔も前であれば殊更、アゥマを生み出す溜まりがない場所で生き物が生存し続けるのは困難だ。大地に張り巡らされているはずの龍脈も、此処を円の中心としているように枯れているのは調査済みだ。


「何百年も前の遺跡じゃ。ここがきっと彼らにとって始まり、あるいはソレに近い土地だったことはほぼ確定じゃな。魔道府が秘密裏にいくら探っても、華憐堂の一族がたどってきた国は証拠すら残さず、滅んでおった。最初の土地だからこそ、わずかな証拠が残っておったのか」


 白龍の言葉に、黒龍も腕を組み直し小さく頷いた。


「完璧すぎるほどに過去ごと消してきた一族か。この国跡も周囲を猛毒の植物が囲まれ、その手前には異形の者がはびこっていた。それさえもきっと奴らの後処理の一環だろうな」


「あぁ、完璧すぎるほどに自分たちの過去を葬ってきたのじゃろう。この国の存在を特定できたのも長寿種族であるホーラの記憶と、わしの若い頃の冒険で見聞きした欠片、それに蛍雪堂の主が所持していた禁書という好条件がたまたま揃っていたからに過ぎぬ」


 考えれば考えるほど、萌黄に施されている術は恐ろしい代償を伴うのだと思い知らされる。

 それでも華憐堂の店主は望んだのだろう。萌黄という女性に禁術を施し、生命活動を維持し続けることを。


「のう、黒龍よ」


 白龍は、弱々しく呟いた。黒龍が気持ち悪いと思う程度には。


「確認しておく。いや、させておくれ」


 白龍は老人らしからぬしゃんと伸びた背中を黒龍に向けたまま、天井を見上げた。

 どこまでも高い天井はまるで夜空のようだ。魔道の光が届かぬ高さなのに、岩肌に張り付いた水晶の欠片が星のごとく煌めいている。


「言ってみろ。馬鹿げたことをのたまえば、即座に背を蹴ってやる。むしろ先ほどのように俺から空気を読まされるよりずっと良い」

「いや、そこは膝かっくん程度で済ませておけ」


 小気味よく交わされる会話。やたら生真面目に答えた黒龍に、白龍は大きく笑ってしまった。


「ヒザカックンとはなんだ。いや。単語を分析すると膝を――いわゆるカクンという疑問にすることか。カクン。それはつまり、うむ折ると状況が適切か」


 緊張故の軽口だと、黒龍には伝わっているのだろう。黒龍は白龍の背を蹴ることも頭を叩くこともなく、ただ深いため息を吐きつつ分析する。ひどく真面目に。


「なんじゃそりゃ」


 ふわりふわりと立ちこめる白い息。

 白龍と黒龍、互いの表情が見えないまま、向き合う。心なしが、ぐんと気温が下がる。白龍がこの場のアゥマと共鳴をはかり始めたからだ。


「ひとつ」


 共鳴開始からややあって、白龍がひどく揺れた音を零した。

 白龍は自分の体温がぐっと下がった気がした。黒龍はまっすぐに見つめてくる。


「幻想を蘇らせるには、多くの犠牲を払う。国が形を保ち続けられなくなるなどという段階(レベル)ではない。失うのは、人々の生活、声、感情、そして存在そのものだ。それ程あり得ぬこと」


 満ち始めた水蒸気に阻まれても、黒龍の声はしっかりと白龍の耳に届く。


「おぅ」


 わざとだろう。古めかしい口調であることが多い黒龍が、わざわざ出会った頃の若者の口調で答えたのは。


「ふたつ。わしは今でも桃香や藍、橙を取り戻したいと思っている。己の先を走り続けると思っていた命の喪失を、わしはいまだに受け入れられていない」


 白龍は己の皺だらけの両掌を眺める。


(かつては何でも掴めると思っていた指。天才と呼ばれた自分は、実際に願ったモノのほとんどを手にしてきた。だから、愛しい人たちを守り続けていると信じてやまなかった)


 その未来にあったのは、たくさんのモノをとりこぼし続けている、しわくちゃの手だったのに。


「ばかもんが。俺が知っている白は、昔から命に強欲だ。それのなにが悪い」


 相変わらず平坦な声に、白龍はより顔を俯かせた。

 握った両手の拳が、ひどく痛む。肌を刺す寒さよりも、内から込み上げる冷たいもののほうがよほど体を痛めつけてくる。


「みっつ。幻想は幻想だ」


 それは自分に言い聞かせる意味もあったが、白龍は己が思う以上に断言していた。

 白龍の肺が思いっきり膨らむ。息を吸った拍子に鼻先に残った珈琲の香りが、鼻腔に広がっていった。現実の香りだ。


「死人は絶対に生き返ることあり得ぬ。幻想が存在しうるとしても、それはぬくもりのある偽物だ。偽物が存在し続けることに希望はない」

「そうだ。華憐堂の娘を目の当たりにしたお前はわかるだろ」


 また、即座に黒龍の肯定の声がまっすぐ届く。



「わしは理解できる。共感してしまってさえいる」


 それでも、白龍は諦めきれずにいる。


「華憐堂の主が、萌黄を蘇らせた思いがわかるのだ」


 理解してしまう。


「そして――竜胆があの子を取り戻したいゆえに、国さえを巻き込んでいるのも。竜胆にはその資格があるとさえ思ってしまう。竜胆は自分の全てを犠牲にして、クコ皇国を守ってきたのだから」


 自由奔放な白龍とて義務は心得ている。

 現にクコ皇国最高峰のアゥマ使いが与えられる称号のフーシオとして、家族の危機をおいて世界の果てに来ているのだし。皇太子となれば殊更だ。


「けれどな。同時に思うのだよ。国が――国民が皇族が、あの子に何かをしてやったのかと」


 それはつまり、犠牲になってしかるべきという意味か。などと黒龍は口にしない。


「これも麻酔のようなもんじゃ。この場のアゥマと共鳴をして時欠けの能力を発動しようとしているがゆえの妄言じゃて」


 幻想を否定する自分と、願ってしまう自分。

 白龍は矛盾した心のもやを抱いたまま、時欠けの魔道を発動するのが怖かった。だから、矛盾したことを口にしては、黒龍に確認してしまう。

 白龍自身、ずるいとは思う。言うなれば、黒龍だって、いや黒龍や魔道府長官のような長寿の一族こそ、感じることは多い悲しさだろうから。理解しているからこそ、吐き出さずにはいられなかった。


「なら、お前が一番恐れることを言ってやろう」


 黒龍がとんと白龍の胸を小突いた。ぐっと近くなった顔は至極真面目だ。そのせいだろうか。たいした力も込められていなかったのに、白龍の体は半歩後ろに押された。

 黒龍は面白いものを見たと言わんばかりに、滅多にない様子でにやりと笑った。


「白よ。おぬしが取り戻したい家族を蘇らせたとしよう」


 黒龍はひどく愉快そうに口の端をあげて、再度、白龍の胸に拳をぶつける。


「まず桃香なんぞはお前を散々のした後、『白なんて大っ嫌い』と極寒の視線を投げ、一生口も聞かず、毛先一本にも触れさせん。泣きわめいて目が真っ赤になっても暴れ続けるな」


 たたらを踏んだ白龍は、あまりにも想像可能な光景に冷や汗を掻いてしまった。いつぶりか。


「藍に至っては『お父さんって……』とみなまで言わずに、静かに門からわずかな荷と共にお前を出すだろう。いや、むしろ自分が家族を連れて姿をくらますか。あぁ、良心である橙でさえ戸惑い気味に笑いながら『義父さん、庇いようがありませんよ』と見放すだろうな」


 正直、黒龍の口調真似はひどく下手だった。というか、彼が他人のまねごとをするなど一生に一度あるかないかだろう。

 それでも、白龍は思ったのだ。


(どうしてかひどく似ている)


 残酷なまでに彼らに言われている気がして、掌で顔を覆ってしまった。


「下手すぎる。なのに、似ているなど、卑怯じゃろ。黒よ、絶対に紅と蒼の前でするなよ?」


 白龍は思わず俯いてしまった。涙目なんて見られたくないと強がったのと、笑いを堪えるのとで。どうしてか、今だけは声をあげて笑いたくないと思って、うち頬を噛み締めた。


「ばかをいえ」


 黒龍はわかっている。白龍という人物の心を変えようとしても無駄なことを。

 彼は自分をわかりすぎて知りすぎている。だから、卑怯だと承知しながらも彼の思い出を利用して、諫める。


「さっさと術を発動して、華憐堂一族の事情を暴いてこい。その上でお前がまだ思うところがあるなら、とことん聞いてやる。自分で自分の声にうんざりする程にはな」


 腕を組んだ黒龍はふんと鼻先を鳴らした。その音さえも良く響く空間は、心なしか魔道の光が強くなっているようだ。


「おぅ。それでこそじゃな」


 白龍は静かに瞼を閉じた。

 次いで、ばさりと両袖が音を立てた。両横に広げられた先にある人差し指に中指が絡むと、ゆっくりと薄水色の光が灯っていった。光が大きくなるにつれて、長いゆったりとした袖が揺れる。白地に刺繍されたヒヤシンスの柄が、その度優しく波打つ。


「これでこそ、黒龍を連れてきた甲斐があるというものだ。わしが呑まれそうになったら、しっかり引き戻せよ」


 頼んでいる割には随分と偉そうな口調で告げると、白龍は流麗に呪文を唱え始めた。

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