亡国③―形跡―
「おぉ。遥か上空に見えるのは、わしらが最初にたどり着いた場所ではないか」
白龍は地面に尻をついたまま額に手をかざし、天井を見上げた。目を細めた先にあるのは、わずかに飛び出た岩だ。心葉堂、というか溜まりの基本形は、大きな泉のような形をしている。その真ん中に向かった細い道が伸び、中央に小島があるのだ。まるで祈り場のように。
「やはり、ここがかつて溜まりの底だった所か」
黒龍が珍しく感慨深げに呟いた。
同じような心境である白龍も、こちらも珍しく黒龍をからかうことはしない。地面に腰を下ろしたまま後ろに両手をつき、思い切り背を逸らす。
「淵のぎりぎりまで岩に赤茶けた、いや黒に近い赤の跡が残っておるか。岩肌の途中まである水晶さえ赤黒く染まるなど……なんであろうか」
すんと鼻を鳴らす。鼻腔を満たしたのは、甘く焦げたような香り。まるでべっこう飴だ。ほろ苦くて甘い香りが漂っている。
そこに混じるのは、本当に微少な鉄の臭い。気のせいだと思えば、そんな気がする。そんな程度だが。
「あそこから溜まりの脈を探しあてて潜ってきたと思うと、しみじみするのう」
「白よ、やかましい。耳が痛い」
思ったより大きな声だったようだ。
前に立っている黒龍は、思いきり眉をしかめている。普段から凜々しい顔つきな分、余計に不機嫌そうに見える。実際、不快だったようで、黒龍はこめかみを押さえた。
「相も変わらず、お前の声は反響してたまらん。じじいのくせに」
水晶と光に反射して艶めいた黒い長髪は、緩く肩で束ねられている。ようやく明るい場に出たというのに、目にかかる前髪と顎先まである頬横の髪のせいで、あまり表情は見えない。
(まったく。黒の場合、無表情なくせに声色に感情がでる)
白龍が内心で苦笑しながら黒龍を見ていると、黒龍の眉間に深い溝ができた。それでも、黒龍の作り物めいた美しさが崩れることはない。
「なんだ」
「いやな、黒こそ、見た目は青年じゃが、実年齢は俺と変わらぬじじいだろう。と心の中でぼやいておったのだ。全く、桃源郷に住まう『始まりの一族』とやらの末裔は、若作りもいいところじゃ。その黒髪と漆黒瞳が助長しておる。翁たちが羨んでおるよ。特に頭髪に関して」
「髪があろうがなかろうが、石の奴が人格者なのは変わらんだろう。大体、『始まりの一族』の中で、黒髪を持つのは異端者だけだ。俺の血は混じった先祖返りか知らぬが、本来の桃源郷の民の色素は薄い。始まりの一族を羨むのならば、それを俺に向けるのは筋違いだ」
白龍の予想通り、黒龍は少しばかりずれたことを口にした。
そして、口調のキツさとは異なり、ひどく優しい眼差しで宙を見上げた黒龍。
「妹は薄紫色の綺麗な髪と薄桜色の瞳をしていたな。あの子が持つ生気こそ憧れるものだ」
きっと、彼の瞳には、妹と同じ色の花びらが見えているのだろう。故郷に咲き乱れる、桜が。
(桃に伝えれば、お決まりの文句が返ってくるだろうがのう)
白龍が瞼を閉じれば、ありし日の妻の姿がありありと蘇ってきた。いつまでも若く瑞々しかった桃香。
――親戚連中は、桃なのに桜か白黒つけろなんてからかうのよっ! 兄様がつけてくれた名前だもの。二つも花をほこる女なんて最高じゃない! ねぇ、白だって奥さんがいつまでも若くて綺麗なら嬉しいでしょ? まっまぁ、故郷を出てからは普通に歳をとっているから、笑いじわとか気になるけど――
桃香は腰に手を当て白龍に詰め寄るのがお決まりだった。
その度、白龍が彼女の真っ白でなめらかな手を取り、祈るように口を寄せた。そうして、その後、桃香の目元を親指でなぞったものだ。
(『桃の体に俺と同じ時を生きている証が刻まれていくのは、これ以上ない幸せだ』などと、まったく当時のわしは青臭いことを飽きもせずに繰り返したものだ)
今はひとりで皺だらけになった掌を見つめる。
もう『最近は白の指の方が昔よりざらついているのだから、私の勝ちね』と悪戯に笑ってくれる桃香はいない。手に乗るのは、あの日の桃香と同じようにみずみずしくはりのある孫たちの手だけだ。
ゆっくりと握られていく白龍の指。
「おい、浸るな」
俯いた白龍の頭が思い切り叩かれた。小気味よいほどの音が反響した。
本気で痛かったのか。白龍はめったに見せない様子で顔をあげ、涙目で荒々しく口を開いた。
「このっ、ばか黒――!」
「気が張り詰める場面で、義兄を前に妻との思い出に浸るな。言い訳はいらん。お前は普段わかりにくい分、こういう時はあからさますぎるのだ。もしやバレておらぬと思うておらぬだろうな」
黒龍は鼻で笑うのと同時、ぴんと人差し指で長い髪を払った。
これは白龍を慰め照れているなどという可愛い様子とはかけ離れている。本気でうんざりとしている。その証拠に、薄い唇の端が思い切り下に落ち、目には殺気さえ感じる。
そんな黒龍を、白龍はぽかんと見上げるしかない。
「お前は……どこにいても、お前なのだな」
白龍はか細く呟いた。痛む頭をさすりながら、目の前の旧友を見上げる。
正直、白龍は意外どころではなかった。冷静に見えて実のところ黒龍は非常に情が深い。
「当たり前のことを聞くな、いよいよぼけたか」
辛辣な言葉に白龍は無性におかしくなる。他の人と異なる時間を生きる彼だからこそ、そして、決して狭いその世界で生きることをよしとしていない彼だからこそ、言えることだ。
だからこそ、白龍は自分とは違う不老の彼を親友だと思える。外見に関する時の流れは違えど、黒龍の心は白龍のそれと非常に近い。
(そんな気持ちをわからぬようで、わかって欲しい部分を根っから掬い上げる。黒龍もホーラも――ほんに恐ろしい。その恐ろしさが心地よい)
白龍は揺れる心を隠すように、腰に手をあてにやにやと立ち上がった。
白龍とて心の揺らぎについては想像がついている。なにより実際にそこに乗ってしまいたい自分がいるのだ。それを誤魔化すために、己が己らしいと思える自分を装う。
「……なんだ。気持ち悪いやつだな」
葛藤に酔う白龍に、黒龍は低い声をかけた。真っ白な息がふわっと綿毛の形をとり、天に昇っていく。真っ白な肌を際立たせる真っ赤な鼻先。
白龍は鼻先を擦り、ずぅっと鼻で呼吸をした。
「はよ仕事を終わらせて、皇帝に手配させた酒を飲んであったまりたいところじゃな」
「おぅ」
黒龍は短く返事をして、足早に空間の中央に進んでいく。
「あと――」
ふと足をとめた黒龍が、忌々しげに白龍を振り返る。
「白よ。やはり、お前はここの残術に引っ張られすぎだ。どうせ自覚はあり、かつ試しているのだろうが、念のために釘を刺しておくぞ」
一瞬だけ呆けた白龍だったが、すぐに大げさに肩を竦めた。
「さすが腐れ縁じゃな。それゆえに確信した。ここで行われた儀式と残る思念が、己の一番大事にしている思い出を刺激してくるものだと」
興奮した調子で、はっきりと宣言した白龍。
「しかも、相手が死者であることが重要じゃ。生者や麒淵のことは大丈夫だった。アゥマが相手の生死を判断しておるのは、記憶じゃろうか。それとも、人は死ぬと近親者に残り香としてアゥマの欠片でも残すのかのう。実に興味深いっ」
まるで子どものように浮ついた声で報告をする白龍に戸惑ったのだろう。白龍より浮世離れしているはずの黒龍の肩がきゅっと締まった。
(心葉堂の血筋ゆえか。アゥマを繰る能力が優れている者ほど、感情とアゥマに対して現実が乖離する傾向にある)
口にしようか迷って。結局、黒龍はやめておいた。白龍のことだ。どうせ自覚はしている。
「そうか」
黒龍の短い返事に、白龍は不満そうに頭を振った。
「というか、旧友との会合ゆえに饒舌になっているとは思わんのか。白状者め」
白龍の軽い口調に、黒龍は足を止めた。背後にいる白龍からは見えていないが、何度か口を開閉する。
白龍は知っている。黒龍は容赦がない割に、相手が本気で傷つく言葉を音にするのは避けると。だから、彼の腰元に何度か拳をぶつけてやった。昔から事あるごとにやってきた『中途半端にやめるな気持ち悪い切り替え装置』を稼働させる仕草だ。
「……この数十年、お前が素面で桃への未練を口にした試しはないからな。ましてや、任務中ならば殊更だ」
黒龍は足をとめ、前を見据えたまま言った。そして、さっさと再び中央に向かって歩き出す。
「よし」
白龍は乱れた長い前髪を両手で一気に掻上げ、前をゆく黒龍に追いつくために大きく踏み出した。
「白よ。お前が間抜けにも自制心を持って行かれかけた正体らしき気配を、はっきりと感じる」
中央手前で足を止めた黒龍が、感心したような声をともに振り返った。
白龍は苦笑するしかない。かなりひどい言われようだが、黒龍自身には全く嫌みはないのだ。事実を語っているだけで。それがこの男の悪いところでもあるが。
(まぁ、今はわししかおらぬから別段問題はないが)
歯に衣着せぬ黒龍だからこそ、白龍は旅の共に彼を選んだのが理由のひとつだ。そして――。
「にしても、お前がどこでもお前であるのはいいとして、いくら歳をとっても丸くならんのう。おぬしは」
「お前は年老いて、正しく言葉を使うこともできなくなったのか。なにが『にしても』だ。そもそも老いても性根の悪さが薄れぬ奴に言われたくない」
黒龍があからさまに舌打ちをし、なおかつ、威嚇する獣のようにフーと唸っている。
本当にややこしくて愛しい親友だと、白龍は腹を抱えて笑う。天高い岩肌の空間で、白龍の声はとんでもなく響き渡る。
二つ目の理由がこれだ。情に流されないというか性悪であった若い白龍を知り、貼り付ける事に慣れた聖人の仮面をことあるごとに剥がしにかかる。
「知っておるのか? そんなことはっきり口するのは、おぬしとホーラぐらいだ。東屋の木や水、石たちでさえ、最近はあからさまなことは言わぬ」
白龍からした軽い話題だった。世間話程度で、少しばかり黒龍の態度を非難するような。
けれど、黒龍は思いの外、真面目な顔で白龍に向き直った。目線こそあわないが、体を白龍の正面を見ている。
「……俺は日ごろより傍にはおらん。それが答えだろう。白の立ち位置を知らなければ、気を遣う必要もなかろう。あいつらとは立場が違う。それだけだ」
黒龍は淡々と答えた。
白龍は二つの意味で瞼を少し伏せた。日頃から近くいるから白龍の立場と心情を理解する人と、離れているからこそ昔のままの自分を受け入れ本質を見抜く人。
(だから、その絶妙な均等の取り方はやめよ)
白龍は深く息をついた。ついでに、どかりと音を立てて件の水を前にあぐらをかいた。両手を腿につき、はっと笑った。
「さてと。わしがおかしいついでに、クコ皇国での異常を整理するか」
「うむ。目当てのものを前にしているのだからな。俺も願ったりだ」
暢気なことをと鼻で笑うと思ったのに、黒龍はあっさりと岩の地面に腰を下ろした。しかも、荷物から諸々とりだし珈琲など沸かそうとしている。
一瞬あっけにとられた白龍だが、袋を取り出した黒龍と目が合った途端、悔しくなって余裕の様子で腹をさすった。
「なんだ」
「珈琲は久しぶりじゃと思ってのう」
「香りが無理ならいつもの茶にするが?」
白龍を見上げる黒龍に一切の嫌みはない。ただ、純粋に尋ねているのだろう。だが、白龍にとってはそれが何より気に入らなかった。
(歳をとって趣向が変わったとでも思ったのか、ばかもん)
白龍の胸にわずかに寂しさが生まれた。
痛んだ胸を掴んで、白龍は憚らずとんでもなく重いため息をついた。白息がぶわぁっと溢れたのと同時、空間に重すぎる音が反響する。
憎らしいことに、黒龍は反応しない。
(まったく、胸くそ悪い。ホーラとてこれが狙いだったんだろう)
白龍は掻いたあぐらに肩肘をついて、鼻を鳴らした。が、やけに響いた音と相変わらず無視する黒龍、そして苦みのある香りにどうにもおかしくなってしまった。
拗ねていたかと思うと突然小さく笑い出した白龍に、黒龍の眉間に皺が寄った。
「ここの魔道にやられ気でも触れたか。百面相じじい」
「ばかもん。冗談を抜かしている暇があればさっさと珈琲を入れろ」
珈琲が沸くと白龍は一口含むと姿勢を正し話し始めた。
事の始まり、華憐堂がクコ皇国の首都中央通りに店を構える少し前のことから。




