失踪①―いなくなった紅―
「ごめんね、蒼ちゃん。紅は見かけてないのよ。そもそも、この悪天候とアゥマの乱れで、うちの人も従業員たちも出歩くのを避けてるからね」
行きつけの飯店である幸好楼の女将が、震える腕を摩りながら眉を下げた。息を吐き出すごとに、蒼と女将、二人の間に真っ白な綿が生まれる。
「そっか。ありがとうございました!」
蒼はできるだけ平静を保ちながら、頭を下げた。両側の長い髪が地面につきそうなくらい。
「紅、どうかしたのかい? 困ってるなら、飯店組合の連中に声をかけてみるよ」
女将はいつもどおり、優しい声で尋ねてきた。柔らかく肩に添えられた掌。とても熱く感じられる。それが、真っ赤になっている鼻先を余計に冷たく感じさせた。
それでも、今の蒼は警戒してしまう。
華憐堂の一件を訝しがられているのではと、邪推してしまうのだ。生まれ育った街。そこで突然向けられた敵意が、疑心暗鬼を掻き立てる。
「ううん、大丈夫!」
蒼はへらりと笑った。
それでも、やはり赤ん坊の頃から付き合いがある彼女にはお見通しなのだろう。女将は頬を押さえて、息を吐いた。
「あのね、蒼ちゃん――」
「ただね。約束がある時間が近くなっても戻らないので、用事ついでに聞いてみたんです。大事なお客さんだからお待たせしちゃいけないかなって、早めに。紅が時間を守らないって珍しいから、翁たちあたりにつかまってるのかと。開店時間短縮してるから、もう閉める頃合いだったのにお邪魔しました!」
蒼は一気にまくし立てて、ちらりと店先の張り紙を見る。
水よけの魔道が施された紙には達筆で『悪天候により開店時間を以下の通りとさせて頂きます』と書いてある。
「それは全然いいんだよ。でもさ、蒼ちゃん」
「じゃあ、またね! 文おじさんのヘンテコ饅頭の新作、楽しみって伝えておいてください!」
蒼は雨具の襟元を握りしめ踵を返した。
散々歩き回って草むらにも入ったせいで、雨用靴はすっかり泥まみれだ。
「蒼ちゃんってばっ! ともかく、気をつけておかえりよ! 先日の騒動で、変な動きをする若い者もいるみたいだから!」
「――っ。ありがとう」
蒼の胸を刺した『先日の騒動』を流し、やっとの思いで礼を口にした。上半身だけ振り返って手を振れば、女将は暖簾を手にしたまま蒼を見送り続けた。
少しばかり石畳みを走り、徐々に歩幅が狭くなっていく。そして、やがてぴたりと止まってしまった。周囲に人影はなく、木箱の上で昼寝をしている猫たちも息をひそめている。
(紅のバカ、バカ。どこ行っちゃったのさ!)
蒼は目尻に溢れてくる涙を力一杯拭った。
✿✿✿
事の発端は、魔道府からの呼び出しだった。
白磁と旭宇が心葉堂を訪れてから数日たったある日、紅あてに手紙が届いた。一時的に雨はやんだが、代わりに粉雪がちらついている昼下がりだった。
蒼が屋敷の掃除をしているところで、門の呼び鈴が鳴った。その際、たまたま近くにいた蒼が恐る恐る顔を覗かせると――そこに立っていたのは、紅の元同僚の陽翠だった。
「陽翠お姉ちゃん! って、魔道府の制服着ているから、仕事、ですね。おひとりですか? 魔道府は二人一組が基本なのに珍しいですね」
蒼は慌てて敬語に切り替えた。
先日の魔道府では翡翠双子から敬語をとくよう懇願されて従ったが、常に適用される免罪符とは異なるのは、蒼も理解している。
「蒼が出迎えてくれるとは」
蒼の顔を見た瞬間、陽翠はなぜかひどく目を見開いた。蒼が名を呼んで首を傾げると、すぐに穏やかな笑みを浮かべたが。
「紅から蒼が寝込んでいると聞いていたので、思ったより元気があり安心しました。それでも、かなり痩せたように見受けられますが」
「食生活の乱れで、太ったり痩せたりです。減量茶の研究でもしているのかって聞かれるくらいなので、そろそろ本格的に取り掛かってみようかなぁって」
「……私が言うのもあれですが。健康第一ですよ」
陽翠はほんのり笑みを浮かべた。
これは寝込み云々を無視したのを含め、色んな意味で見透かされている。蒼は頬を掻くしかなかった。
「紅はいますか?」
蒼は話を切ったからか、予想通り陽翠も健康関連の話題を引きずることはなかった。
「手分けして屋敷の掃除をしているところなんです。目ぼしいところを探してきますので、陽翠さんは客室でお待ちください」
蒼は二歩下がり陽翠を屋敷に入るよう促す。けれど、彼女は少しのあいだ魔道府の外套に顔を半分埋めた後、微笑んだ。
「私はこの後すぐに陰翡や紺樹副長と合流しなければなりませんので」
紺樹の名に、蒼の胸がきゅうっと音を立てて痛んだ。それでも、甘みのある痛みだ。
華憐堂の一件があってすぐ、紺樹は蒼宛の手紙をくれた。魔道が織り込まれた手紙は封を開けたのと同時、蒼が好きな花のひとつである藤の花びらを舞わせた。そして、紙に短く記されていた言葉。
――今すぐにでも蒼の茶が飲みたい。君の顔を見ながら、君の声を聞きながら。君の隣で――
飾りっ気もない率直な文章。
蒼は心の底から包まれたような感覚に陥った。子どものころに良く抱っこされていたのとは、ほんのわずかに異なる温かさを抱いた。それでも寄り添うぬくもりは一緒だ。
最初に浄錬した茶を淹れてあげると約束して、実際飲んでくれた紺樹からの言葉。なにより、丁寧語ではない文が嬉しかった。
(まるで、むかしの紺君みたいだ。それでいて、今の紺君もまじってるって思ったんだ)
紺樹は蒼が修行に出る前と、戻ってきた後では言葉使いも態度も随分と変わってしまった。最初こそ大人扱いしてくれていると嬉しくなったものだが、どうにも胡散臭さが強いのだ。
一度正面切って訪ねてみたが『年不相応で副長になったので、日頃から意識していないと駄目なんです』と誤魔化されてしまった。
それはさておき、と蒼は咳払いをする。
ただ、あの件の後に紺樹が心葉堂を訪れていない。幼馴染兄妹にベタ甘な彼が。
蒼も理解している。紅が魔道府に呼ばれた後、白龍が国外に出た。しかも、クコ皇国の首都でアゥマの不安定さが増しているときた。
(国が動いてる)
未熟で蚊帳の外にいる蒼だって、この首都にあるアゥマがどこか不均等なのは感じている。
だから、蛍雪堂で知ってしまった周辺諸国が滅んだ時期に異常気象が続いたという部分がどうしても引っかかって、悪い想像ばかりが膨らんでいく。
(ただ忙しいだけならいいけれど。紺君や紅たちが危ない目にあうのは……。なにより、自分がなにもできずにいるなら嫌だ)
だから、蒼はできるだけの笑顔を陽翠に返した。
「そっか。陽翠さんも陰翡さんも、あと副長も無理しないでくださいね。って言っても、それが無理だろうから、時間ができたら心葉堂にいらっしゃるか、出張依頼してください! 大特価しちゃいます!」
「はい。近いうちに必ず。二人はさておき、私は蒼に浄連して欲しい茶があるんです」
「わっ! それは楽しみ! 陽翠お姉ちゃんの浄錬ってアゥマが真っ直ぐで凛としていて、触れると背が伸びるの!」
蒼は両手をぐっと握った。牡丹色の瞳を輝かせ、あれやこれやと計画を練りだす。
「あっ! すみません。敬語が迷子になっていました」
「……今はふたりですから。それに。いえ、これを」
陽翠はうつむき加減で蒼の手に手紙を握らせた。
「紅あてです。確かに預けました」
何かを飲み込んだような声に、蒼は素直に頷くことしかできなかった。
✿✿✿
それから蒼は、蔵にいた紅と合流し手紙を渡しがてら休憩をとることにした。麒淵も同席しているが、相変わらず夢うつつだ。
「紅、お茶の準備できたよ。それと、陽翠お姉ちゃんから手紙を預かったの」
「陽翠が? 差出人自体は――魔道府長官。しかも封蝋が押されているな」
それは、魔道府長官から茶の出張依頼だった。
紅宛だったので、蒼は手紙の内容を見てはいない。けれど、茶の出張依頼にわざわざ封蝋をした手紙が出されることは珍しいのは、わかる。
皇族関係では書面が通例だが、それ以外は逆に記録に残さないことも多い。そんな場合、蒼は白龍や紅と一緒に赴くことがほとんどだ。
「これは、いや、今の時期に?」
紅は手紙に目を通して顎を摩ったり宙を見たりと、何度か戸惑っているような仕草を繰り返した。店の掃除の休憩用に用意した蒸したての桃包にも、黒茶の菊普小沱茶にも手を付けず。
蒼は紅の正面に座り、桃の形をしたまんじゅうを半分に割る。火が炊かれているとはいえ寒い客間に、もあんと湯気が立った。蒼は栗あんにかぶりつく。紅幸好楼特製の『見た目は桃なのに、なぜに中身は栗なのか饅頭』だ。
漂う甘さの競演を前にしても、紅は机に肩ひじをついて微動だにしない。
「紅も食べなよ。せっかく蒸かしなおしたんだから、熱いうちにどうぞー」
蒼が紅の桃包を割り、浮かせている片手に乗せた。
「うん。まぁ、そうだな。うん」
紅は気のない返事をしつつも、ふわふわの皮にかぶりついた。歯にしみた熱に、紅の唇が躍った。数度頬張り、飲み込む。そして、また黙りこくるので、蒼は紅の手から饅頭を奪い取った。
そして、ちぎった包子や茶杯を手に持たせる。そうすると、味わう。それの繰り返しだ。
そうして一刻ほど考え込んでいた紅だったが、
「出かけてくる」
と突然言い出して勢いよく立ち上がった。蒼が淹れた茶はきっちり飲み干して。
「じゃあ、雨具と傘を用意するね。あと、防寒具。門のところで待ってて」
「ありがとうな。でも、大丈夫だ。今は防御魔道がかけられた雨具が門のところに置いてあるから、それだけを使うよ」
「この雪が降る寒い中、雨具だけでいいの?」
「あぁ」
蒼は疑問を持ちつつも、紅の言葉に従う。
(なんぜ、紅が理由もなく私の気遣いを断ることはないもんね)
それを承知している蒼は、眉を顰めつつも一緒に門まで出向き、一番上等な雨除けの外套を手にとった。
紅の肩に外套をかけ……蒼は背中を強く握っていた。
「気を付けてね。あと、早く帰ってきてね。今日の夜はとっておきの牛肉料理と、おじいの秘蔵のお酒をあけちゃうからさ!」
「随分豪勢だ。でもな、蒼。大変な時ほど平常運転が鉄則だぞ?」
「はいはい。お説教は何事もなく戻ってきてからにしてよね!」
蒼はおどけながらも嫌な予感しかない。
けれど、紅が一度決めたことを貫き通すのも重々承知している。
「気を付けていってらっしゃい!」
だから、両手で兄の背中を押した。




