本当の関係
「はやくっ! お嬢様を探し出せっ!」
紅が町中で怒号と遭遇したのは、白磁が心葉堂を訪れた三・四日程後のことだった。
当の紅は裏路地に身を潜めている次第だ。
現状が現状だけに、咄嗟に面倒ごとから身を避けるためだったのだが……正直正解だった。
(あの男性は華憐堂で――湯庵店守の側によくいる人だ。服の色が原色に近くて一際目立っていたから覚えている)
小雨が降る中、被っていた雨具をしっかりと頭まで被り息を飲む。
寒さに加えて降りしきる雨。普通に呼吸をするだけでも、白い空気が生まれてしまう。
「くそっ。主様が宮からお戻りになられる前に、なんとしてでも連れ戻すんだ!」
「側仕えの話じゃ、最後に見かけたのは半刻も前だっていうじゃないか。だいぶ離れた場所にいるのかもしれない。体はともかく、言動の方が心配だ」
すぐ傍の大通りで複数人の足音が止まった。声からして、男性が二人だろう。そこに軽い靴音が近づいてきているようだ。こちらは女性だろう。
数秒だけ雨音以外は聞こえなくなったが、すぐに石畳の水たまりをばしゃりと蹴るものがまじった。声だけではなく、全身の仕草からかなり苛立っているのがわかる。
「主様のおっしゃる通り、地下の溜まりか寝台に縛り付けておけば良かったのにさ! あんたらが変に同情したもんだから。あぁ、もう、男ってのはどうしてこうも美人に弱いんだか」
女の金切り声に思わず耳をふさぎたくなった紅だが、なんとか持ちこたえた。できるだけ衣擦れが起きないよう、道に置かれた木材類の影に潜り込む。
そして、紅はわずかにだけ声の方へと体を乗り出した。男性物の革靴が二人分。そして、底の平らなつま先の丸い女性物の靴を履いた足が見えた。予想通りだ。
(裾の端に華憐堂の文様が刺繍されている。ということは、お嬢様ってのは間違いなく萌黄さんだろう)
紅の頬を雨滴以外のものが伝う。最後にあった萌黄の精神状態から考えて、一人で出回るのはとても危険だ。
そこで、紅にふとした疑問が浮かんだ。
(精神状態もだけど、そもそも萌黄さんはかなりの火傷があったはずだ。さっき、あの男性は萌黄さんの体はともかくと言っていた。それって――)
萌黄はアゥマを纏っていない。
であれば、魔道の回復術によって傷が癒えているとは考えがたい。多少、痛みが緩和する程度の効果は得られている可能性があっても、完治は到底あり得ない。元々、自己回復力を促進するのが回復術の効果なのだから。
「ただでさえ、儀式を控えて忙しい時だってのに」
紅の喉がひゅっと鳴った。実際鳴った音に、思案を中断させ慌てて口を両手で押さえる。
雷と話し声のおかげだろう。幸い、だれも紅の存在に気が付いている様子はなかった。とはいえ、変に欲を出して情報を得ようとするとろくな事が起きないのは先人からの教えである。
(ここは長官に連絡だけ送って、萌黄さんを探して保護するのを優先するか。というか、あの父親が萌黄さんを軟禁、ましてや監禁しておけなんて言うだろうか)
多少の疑問を浮かべながらも、紅は裏道を抜けるため膝を伸ばす。
「ったく、本当だよ。あと少しでおれたちだって金をがっぽりもらって、自由の身になれるってのに! これじゃあ、自由どころか命が危ない。魔道府ってとこに情報を売った方が今後の安全も生活も確保できるんじゃないか?」
「なにバカを言ってんだい。その魔道府の副長とやらがうちのお得意様なんだよ?」
「だいたい、先日の変死体もお嬢様のしわざって可能性も高い。まったく、なにがどうなってんだよ! 命あっての物種だっつーの」
ぎくりと、思わず紅の動きが止まってしまった。
(その変死体はアゥマ鑑定の結果、燕鴇だったと聞いた。燕鴇と萌黄さんに接点なんかあったのか?)
燕鴇が行方不明だと紅に教えてくれたのは旭宇だった。白磁の訪問の際、慌てて二人を見送った紅に旭宇がこっそりと耳打ちしたのだ。
――どうやら、宮勤めの燕鴇ってやつが、使いに出たっきり失踪したみたいだぞ。しかも街はずれの森の中で発見された変死体のアゥマと、そいつの情報が一致したときたもんだ――
燕鴇は紅にとっても決して好ましい人間ではなかったけれど、衝撃を受けた。学院同期の死にざまに動揺している隙に、旭宇は手を振って門を出て行ってしまった。
まるで『まだまだ、ってね。精進したまえ』と説教されている気がした。心葉堂の紅としては、もっと情報を引き出すべきだったとは自覚しているから。
「しっ。いくら人通りがないとはいえ、口を慎みなさいよ。宮廷の陰がどこにいるか」
女性が深く息を吐き、周囲を見渡す。顔は青白く身を震わせている。肌に張り付いた茶色の髪をよけるでもなく、己の腕を抱いている。それは吐く息の白さよりも、恐怖からのもののようだった。
「どっちにしろ、だ!」
男女が足を動かそうとしたところで、紅がいるのとは反対側の路地から少年が飛び出してきた。
雨のせいで短い髪が張り付いている。年の頃はまだ十を過ぎたばかりだろう。小柄な体がすっぽりと埋まる外套を握りしめ、息を切らしている。
「あっ、あちら、には、おっお姿は、みえません、でした! 東屋の、かたがたにも、聞きましたが、おなじで」
「やだねぇ、かわいそうに。こんなに息を切らして、頬を冷たくして。いったん、屋敷に戻りましょうよ」
四十手前らしき女性が少年の両頬を包み込む。親子にも見えるが、少年が気まずそうに耳を染め視線を逸らしているので違うのだろう。
ぱしゃりと、一人の男が水を蹴った。
「けっ。なんだよ。おいらたちには男がどうのとかいいながら、おまえだってガキを贔屓してんじゃねぇか」
「当たり前よ。なぁに? やきもちでも妬いてんのかい?」
女の問いに、男はかぁっと首まで染まった。と同時に、はんと鼻を鳴らし踵を返した。
やれやれと肩をすくめる女性に反して、少年は音を立てて男の横に並ぶ。
「すっすみません。僕が萌黄お嬢様を見かけた時に、ちゃんとお引き留めしておけば」
涙目の少年に、男性の一人は居心地悪そうにがしがしと頭を掻いた。その無骨そうな手を少年の頭を乱暴な調子で叩く。もう一人のやせ形の男性はさっさと先を行っている。
「ばーか。だれもお前に期待しちゃねぇんだよ。あのお嬢さんの後を追い過ぎても、主様から逆に諫められるだけだしな」
「でも……あの温厚な主様が激昂なさるんですよね? いっ命がないとか。僕、クコ皇国に来る直前に拾われたけど、主様も萌黄お嬢様もいつも優しかった。萌黄お嬢様は僕のこと弟とか、時には息子みたいだって可愛がってくださった」
足を止めた少年の声は、まだ紅にも聴いてとれる範囲内だった。だから自分と同じ疑問を口にした少年に、紅は先ほどの自戒も忘れ――話に聞き入ってしまっていた。
いつもなら気がつくはずの、わずかな雨音の乱れにも反応できずに。
「年はそんなに離れていないのに、変ですよね。息子なんて。でも、僕、母さんも姉さんも、小さい頃に亡くしてたからすごく嬉しくて。主様も、お嬢様の言動を諫めたりなんてしないで、静かに笑ってくださっていた。なのに、そんな主様が、お嬢様がちょっと抜け出したくらいで」
そこまで言って、少年は喉を詰まらせた。
「あー、そーいうことかい。あんたが思っている主様は違うから」
紅はその言葉で完全に、警戒に注いでいた神経を逸らしてしまった。身を乗り出して――急激に視界が歪んでいく。それと同時に、剛力で頸部を締められていると認識した。
激しさを増す雨の中、少年が驚きの声をあげたのはわかった。むしろ、視界が閉じていく中で耳だけがやけに冴えていく。呼吸が止まる直前で、路地奥に投げつけられた。
「かはっ! げはっ!」
紅は激しくむせかえりながらも、自分にゆらゆらと向かってくる姿を捉えようと頭を起こす。
(相手は確実にオレを殺せたのになぜ手を離した。いや、これだけの音にも路地の彼らは反応しない。相手は結界を張って――)
地面に着いた手が滑る。再び石畳に体が打ち付けられた。
(だからっ! いちいち動揺するな!)
紅は唇を噛む。じわじわと口内に血の味が広がっていく。
魔道府で話している時は所詮机上の論だった。感情を持ち込む隙がない、いや持ち込まないように配慮された空間で事実と材料を提供されていた。だから、萌黄に感情移入せずにいられた。どうでもいいとさえ思えた。だって、紅にとって最優先は心葉堂であり、もっと言うなれば妹の蒼だ。
(華憐堂は悪で、傀儡ともいえる萌黄さん以外は全部――たたきつぶす対象なら良いって。オレは蒼を、心葉堂を守る。それだけは揺るぎないのに。この期に及んで、一体なにに心を揺らしているんだ!)
けれど、華憐堂というよりも萌黄自身を慕う存在を知ってしまった。多くはないだろうけれど、少年のように萌黄や主人を家族と想う人がいる。その事実が紅の胸にのし掛かってきた。
「どういう意味ですか?」
「だからね、漣坊や。違うのよ。わたしらが言っていた主様ってのは、湯庵様なのよ」
雨音に対抗してかなり大声になっているのに、会話の主たちは気づいていないようだ。紅にもはっきりと聞こえる音量で、女は言い切った。
(湯庵が、主? 確かに力関係を見ても、店守という立場にも関わらず、湯庵が萌黄さんを押さえ込んでいるのは見て取れた。萌黄さんの父である華憐堂の主人がそれを見逃しているということは、つまり、主人も湯庵に頭が上がらないということを意味する。別におかしな表現じゃない)
他の店と異なり、ほとんど会合にも出てこない主人を考えれば、店のものたちにそう思われていても自然なことだろう。
「そうなんだよ。坊が憂うことなんざないんだ。ここだけの話だよ? なんせ、湯庵様は萌黄お嬢様の本当のおと――」
紅の前にしゃがみこんだ人物が、そっと紅の耳を塞いだ。肌に触れる細指は氷より冷たく、痺れを誘う。
「あなたってば、またこんなところで道草を食っていらっしゃったのね。はやく、かえりましょう? 今日は随分と冷えますから、あなたの大好きな燗を用意いたしますね」
蕩けるほどの微笑みを浮かべた萌黄が、紅を見下ろしている。
そして、華奢な身体の奥で、鮮血の花が咲いたのが見えた。大小の花弁が、舞った。
そこで紅の意識は途絶えた。




