祖父の不在
「うっ、ん」
やけに体が痛む。まるで背中に鉛が乗っているようだと、紅は思った。
(いや、鉛なんてものじゃない。頭先から足先まで、何かに地面に引き寄せられているみたいだ)
紅はまどろむ意識の中、持ち上がらない体に深く息を吐いた。
夢と現実の間にいるような気持ち悪い感覚だ。意識は割とはっきりとしているのに神経が迷子のような。
(前にもあったな。このアゥマを視る能力の制御訓練を始めたころ。魔道府に勤め始めて弐の溜まりの人間である重圧感を改めて受け止めた時、店長見習いとして働き始めた時。どの時も蒼が――)
体が重い中、口元と頬だけがふっくらと持ち上がった。
目を閉じていてもわかる。いつも自分が追い詰められた時に、ぎゅっと手を握ってただ側にいてくれた存在が今の側にあると。とくんとくんと染みこんでくる体温を認識する度、紅は自分の心臓が確かに動いていることを感じた。
(ここは……蒼の部屋か)
何度か瞬きを繰り返すと、ようやく視界が鮮明になっていった。それと同時に耳に激しい雨音が届いてきた。
渡り廊下の手摺を打つ雨が、扉を隔てても聞こえてくる。雨が弾かれ、吸収される音を耳にする度、紅は自分の手にあるぬくもりを自覚していった。
そうだと、深く息を吐く。
(おじいが旅に出て、早四日か。蒼の師匠である黒龍さんに、転移魔道をお願いするって言っていたから、もう萌黄さんたちの故郷に着いてはいるよな。故郷っていうか、廃墟か)
寝ぼけ眼で、紅は自分に言い聞かせるように――確認するように頭の中で呟いた。
✿✿✿
蒼が心葉堂の溜まりの水を萌黄にかけた日のできごと。
見た目には火傷などないものの、萌黄は全身をかかえてひどく恐ろしい叫び声を上げ続けた。あっけにとられる紅と蒼をよそに、華憐堂の店主は動揺することもなく萌黄を店奥に連れて行った。店守の湯庵など、目を見開いて歓喜をあらわしてさえいた。
そうして、呆然とする蒼を支える紅の二人に向かって、深く頭を下げた。
――心葉堂の……弐の溜まりのこの純度と精度。壱の溜まり以上のアゥマとは――
わずかに見えた湯庵の口元は確かにそう動いていた。能力を解放したままでいた紅には、アゥマが音を届けてくれた。
紅は蒼を立たせる振りをして、湯庵から顔を逸らした。が、あの狡猾な老人のことだ。紅の動揺に気がついていただろう。実際、湯庵は粘っこい笑みをにたりと浮かべた。
演技くさいとは思いながら、紅は視線を見せ奥へ続く扉に投げた。まるで、萌黄に動揺していると言わんばかりに。
「萌黄さんはどうされたんでしょうか」
「あっしにもわかりやせん。けれど一点明白なのは『心葉堂の水を浴びて苦しんでなさる』ってことだけでやんす」
紅は内心で、落ち着けと汗を飛ばしていた。
正直に言えば、萌黄の様子自体は想定内だ。偽りの生を続けているのであれば、純度の高い心葉堂の溜まりの水に何らかの反応を示すとは思っていた。
(偽物と本物。本物が及ぼす影響はあまりに強いか、はたまた本物が偽物を拒否しているか)
それに、これは萌黄の正体と華憐堂の化けの皮をはぐことに繋がるだろう。
諸刃の剣。
それは間違いない。現代では意味合いが薄れているとはいえ、浄練はそもそも汚染された世界のあらゆるものを浄化するための能力。特に食物においては重い意味を持っていた。若い人は娯楽の意味を持つが、中高年には未だに恐怖は根強くあると聞く。
(事情を知らない人からしたら、明らかに危ないのは心葉堂の水の方だ。華憐堂がこのことを吹聴するのは確実。心葉堂が非難の的になり、ひいては魔道府にも手が入るだろうな)
紅は呆然と鞄を抱えている蒼の腕からそれを取り自分の肩にかけると、きつく蒼の手を握った。あまりに強い力で持ち上げたからだろう、蒼は我に返って、そして震えだした。
紅はこんなにも目を泳がせる蒼を始めて目の当たりにしたかもしれない。
(均衡状態が崩れるには最適なんだろう。それでも、オレは。オレだけは蒼を最優先した対応をとるって決めているから)
大雨のなか、紅は蒼の手を引く。
「おっお兄ちゃん、私。あれ、萌黄さん、が」
「大丈夫だ。蒼も心葉堂の溜まりも悪くない。それだけは自信を持っていろ。オレが絶対保証――証明する。おじいや翡翠双子はもちろん、紺兄や長官だって絶対に蒼の味方だから」
少なからず紅にも動揺があったせいか、言い聞かせるような口調になってしまっていた。
すぐに紅は気がつき蒼を振り返るが……蒼はぐっと唇を結び、こくりと頷いた。絶対的な信頼のまなざしで。
だからこそ――かつて自分を肯定してくれたこの子の信ずることならば、なんだって本当にしてみせよう。紅はその思いがあるだけで、なんだって頑張れる気がした。
白龍が旅立つと言い出したのは、華憐堂での一件があった次の日だった。
紅はもちろん事情を察していたので、表面上で「なにもこんな時期に……」と怒るフリはしても、本気では言えなかった。
街がいよいよ本格的に危なくなっている今、フーシオとして魔道府の密命を受けているのは想像に難くない。
そして白龍は紅が魔道府に呼ばれた事情も知っているのだろう。だから紅に対しては、
「すまん、すまん」
としか笑わなかった。
「ただ、蒼が……あいつ、納得はすると思うんだ。おじいが決めたことだから」
「おぅ。蒼はわしに似て傍若無人に思えて、人の意志を曲げてまでの我が儘はいわなんだ」
二人の問題は、蒼だった。
華憐堂の件が街中に広まっている。目撃者がいる状況でもなかったにも関わらず、やけに具体的な萌黄の苦しみようを伴って、だ。
異常気象を解決できない魔道府への不満が、フーシオである白龍が管理する弐の溜まりの心葉堂に絡んでしまったのだろう。尾ひれがついて首都中に反心葉堂が蔓延しつつある。
「おじい、どっかにいくの?」
談話室に響いた、いつもより静かな蒼の声。よく通る分、胸を締め付けてくる。
「蒼。まだ熱が下がり切ってないだろ。寝てないと」
「んっ。でも、おじいがどっか行っちゃう音がしたから」
櫛も通さずにいる髪のまま寝巻で佇む蒼は、静かに零した。青藤色の髪が揺れる。
その姿に胸が痛んだのは紅だけではないだろう。尋ねたはずの蒼の方が、答えを聞いたとたん、どこかに消えてしまうのではないかと思えた。
「ほら。まだ熱がある。寝台に戻るぞ」
思わず紅は蒼の肩を掴んでいた。妹が消えてしまう気がして。どこかに連れて行かれてしまう気がして。
そんな紅に蒼はすとんと寄り添ってきた。腕に自分のそれを絡め、潤った目を伏せた。紅はやんわりと蒼を抱きしめる。
「おじいは任務で出かけるが、どこかではないよ」
擦り寄る兄妹を前に白龍は口を開いた。そして、ぎゅっと靴のひもを結い立ち上がった。老人だというのに、紅より背筋が伸び、その立ち姿は凜々しかった。
「しばらくフーシオの任務で留守にするが、ひと月以内には戻ってくる。約束じゃ。わしは蒼と紅のおじいじゃからのう。ここにしか帰らぬ」
白龍はいつもより真剣な声で蒼と紅を抱きしめた。ぎゅっと、その身に引き寄せるくらいの強い抱擁。同時に何度も頭を撫でる。
その仕草に、紅は泣きそうになった。
「蒼はいつもみたいに心葉堂を守ってくれ。心葉堂の茶師はもう蒼なのだからな」
「わ、たしは」
「蒼が修行から戻ってきて半年以上がたつが、わしも麒淵も一度たりとも不安になんぞならんかった。だれがなんと言おうとも、わしらからしたら、蒼は心葉堂の茶師じゃ」
低く落ち着いた声に白龍の心内を感じたのか。蒼は、目頭にぷっくりと滴を溜めたものの、
「うん、わかった。頑張るよ。私は心葉堂の茶師だ」
と小さく笑った。
その笑顔に紅は一抹の不安を覚えた。いつも感情のまま、屈託笑ったり泣いたりする妹が、どこか嘘くさい笑顔を浮かべている気がしたのだ。それはある人に抱いている違和感とひどく似ていて――。
「蒼、やめろ。そんな顔は、やめろよ」
肩を乱暴に掴んだ紅に、蒼は泣きそうな顔で笑いかけた。
いや、実際に蒼は泣いていた。ぼろぼろと零れる涙。平然と涙を流す蒼に、逆に紅は慌てた。袖口で必死に拭うが、当の蒼は嬉しそうに瞳をつぶすばかりだ。ついには、紅の腕を掴み俯いてしまった。
「蒼?」
名前を呼んでも、蒼はただ静かに涙を床に落とすばかりだ。
堪りかねて紅は白龍を見上げるが、白龍もひどく疲れた顔をしていた。この中で両者の事情を知っているはずの紅が一番、取り残されている気がした。
「私は……」
蒼はぎゅっと紅に抱きついて、身体を離した。
目元を赤く腫らしながらも、蒼は花を咲かせるように笑った。そのまま身を翻して、白龍と手を打ち合わせた。
「おじい、絶対だよ、絶対に元気で戻ってきてね! 戻ってこれなかった時の言い訳は、戻ってきた時に考えるから!」
「おうっ! 絶対じゃ!」
それが合図となり白龍は足を動かした。すれ違いざまに蒼と紅の頭を撫でて。
✿✿✿
「おとうさん、おかあさん」
蒼の寝言で、紅は目を覚ました。
ぎゅっと握りしめたはずの指の爪が刺さることはなかった。代わりに熱いくらいの体温を感じた。ひどく熱いが、決して嫌ではない。むしろ、すっぽりと自分の手に収まっている存在が、可愛いと想える位だ。
(そうだ。おじいが旅に出てからも、蒼の熱は引かずにいるんだっけか)
寝台に突っ伏したまま、紅はほんの少し手に力を込めた。すると、すぐにと握り返された。
本当にこの妹は困る。普段は紅をからかったりするくせに、ふいに全力で甘えてくるから。
なんとか頭を動かし、寝台に横たわる妹を見る。目の前の蒼は真っ赤な頬で荒い息をしていた。目に見てわかるほどに肩が上下しており、吐く息も白い。
「って。浸っている場合じゃないか。明日――いや、もう今日は水婆が看病に来てくれるって言っていたっけ」
紅の体が音を立てて持ち上がった。
枕元の可愛らしい時計に目をやると、昼時を示していた。胡蝶を模し、藤があしらわれた大皿ほどの時計は蒼のお気に入りの品物だ。蒼が修行に出る半月ほどまえに両親が送った物。
時を刻む道具を、わざわざ自室から離れる娘に送った意味。
それは、蒼と離れている時も蒼を想っている証しであり、離れていても確かに蒼の時は刻まれ成長していくもの。
そういう思いを込めて送ったのだと、紅は茶を啜る両親から聞いた。
「ほんとさ、蒼は苦しい時ほど、言葉にしない」
手は握ったまま、紅は寝台に腰掛け直す。
見舞いに来てくれた真赭と浅葱もどこか違和感を覚える様子だ。真赭などは真っ青な顔をして、蒼におかしなアゥマの気配はないかなどと尋ねてきた。
(そんな気配はないと否定しても、ちゃんとオレの能力を使って調べてくれなんて言い出すし、華憐堂の一件って訳でもなさそうだったな)
結局、不安の原因を聞きだせなかった。浅葱がそそくさと真赭の手を引いて帰ってしまったのだ。
真赭は赤ん坊の子ども時から知る関係だ。何かしらあるはずだと、紅にはわかる。
「明後日また見舞いに来るって言っていたから、今度はきちんと聞いてみよう」
そう呟いたところで、魔道の呼び鈴が部屋に鳴った。音色からして、住居側の門の方のようだ。
(こんな時間にだれだろう)
心当たりのない訪問者に首を傾げつつ、紅は蒼の手からそっと自分のものを抜く。一瞬だけ蒼の指が引き留めたが、頭を撫でてやると抵抗はなくなった。
自由になった代わりに、寒さに身がぶるりと震える。腕をこすりながら、紅は雨が吹き込む廊下を進んだ。




