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紅暁②―小さくて大きな手―

 自分がしたことなのに。自分がしてしまったことに、後悔しかない。でも、現実を受け止めるしかないと、どこか冷静に考えてしまう。

 心葉堂はとてもあたたかい。家族が仲良く、助け合う。蒼が拾ってきたような紺樹も、最初こそ蒼以外を警戒していた節はあったが、今や家族同然の仲だ。紅も兄ができたような気がして、嬉しかった。


(だから、怖かった。オレは家族じゃないって、言われるのが。オレは、母さんが望んで生むことになった人間じゃないから)


 紅は自分の出生を知って、ずっと怖かった。あの優しい家族が、本当は自分が生まれる前からずっと疎ましい感情を抱いていたのだと考えると、苦しくて堪らなかった。

 紅を慈しんでくれてはいるのを実感していた分、怖かったのだ。子どもである自分が理解していないだけで、ずっと母と父、それに祖父を苦しめていた可能性を考えると、呑気な自分が嫌になった。


「おにい――」


 顔の泥を掌全部で拭いながら、蒼が顔を上げた。表情は隠れている。でも、きっと、いつもの色鮮やかなものを見る煌めいた目でないのは、火を見るより明らかだ。


「だから言っただろ! さっさと帰って結紐を洗ってもらえよ! 紺兄にもらった大事なモノだろ。オレなんか本物の兄じゃないんだ。紺兄に、兄になってもらえばいい!」


 紅は自分の上着を脱ぎ、蒼に投げつけた。軽蔑の目を見たくなかったのと、蒼が風邪を引かないようにと。顔を拭くモノがないせいで、目がどうにかなったら怖い。そう思ったのだ。

 それと同時に、大人の紅は自分のむちゃくちゃな言い分にうんざりとした。


(これは、ただのやきもちだ)


 自分が紺樹を慕うのはいいが、蒼が紺樹を『こんおにいちゃん』と抱きつくにもやっとする。当時の自分が抱いていた葛藤を思い出し、紅は顔を覆いたくなる。


「――もん」

「え?」


 踵を返し、逃げだそうとしていた紅の耳に涙声が届いた。

 そうだと大人の紅が思った瞬間、視点が変わった。随分と高くなった目線。その目には、雨が降り出した中で動かない子どもが二人映っている。

 きょとんとしている幼い自分と、睨むように顔をあげて上着を抱きしめている蒼。

 駆け寄ろうにも、地面に足を縫い付けられて微動だにできない。


「こうきょうおにいちゃんしか、あおのおにいちゃんじゃないもん!!」


 痛むだろうに。幼い蒼はずりむけた膝に一瞬顔をしかめたが、ぼろぼろと涙を零しながら唇を噛みしめた。小さな紅葉の手を紅にのばし、長い上着の裾を掴む。その拍子に蒼は足を滑らせ、べちゃりと顔面から顔を突っ込んだ。

 それでも、幼い紅は動かない。


(試し行動ってやつだよな)


 大人の紅は思わず苦笑を浮かべた。


「うべぇ。あお、雨の音はすきだけど、どろんこは苦しい。お母さんはどろのなんかを顔にかぶせて、おはだにいいのよっていってたけど、あおはやだなぁ」


 蒼は泣くどころか、うんざりとした様子でべぇっと舌を出した。


「ぷっ」


 幼い紅は大きく吹き出していた。そして、すぐに紅は口元を押さえた。いとも簡単に笑った自分に嫌悪を感じたのだ。

 ぺっぺと泥を吐いていた蒼は、首を傾げながらもよろよろと立ち上がった。それを横目に入れた紅は胸を掴み、大きく一歩を踏み出した。蒼とは反対方向に。


「おにいちゃん、どこに行くの?」


 蒼に『お兄ちゃん』と呼ばれて胸がぎゅうっと締め付けられた。

 だって、自分は蒼と半分とちょっとしか血の繋がりだけ。その時の紅にとっては、その中途半端さが苦しかった。


(半分とちょっと。その事実がひどく重かったんだ。いっそのこと他人なら良かったのにって思った)


 大人の紅の意識が、幼い紅の血をさらに凍らせた。

 

(自分は、蒼が大好きな母や祖父を苦しめた末に生まれた子ども)


 そう考えて、幼い紅の目が熱くなる。

 そして、大好きな父は自分をどんな風に見ていたのだろうか。憎い双子の兄と愛する妻との子を、どんな気持ちで育ててきたのだろう、と。


(愛する人を奪われ、孕まされ、あげくに育てる羽目になった父は何を思っていたのか。いつか腹を割って聞けたらと考えていたけれど、そんなことは永遠に叶わなくなってしまった。オレのことは良い。けど、父さんは悩みの種に恨み言のひとつも言えずじまい)


 大人になった今はよけいに苦しい。

 話す機会なんてこれからいくらでもあるなんて考えていたのに、結局は父の愚痴さえ聞けなくなってしまった。


(オレなんて生きてたって、みんなを不幸にするだけだ。オレはあの頃、そう思っていた)


 幼い紅は思っていた。いっそのこと自分が死んでしまえば、みんなすっきりするんじゃないかと。死ねば過去になる。こんな人もいたと思い出すだけになる。


(でも、そんなの違う。父さんと母さんが亡くなって半年以上経つけど、未だに思い出になどなってくれない。なるはず、ないんだ)

 

 居間や店先から、なんなら風呂場からふいに父の穏やかな声や母の悪戯めいた言葉が聞こえそうになる。夜中に台所で酒のつまみを探す父の姿に遭遇する予感さえする。

 そう思って数秒後にあり得ない現実だと理解して苦しくなる。


(だから、わかるよ。貴方が萌黄さんをあんな風にした気持ちは。きっとだれもが一度は願うことだ。亡くした人を取り戻したいっていうのは)


 でも――それは想う相手の幸せとは同等(イコール)にはならないだろう。死を生に変えても、それは本来の生とは絶対違うから。


(禁書の相手もそうだったのだろうか。それでも、きっと望んだのだろう。相手の声を、言葉を。息吹を。そして望みを叶えられる術を使えたなら、それはきっと水を口に運ぶほどに自然な行動なんだろうな)


 望まれてそこにあるのは、萌黄を視ていればわかる。

 同時に、なんてちぐはぐな存在なのだろうと思う。それをかわいそうだと、紅は思う。だって、そうだろう。


(そこに、萌黄さんの意思はないのだから。恐らくもなにも、望んだ状態とは言い難い)


 他の男(くれない)を想って、本来の思い人を父と呼んでいる。

 華憐堂に連れられた夜に見せられた態度から、萌黄と父と呼ばれる存在の関係は察しがついた。だから、疑問が残った。どうして、萌黄の父と名乗るあの人はそれを容認するのだろうと。


「だから、蒼には関係ないって言っているだろ! じゃあな」


 長い沈黙を破って幼い紅が叫んだことで、意識が目の前に戻った。

 睨んでいる先には、泣きべそをかいている蒼がいる。紅はめったに怒鳴ることなどなかった。だから蒼は怖かったに違いない。なのに、がたがたと震える小さな体はしっかりと泥を踏んだ足に支えられているように思われた。


「わかったよ」


 わかったと言いながら、蒼は歩き始めた紅の後についてくる。

 ぐちゃぐちゃとした泥にお気に入りの靴を沈めながら。幼い紅がちらりと横目で見ると、ずぼっと思い切り水たまりに足をとられていた。

 右手を伸ばしかけて、その手をきつく握った。本当は手を伸ばして頭を撫でて、いつも通り顔を拭ってあげたかったのに。紅の中に浮かんでいる黒い感情が、それを邪魔する。


「いい加減にしろよっ!」

「しない」

「さっき、わかったって言ったじゃないか!」


 怒鳴り散らす自分の声に、耳が震えた。幼い紅は、再び蒼を突き飛ばした。でも、蒼はぴくりとも動かなかった。そうして初めて、紅は自分の手が震えていることに気がついたようだった。寒さでかじかみ、震えで力が入らないでいた手では、蒼さえ動かせなかった。

 幼い紅は自分の手を取り、必死でその震えを押さえ込んだ。けれど、それは片手で押さえたことによって全身に伝わってきてしまった。


「うん。おにいちゃんが、あおはかんけいないっておもってるのはわかったよ。でも――」


 幼い紅の手を包み込んだのは、それより何倍も小さなぬくもりだった。

 ちいさくて短い指が、懸命に紅の拳を包み込もうとしていた。いつもなら『ちっちゃいなー』といじる、やっこい手で。

 それだけで、紅の瞳から涙がこぼれ落ちるには十分だった。


「な、んで、だよ。こんな、の」


 言葉より視線より、笑顔より。なにより欲しかったぬくもり。ただ、自分を必要として触れて欲しかった。

 それでもまだ素直になれずにいた。


「あおはおにいちゃんが好きだし、いっしょにいたいもの。こうきょーおにいちゃんが、あおをどうおもうのか、かんけいないっていうなら、あおがおにいちゃんを大好きなのも、おにいちゃんにかんけいないし、かってにするもん」


 真っ直ぐに向けられる牡丹色の瞳。憎いと思った。なにも知らない純粋な眼差しが。

 紅の歯がぎしりと音をあげた。


「オレなんか、いなきゃよかったのを知らないくせ――」

「ばかぁ!」


 目の前にいるのは、全身を震わせている蒼だった。大きな瞳にいっぱい涙を溜めて、白くて柔らかい頬にたくさんの涙を流している。

 ぼたぼたと落ちてくる滴がうっとうしいと思った。手だけではなく、袖に容赦なく染みこんでくる涙が。雨に濡れていて今更なのに、蒼から流れ落ちるものをうっとおしいと思った。


「もういい」

「よくないよ! だって、だって! あおはたしかにこどもで、おにいちゃんのことはわからないかもだけど、泣いてるのはわかるもん! おにいちゃんのなかのアゥマも悲しいって!」


 蒼の言動に紅は正直戸惑った。戸惑って無視を決めようと踵を返しかけた。


「アゥマを感じる、あおがきもちわるいカモだけど! ほんとに、そうおもうの!」


 蒼は紅と同じ隣国王家の血筋だが、可視能力を引き継いでいるかはあやしいところだ。

 たった一度。この一年前に、初めて溜まりの守護者である麒淵に会った際はアゥマを視たらしいが……あれっきりだと聞いている。蒼は粒子を視ることはできるが、紅のようにはっきりとした個の存在としては認識できないはずだ。

 大人の紅の思考とは別のところで、幼い紅は背筋が凍っていた。


(気持ち悪いはずなんてない。オレはむしろ怖かったんだ。アゥマが大好きな蒼が、アゥマそのものが持つ黒い部分まで見えるのが)


 幼い紅も頭では理解していても、苛ついて堪らなかった。


「嘘つけ、見えていないくせに。感じるってなんだよ」

「アゥマっていうのは、気持ちのかたまりだから! キエンが守っているおもいも、おにいちゃんが大切にしたいおもいも、お父さんやお母さんがだいじにしたい願いも! あおは、しっているよ! ただ、しっているだけだから、ちゃんと、守れるようになりたいけれど」


 その言葉に戦いたのを覚えている。

 幼い蒼は紅を安心させたくて言ったのだろうけれど。紅からしたら、恐怖でしかなかった。この優しい妹がアゥマから感情を読み取っていることが。


「あお、おにいちゃんがなんでかなしいかはわからないけど、泣いているのはわかるもん。それだけじゃだめなの? あおは、おにいちゃんが悲しいのも泣いているのもいやだもん。でも、いちばんいやなのは――」


 蒼はぐいっと強く目元を拭った。踊る視線。紅には視えている。アゥマが蒼を励まし、慰めているのが。だから、余計に苛立ったのだ。

 ぎりっと拳を握った瞬間、ふわりとアゥマが拳を撫でた。


「だから、兄ちゃんじゃないってば!」

「じゃあ、くれないだ! おとーさんたちは、くれないって呼ぶし! こんおにいちゃんも、くれないって呼ぶし!」


 当時の紅は『そういう問題か?』と、斜め上を見てしまった。

 少しの沈黙を合意だと思ったのか、幼い蒼はむんと胸を張った。


「くれないが自分をいらないって思うことが、いや。あおは、くれないが好き。大好きなの。こうきょーおにいちゃんでもくれないでも、どっちも好きだよ!」


 ずくんと激しい音を立てて心臓が跳ねた。無意識に胸に手を当てる。気持ち悪いくらいどくどくとしているのに、不思議と穏やかな気分になった。

 おかしいと思う。妹に兄としてではなく、自分として認められて初めて、自分は存在していいのだと感じたのだ。そうして、ちゃんと彼女の兄になれると思った。


(そうだ。この時から、蒼はオレのこと兄じゃなくって『紅』って呼ぶようになったんだっけか。甘える時は兄ちゃんて呼ぶけれど、オレがどっちでもいれるようにって)


 幼い紅は妙におかしくなって、くつくつと笑い始めた。それがやがて弾けて、腹を抱えて笑い始めた。森中に響く笑い。雨音さえもはねのけて、紅の中音程の声が音符を伴うように響き続けた。

 こんな時、いつもなら一緒になって笑う蒼もさすがに驚いたようだ。きょとんと大きな瞳を瞬かせ、固まった。


「蒼」


 未だに腹を抱えたまま、幼い紅は蒼に向き直った。

 ぽかんと口を開けていた蒼は、びくりと跳ね上がった。それは、あまりに可愛いほどに両足を揃えて本当に飛び上がったのだ。さっきまであんなに強気でいたのにと、紅は込み上げてくる笑いを遠慮なしに響かせた。


「うん、蒼。オレの妹の蒼月」

「ういっ!」


 しゃっくりのような返事をした蒼。なぜか真っ赤になって、もじもじと髪をいじった。いや、理由は明白だろう。だって


「お兄ちゃんにあおつきって呼ばれるの、ひさしぶりで、びっくりした」


と、はにかんだから可愛いと思った。

 そして、大人の紅も可愛くて仕方がないと思う。強気なくせに、変なところで臆病で弱気な妹が。大切なものを全力で守りたいといつも願う妹。だれよりも家族の幸せを願う妹。表情が豊かで茶葉が大好きで、なにより人が大好きな蒼。

 だから、なにがなんでも守りたいと思う。


(蒼はあの時、オレに生きる意味をくれた。蒼は意識していなかったのかもしれない。けれどあの時、蒼は確かにただの兄ではなく――いや、兄をひっくるめた『くれない』と『こうきょう』を欲してくれたんだと思ったんだ)


 偶然だったのかもしれない。蒼が本名の紅暁と愛称の紅を一緒に呼んだことも、ずっと着いてきたことも。

 それでも紅は嬉しかった。

 この小さくて大きな存在を守ろうと思った。どくんどくんと、小さな心臓が大きく跳ねるのがわかった。


(悪夢だとばかり思っていたけれど、よかった。大変な今だからこそ、自分の気持ちと存在を確認して、蒼を守りたいと再確認した。萌黄さんに――自分の願いを聞きたいと思えた)


 当事者である萌黄の願いを聞いたところで、事件の解決に直結するとは考えていない。それでも、少なくとも己の目標としては機能するだろう。


「わかった。一緒に家に帰るよ。だから蒼も約束してくれ。蒼も悲しくなった時には、オレに教えてくれよ? 蒼がしてくれたみたいに、絶対に兄ちゃんが守るから」

「うん! くれないとあおの約束! あおも、おにいちゃんをまもるからねっ!」


 しっかりと繋いだ手はとっても柔らかくて、小さくって。そして、とんでもなくあたたかかった。

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