東屋のソノ後
「こんなに胸が痛んだのは久しぶりだわよ」
東屋をふらふら離れていく燕鴇の背中を見送りながら、媼――水婆は重く息を吐いた。
二胡の翁――木爺は円卓の下から透明な瓶を取り出し、籠から出した硝子の杯にそれを注いだ。酒樽にたっぷりと残っている酒には、もうだれも見向きもしない。
「いうな。それが、わしらの仕事だ。蘇芳皇子直属、もっと言うなら魔道府の手足であり、フーシオの影だ」
「個人的にも、心葉堂にあだをなす者は許せないってな。それを別にして、あいつ、等々わしらの名を聞かなんだ。というか、わらし自体には全く興味をもっておらんかった」
糸目の老人こと石爺は、あざ笑うかのように口の端をあげた。
そう。燕鴇はついに、老人たちの名を聞くこともなければ、その存在自体に興味を持つことはなかった。幻術と薬で正常な判断が不可能だったとはいえ、ただ自分を包み込む都合の良い存在としか扱っていなかったのは明白だ。
「常ならせんことだが、わしらとしても何度か気がつく警告は与えてやった」
「それ以上に、自白の誘導魔道は使っておったがのう。まぁ、わしが酒を止めた時点だったら、まだ最後のあれは口にせずに済んでおったかもしれん。なんにせよ、あれはなおらん性分じゃ」
「自尊心を満たす程度の情報でとどまっていたなら、これからそれなりに出世の道もあったでしょうに」
ぽつりと落ちた水婆の言葉は、思いの外空気を重くした。
「しかたがなかろう」
彼は踏み込んではならないところに足をつけ、術や薬を使われたとはいえ、口外してはならないことを、あろう事か初対面の人間たちに話してしまった。
彼が今後、だれにも重大機密を漏らさないという可能性は絶対的に打ち消され、証明されてしまったようなものだ。
「あの子に秘密を漏らした男とて、ずっと飼うつもりはなかっただろう。機を見て捨てられるのが末路だったのは想像に難くないわい」
石爺が水煙草をとりだし、ふぅっと息を吐いた。上質なアゥマが使われている煙草は、実にうまい。甘い薬草の香りが、殺伐とした想像で寄った眉間の皺をほどいていく。
「主様」
全身黒装束の二人組が、東屋の死角に膝をついた。石爺がはげ頭を撫で、両の糸目を見開いた。深い緑の瞳には鋭さしか宿っていない。
木爺は、
「やれやれ、ようやく我らの任は一段落か」
と腕をまくった。そのまま煙草を脇に避け、取り出したつまみに舌鼓を打つ。
「参と伍か。あの小僧が少しでも件を、口にしようとするなら即刻処理してかまわん」
「はっ。先刻、華憐堂の娘と接触いたしました。対象者が酔った勢いで娘を小道に連れ込んだところ、かようなことを申しまして……」
視線を向けられた女性が魔道具を差し出す。木爺が目を滑らせていると、その両脇に石爺と水婆がしがみついてきた。木爺は面倒くさそうに二人をどけようと両肩をまわす。けれど、二人の老人はびくりともせず張り付いたままだ。
むしろ、両側から魔道具を掴まれ、木爺はため息をつくしかなかった。
「音声が織り込まれた魔道具ゆえ干渉するなよ。大事な証拠だ」
「わかっとるわ。しかし、これはベタじゃのう。これを救いようがないといわずして、なんとするか。この性根の腐り具合は、一昼夜でどうにかあるもんでない。ほらな、水婆。やっぱり、お前さんが気に病むことじゃねぇよ」
ははっと笑う石爺。一方、水婆は複雑な面持ちを浮かべている。
二人の老人から離れ、豊かな腹を撫でる。そこには確かに、今は脂肪だけがある。アゥマに満ちる川を眺める水婆。老人二人は、そんな背中を見つめることしかできない。
「こんな年になったってのに、性かねぇ。親の愛情に飢えた子を見るとさ、悔しくなるのさ。あたしの個人的都合だって理解していてもね。触れられる子どもがいるのに、どうして愛してやらないのかって。どうして卑屈さなど感じさせずに、愛して育ててやらなかったのかとさ」
どこまでも静かな声が、東屋に響く。水婆――水杏の憂いが空間を鳴らす。
宿った子を何人も産んでやれず、結局は子を成すことを許されなくなってしまった体。
水杏にとったら、子を持つ親はみな羨ましい。
「もちろん、偵察目的で接触した燕鴇と、赤子の頃から慈しんできた紅と蒼を並べる気はないけどさ」
それでも、理性とは別なところで、胸は勝手に痛むモノだ。
「水婆は相変わらずお人好しすぎる」
「愛情を受けすぎても歪む。愛情が枯渇しても歪む。ようは、本人のありよう次第ってな」
木爺が指を鳴らすと、ぶぉんと大きな羽音のような音を共に空間が揺れた。秘匿の結界が解かれ始めたのだ。
激しかった雨音が、より地面と水面を叩くようになる。
「あんな小僧に、お前さんの愛情はもったいねぇよ! 他に向ける相手がいるだろうに!」
ばんと腰を叩いてきたのは、石爺だった。
相変わらずのいい音に、木爺どころか当人の水婆も吹き出していた。どんだけ響くのかと。
わずかに顔を赤くしているのは、叩いた当人だけ。
「そうさね。白のじいさんが不在になるいま、蒼と紅は試練に直面する。あたしらが直接してやれることはほとんどないだろうけど。せめて、すべてが終わった後に復帰しやすいように頑張ってやらんとね」
水婆が振り向きざまに、腹をぼんと叩いた。がしがしとはげ頭を掻く石爺。
木爺は柔らかく微笑み顎をひと撫でする。そうして、引き締まった顔を控えている部下へと向けた。その瞳はどこまでも冷たい。
「引き続き、燕鴇と萌黄の後を追え。小僧の命が絶えるところまで追えなくとも、華憐堂が彼の最期に関わったという事実と、萌黄の動向を掴めればよい。それ以上踏み込めば、逆に揚げ足をとられかねん」
「はっ!」
「わしはあいつらのような者を理由に、お前たちの命を捨てる気はない。それだけは心して動け」
燕鴇にかけていたのとは正反対、皮膚を裂くような厳しい声色。であるのに、心に重く響く音だった。
「しかと承りました」
黒装束の男女は短く返事をし、さっと姿を消した。
それから数分後、結界は完全に解かれた。東屋には、もうだれの姿もなかった。
✿✿✿
それから幾日かの後、一人の男性の消息不明が公となる。
その者の名は、燕鴇。
燕鴇が宮に戻らないと武道府および魔道府に情報が入ったのは、彼が仕事の使いに出た二日も経ってからだった。
公式記録によると、見つかった遺体が燕鴇だと確定するにはひと月程かかったとある。
なぜなら、発見されたのは彼の一部と思われる断片だったからだ。
さらに付け加えるならば、発見された場所が特殊だったものあるが……なにより、食いちぎられたように地面に散らかっていた肉塊は、すべてのアゥマと血を抜かれてひからびていたそうだ。
ソレが燕鴇だと断定されたのも、証言者の言葉によるところが大きかった。
なお、彼の死因および証言者の発言の詳細は最重要機密扱いとなり、一般人どころか家族もついぞ真実を知ることはなかった。




