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幼い頃の名残

いったん蒼サイドに話が戻ります。

「かなり遅くなっちゃったなぁ! 紅に怒られるよね。参ったな」


 蒼は、うんざりと呟いた。人気の少ない大通りを小走りに進みながら。

 思いのほか大きかったはずの声は、そのまま空気に溶けていった。

 蒼は湿った空気を吸い込み、少しむせてしまった。


(なんか怖いや。今まで、どんなに人通りが少なくても、こんなに寒気を感じたことはなかったのに。やっぱり空気中のアゥマが乱れているせいで、精神も不安定になっているのかなぁ)


 考えて、蒼は足を止めた。そして、胸を押さえて大きく深呼吸をする。体にぴったりと密着した服が、ことさら呼吸の荒さを自覚させる。


(だから、アゥマ馬鹿って言われるんだよ。違うでしょ、蒼。まずは、心には人あり。なんでもかんでもアゥマに結び付けるなかれ! 不安定なのは自分のせい!)


 蒼は深く息を吐いて、ゆっくりと周囲を見渡す。肺を満たした湿った空気に、心音が静まっていく。雨の香りがするのでひと雨来そうだと思った。


(人、かぁ。それにしても中央通りも寂しいなぁ)


 閑散としているのは道だけではない。中央区に軒を連ねる店も、ひっそり息を飲んで身を潜めているようだと、蒼は感じた。

 いつもなら、夜中どころか朝方まで東屋で酒を飲み音楽を楽しむ翁衆や、屋台の顔見知りに『夜に一人で歩いてちゃー、兄ちゃんたちの説教で星が飛ぶぞ』などと、からかわれる。なんなら、そのまま送ると心葉堂にまでついてくる人たちで宴会が始まるのも珍しくはない。


「ひと雨きたって、それさえ楽しそうにする人たちが、東屋や屋台に人がいるはずなのに」


 蒼の脳裏には、否が応でも先刻の出来事が鮮明に思い出されてしまう。


 親友の真赭(まそほ)の店である蛍雪堂の地下で起きたソレ。


 謎の黒いアゥマに襲われただけではなく、秘密の扉の向こうにあった古書に衝撃的な歴史を突きつけられた。


(とにかく、帰らなきゃ。家に帰ればおじいも麒淵(きえん)もいる。いっそのこと、魔道府に行っている紅が、先に家に着いていてくれて遅いって怒られる方がいいや。早く、みんなに会いたい)


 古書が告げてきた話はとても遠い世界のものだった。偽の溜まりだとか、禁術だとか。蒼の現実からはかけ離れていた。

 であるにも関わらず、物語などとは一笑できず、どうしてか身近なものだと認識してしまう。


(えーい、走れ! モヤモヤする時は、はしれー!)


 再び駆けだすものの、膝さえ笑い始めそうだ。蒼は気がつけば全力で道を走っていた。

 それでも、恐怖は和らがない。だって、やっぱりそんな蒼を怪訝そうに見る人はひとっこひとり存在しないのだ。たちの悪い酔っ払いさえも。


(くる、しい。なんか喉にねっとりとした、粘膜がはりついてるみたい)


 そう思った瞬間、桶をひっくり返したような雨が、蒼の体を打ち始めた。大粒の雨が体を叩くのもだが、なにより視界が霞むほどだ。数歩先が霧がかっているくらいに激しい。

 蒼はとにかくと、近くの軒下に体を滑り込ませた。ずぶ濡れになり、重くなった髪をぎゅぅっと絞る。服よりなにより、両側で結った長い部分が重い。


(紺君が好きだって言ってくれた髪。長い部分を残しているなんて……私、どうかしてる)


 アゥマ使いは、古来より店を継ぐ前に他店で二年以上修行するのが習わしだ。近来では古い風習と言われ、さほど重要視されない。けれど、老舗茶葉堂でもある心葉堂は、慣習に沿い、蒼を桃源郷と呼ばれる場所へと送り出した。

 白龍の悪友でもある黒龍(こくりゅう)の店だ。

 そこで色々あり、幼い頃からずっと長かった淡藤色の髪は、両側以外は肩上ほどになってしまった。その時、さっぱりと全部長さを揃えられなかったのは、とっさに紺樹のことが思い浮かんだから。彼がずっと撫でてくれた髪。暇を持て余すたびに、指先でいじってくれた髪。


(桃源郷で友人を守りたくって、無我夢中だった。その時に後ろ髪をばっさり切られたのは、もちろん後悔してない)


 それでも、紺樹が好きだと言ってくれて淡藤色の髪を、できるだけ残しておきたかった。

 そうすることで……幼い自分を残すことで、物理的には遠く離れていても、心という点では紺樹の近くにいられると思ったのだ。


(前を行っちゃう紺君や紅に追いつきたくて頑張っていたのに、矛盾してるよね)


 紺樹の傍に戻ってきてからも、長い部分を残している理由。それは紺樹の態度だ。


(お父さんとお母さんが死んで戻ってきて以来、紺君はすごくよそよそしくなった。だから、よけいに)


 蒼は手絹(ハンカチ)で顔を拭いながら、目頭が熱くなっていくのを感じた。ふと、額を拭っていた手が止まった。額に施された守護術を思い出したからだ。


(出会った頃は、生真面目で器用貧乏だった紺君。不器用に冗談を口にして、私や紅を喜ばせるのが大好きだった紺君)


 長い部分の髪を指でくるりと巻いた蒼の瞳が、じわりと熱を持つ。


(それが、たった一年半の修行から帰ったら、飄々としてだれにでも好かれる胡散臭さが武器の魔道府次席副長になってた。帰ってくる半年前に会った時は、ちょっと様子がおかしくっても、いつもの紺君だったのに。戻ってきたら丁寧語でよそよそしいってなにさ)


 ぎゅっと両手で長い髪を掴む。

 ぼたぼたと音を立てて落ちる水が、まるで自分の内側から出ているようだと思った。

 落ち込んで立ち直って、彼の隣に並びたいと頑張って、また落ち込んだ。


「華憐堂さんが開店するまでは、私、ずっとアゥマが、茶葉がただ好きで、好きな茶葉を楽しんで貰いたいってやってきた。お父さん、お母さん。私、これからどうしたらいいのかな」


 蒼はとんでもない事実を知ってしまった。世界を揺るがすような、禁術の存在を。

 ただ大好きだったアゥマが、人の生死の概念さえも揺るがすような、とんでもない兵器になり得ることを知ってしまったのだ。それでも蒼にとってはやっぱり、紺樹への想いも同じように大事だと思えるのだ。矛盾がすごい。


(さっきは、家に帰れば麒淵もいるから安心だって思ったけれど。どんな顔をして、麒淵と顔をあわせれば良いのかな)


 麒淵は最古のアゥマ大国であるクコ皇国建国以来の守霊だ。加えて、壱の溜まりと同じ時期に生まれたとも聞いている。全部とは言わなくとも、禁書の存在やアゥマの恐ろしい裏の顔を知っている可能性は高い。

 本の内容を素直に全部話せばいいのだろうか。そうすれば、麒淵は全部を教えてくれるだろうか。いや、人間の書物なのだから禁書自体は白龍を主体に聞いた方がよいか。


(いやいやいや! おじいは書庫に封印の術をかけた張本人な可能性が高いわけだから、ちょっとでも話に出したら駄目でしょ!)


 ぶんぶんと頭を振った蒼は、めまいに襲われた。それが衝撃からなのか、心理的なものかわからず、大きなため息ばかりが落ちる。


(わからないよ。もう、何に悩んで良いのかが。これなら、ただ自分の不甲斐なさに落ち込んでいた数日前の方が、よっぽど気が楽だった。私なんかが知って、どうしたら良いのかわからないよ。こんなに重い歴史なんて)


 壁をずるりと滑る背中。

 幸い、お尻がついた石畳みは濡れていなかったようで、ひんやりとだけした。それがやるせなさを刺激してきて、蒼は鞄を抱える腕に力を込める。膝に抱えた鞄が、きしりと悲鳴をあげた。


「っていうか、雨が激しすぎて、ここまで濡れていたら走って帰っても被害は変わらないか」


 いつまでもじめじめキノコ並みに蹲っていてもしょうがない。

 蒼は顔をあげた。それでも、ため息をつくしかなくて、それが悔しくてもごっと空気の塊を飲んだ。


――こんっ――


 その直後、頭上からこつんこつんと堅い音が聞こえた。無視をしたが、やはり、しつこく鳴る。

 うんざりと見上げて、ぱぁっと蒼の視界が開けた。


「お兄ちゃん!」


 少し高いところにある硝子窓にへばりつき、冷や汗を流して拳を打ち付けているのは紅だった。

 なにやらあせあせと動いているが、どうやら萌黄に腕を捕まれて出口に移動できないでいるのがわかった。


(気が付かなかったけど、華憐堂さんの軒先で雨宿りしてたのか)


 萌黄になにやら言い、それでもしゃがみこむ蒼に必死にこっちにこいと仕草で伝えてくる紅。いや、人気のない場所でしゃがみこむなと怒っているのか。

 どちらにしろ、蒼は先ほどまでの鬱々とした気分も忘れ笑っていた。


「ほんと、紅ってば、だれにでも優しいんだから。萌黄さんの腕、本気で振りほどけないんだろうなぁ」


 蒼はこみ上げる笑いを堪えることなどできず、膝を伸ばす。それを見て、紅が『助けろ』と言わんばかりに眉を垂らしたのに、さらに笑ってしまう。窓硝子一枚を隔ててもなお、伝わってくるぬくもりを蒼を幸せだと感じていた。

 だからだろう。硝子窓の向こう側にある嫉妬も、その奥に潜んだ哀愁にも気がつくことはできなかった。


「お店もう閉まっているみたいだけど、入れてもらえるかな?」


 蒼は荷物を抱えてなおし、入り口の扉を手のひらで押した。

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