クコ皇国の茶葉堂③―兄のストーカー―
蒼の手元にある注文票には、可愛らしい丸みを帯びた字で『あまーいふわっとした気持ちになるお茶をよろしく!』と、書いてある。もちろん、使いで来ている紺樹の字ではない。
依頼主である魔道府長官の今回のご希望は薬効の強い丹茶ではなく、心を落ち着かせたり客を持て成したりする砂糖漬けの花茶だけのようだ。
(確か数日前に会った時に、肌が乾燥して、小さな痣が多かったな。それに良く寝ているのに疲れがとれないとも言ってた。でも、おじいに丹茶を頼むほどでもない、と)
蒼は閉じた瞼の裏に依頼主の様子を描きながら、ちょっとした違和感をあげていく。
そして、大きく頷いた。
「よし。玫瑰花の薔薇茶と、ちょうど最後の天日が終わった桜花の砂糖衣がある。これなら個人用の浄錬不要で、色んな人が飲めるから仕事休みにみんなで飲めるな」
かつて、この世界では生物や植物を存続の危機に追いやる汚染が蔓延していた。人類は生き残るために、あらゆるものを浄化するアゥマという物質を発見し、操る術を身に着けたのだ。
それがいわゆる『アゥマ使い』と呼ばれる存在であり、『職人』と同等の言葉でもある。
「本来であれば依頼主である長官が直接足を運ぶべきなのに、すみません」
「大丈夫だよ、紺く――副長。魔道府長官が忙しいのは知ってるもん」
蒼は櫃台に分厚い冊子を開く。魔道書式になっている記録だ。
「それに長官は常連さんで、都度、詳しい記録もとらせてもらってるし、数日前に街で会った際に体調について少し聞いてるんだよね」
茶の効能によっては、一度目の浄練で十分な場合もある。その種類も、希望があれば体調にあわせた簡易的な浄練調整を行うことも可能なため、注文が多い。それができるのも心葉堂の茶師の能力が高いゆえだ。
「わざわざ、ご多用な魔道府の次席副長におこしいただかなくとも、配達くらいオレが行きますよ」
紅が閻魔帳に筆を走らせながら、器用に紺樹を睨む。いや、見る限りは笑顔が浮かべられているのだが、背負う空気が不穏この上ない。
「もう来ちゃってる人に絡まないのっ!」
蒼の両手が大きな音を立てる。静かな店内には少々うるさい位に響いた。
そんな蒼に物言いたげな視線を投げたのは紅ではなく、紺樹だった。蒼はそこに含められた『もう来ちゃっているとは、結局は紅の味方をしていますよね?』という疑問は無視することにした。わざと紅を刺激しているのは紺樹だと言わんばかりに瞼を落とすと、予想通り紺樹は涼しげな笑顔で軽く肩をすくめた。
「というわけで、花棚の十三番から桜花砂糖の一式持ってきてね。私は薔薇茶の葉を魔道瓶に詰めるから」
「ぐっ。わかったよ」
紅は面白い音で喉を詰まらせた。
そんな紅に、蒼はしっかりと紙を握らせる。すると、紅も足を動かす。真面目な兄の意識を紺樹から逸らすには、仕事を任せるのが一番なのだ。
✿✿✿
会話が途切れると、店の静かさが一段と際立つ。
紺樹がぐるりと周囲を見渡したのが、蒼にはわかった。紅を引き離したのは間違いだったのか。いや、鋭い彼のことだから、どちらにしても店の状況に対する疑問を口にしただろう。
「それにしても、今日は客が一人もこないですね。茶房にも顔を見せてきましたが、いつもは甘味好きで賑わっている時間にも関わらず、苗さんの欠伸だけが聞こえてきました」
紺樹に言われるまでもなく、蒼と紅は痛いほど現状を把握している。
棚から櫃台に戻ってきた紅の大きなため息が店に響いた。朝から何度目のことかと、さすがの蒼も少々気持ちが暗くなってしまう。
「閑古鳥が力いっぱい鳴いていますよ。そろそろ休憩でもして欲しいんですけどね」
紅の表現はともかく、時間帯の問題ではないという意味だと理解できたのだろう。紺樹が、再度店内を見渡した。
棚にはいつもと変わらず、瓶が綺麗に並べられている。けれど、それを手に取り心を躍らせた様子で茶葉を選ぶ人々の姿がない。中途半端な時間帯であること、常連は月の満ち欠けにあわせて来店することを踏まえても、確かに、いつもならば十人前後は客がいるはずだ。今日は一年のうちでも珍しい静けさだ。
不思議そうな顔で店内を眺めている紺樹。その彼の袖を、蒼がくいっと引っ張った。
「紺く――副長は知らないの? 今日は、ちょっと前に開店した大通りの大型茶葉店『華憐堂』で大感謝大安売りをやってるんだってさ」
緩んだ空気に流されて、うっかり敬語をといてしまう。しかし、話題のせいか、紅も気に留めている気配はない。蒼は、ほっと胸を撫でおろす。
一方、紺樹の眉間の皺は深くなっていく。
「ほぅ、茶葉の安売り……ですか。華憐堂といえば、宝石を扱っていた黒曜堂があった場所に、数か月前に開店した茶葉店ですね」
魔道府に留まらず皇宮でも何かと話題になっていると、紺樹は教えてくれた。
「そうですね。異国から来た家族らしいんですけど、その国っていうのが内乱で滅びたとかアゥマの溜まりの枯渇で消滅したとか。一緒にきた人たちの人数も多く、助けもあって急成長中だとかいう店です」
紅は、険悪な空気を纏いながらも滑らかに口を動かす。
「紅は妙に詳しいですね」
軽く目を見開いた紺樹。無意識なのだろう。紺樹の腕が組みなおされ、わずかだが語調が喚問の色を含んだ。おまけにと、顎が軽く引かれた。
紅が述べた内容が内容だけに、彼がそのような態度をとってしまうのも仕方がないのだろう。けれど幼馴染として、また魔道府の彼の立場を十分に理解している兄妹は、呆れたため息を零すだけで特に顔色は変えることはなかった。
「副長は、溜まりの枯渇云々の下りをなぜオレが知っているのかって言いたいんでしょうけど。オレだって聞きたくって聞いたんじゃありませんよ」
「いや、まぁ、なんていうか」
紺樹は珍しく言い淀み、最終的には「申し訳ない」と気まずそうに頭を掻いた。
「紺君の職業病だね」
突拍子もない話だ。市井の人間なら、耳に入っても鼻で笑うような内容だろう。だとしても、アゥマ関連の管理を担う国の最重要機関である魔道府の次席副長の立場にある人間にしてみれば、噂が立つこと自体物騒なのだ。過剰とも思える反応も『職業病』だと理解できる。
未だに叱られた子犬のような顔をしている紺樹を、蒼はころころと笑った。
「溜まりの枯渇なんてことは普通ありえないもんねー。噂にすらならない眉唾物な話だから、紺君が気になるのも当然だよね」
蒼がそう言っても、紺樹は頬を強張らせたままだ。紺樹が気になったのは、その点だけではないのだろう。それを察した蒼は、普段は大きく丸い目を楽しげに細めた。
しかし、背後の黒い空気に喉がつまり、大人しく言葉を飲み込む。背を伸ばし、咳払いをすると、とまっていた作業に戻る。
「枯渇云々は置いておいても、私はそもそも華憐堂の商売の仕方が気に入りません」
紺樹がむすりと口の端を落とした。いつも胡散臭い笑顔を浮かべていることが多い彼にしては珍しい表情だ。
突っ込みたい。うずっとしてしまう蒼だったが、十歳年上の幼馴染が昔はよく見せてくれていた表情を楽しみたくて、視線で先を促すだけにしておいた。
「茶葉に限らず、浄練は守霊が守っている神聖な溜まりでだけ行えるものだろうに。華憐堂では客の自宅で、しかも金持ち貴族ばかり対象に診断と混合浄錬も行っているそうじゃないか」
溜まりとは湖のような場所で、アゥマが豊富に発生する源泉と呼べる存在だ。浄化を行う店の地下には必ずある。
「建国当初から宝石を扱ってきた黒曜堂だって、首都の大通りには溜まりがない――つまり守霊が存在しないから、心葉堂のように特別区域にある溜まりで浄連した宝石を持ってきてたって言うのに」
「紅がいうように、それねー」
蒼の返しに、紅は苦々しい表情を浮かべながらも紙袋を整える。
「蒼の軽い返事はともかく。一応、華憐堂が特別区の最奥に構えた工房が形だけだってのは、弐と参の溜まりにはわかります。それでも、魔道府が動かずにいるのであれば、変な行動はとれませんよ。庶民に何もかも情報が降りるなんて考えていませんし」
短い期間とはいえ魔道府に属していた紅らしい答えだと、蒼は思った。
「そこなんだよねぇ。浄錬の新手法でも発見したなら、茶歴だけじゃなくて、アゥマ使いの常識を変える大発見だから、とてもすごいと思うよ!」
いたってのんびりとした雰囲気のまま、蒼は記録に筆を走らせた。
茶通の紺樹にはよっぽど気に食わないことなのか。はたまた、学院に通っていた時代から贔屓にしている茶葉堂を脅かしているのが腹立たしいのか。それとも、紅がカマをかけた内容を否定する発言を我慢しているのか。
どれが正解か蒼には不明だが、とにかく平常丁寧語で通している彼が口調を素に戻してしまうほど、怒りを感じることだったらしい。それだけは、信頼できる反応だ。
「蒼は茶師として、茶を愛するものとして。茶を軽んじているような行為が悔しくないのか?」
蒼のくすぐったさに追い打ちをかけるように、仏頂面で口を横に引く紺樹。
蒼は客が無茶を注文してきた時にするように、少しばかり眉を垂らした。代わりに紺樹が怒ってくれるから大丈夫とは、命ほど大切な茶瓶を叩き割っても言えない。見栄……だろう。
もう一点。ここに、更にその件に関してご立腹な人物がいる、ということもある。蒼としては、これ以上、店内の温度をあげたくなかったのだ。
蒼はちらりと、そ知らぬ顔で風を起こしている天井の風扇を横目に入れた。見ているだけでも、涼しさを感じられた。ほどよい湿度・温度が保たれた室内で、茶葉たちは仄かな光を纏ったままだ。
「うーん、寝たきりのおばあちゃんの家で浄錬してあげられれば、喜んでもらえるよね。それはとってもいいことだし、やっていること自体には賛成なんだよね」
「蒼は甘い! オレは大反対だ。どうせ、その仕掛けだって商売方法と同じく合理主義のろくでもない方法に決まってるさ。大体、おばあさんの件だって外に出る機会を奪っているようなものだろ。人ってのは目標があるからこそ元気に脚を動かせるっておばあが良く言ってた」
案の定。紺樹の問いかけは、紅の発熱機を起動させてしまった。
(こうなるのを避けてたんだけどなぁ)
蒼は大げさに、もう一度天井を仰ぎ見た。
紅は、紺樹に対してこそ反抗的ではあるが、普段はいたって温厚だ。彼がここまで怒りを露にするのも珍しい。紺樹は無言のまま、蒼に問いかけてきた。大切な店のことだから、というのは理解できるが、それにしてもめったに見る顔つきではないから、彼の反応は至極当然だ。
そんな困惑の視線をうけて、蒼は待っていましたと言わんばかりに、唇を弓月型に変えた。にやりと、悪戯を思いついたような子どもの表情だ。
「ちょっと奥さん、聞いてくださいよ」
「蒼には常に男性として認識してもらいたいのですが、聞きますよ。可愛い蒼が話してくれることはすべて」
「紺君。今、そういうのは必要ないから」
蒼はフルフルと頭を振りつつも、紺樹の耳元へ近づく。
吹き出る笑いを必死にこらえた息が、それでも堪えきれないと漏れている。そうして、もったいぶるように一言を重く引きずりながら、蒼はゆっくりと言葉を紡いだ。
「あのね、紺君。実は、紅ってばね、華憐堂の、娘さんにねぇ――」
「副長殿! 早く帰らないと長官殿の雷警報が発令されますよ!」
叫びに近い声を紅があげた。それと同時に、小皿に置いてあった茶巾が宙を飛ぶ。紅の狙い通りに、それは紺樹のこめかみにぶつかり、思った以上の衝撃音が鳴った。地味に痛そうだ。
紺樹は飛び散った汁が放つ香りにむせ返る。蒼は裙子の袋から手絹を取り出し、紺樹に押し付ける。
「ちょっと紅、茶巾を投げたら汁が飛び散るでしょ!」
「自分で投げておいてなんだが……少しひどいな、お前。そちら様の心配はなしか」
「そうそう、紺君も心配だけど。結構、紅の事情も真剣なんだよ」
紅の言葉に便乗した紺樹が、心配してくれと言わんばかりにむせる。それには反応せず、蒼は頬を膨らませたまま店の扉を指差した。
「紅ってば、華憐堂の娘さんに付き纏われているの。今もそこの影辺りにいたりしてね」
紺樹の手から、手絹が滑り落ちた。