禁書④―実父の面影―
「紅……」
長官の手が、紅の頬に触れた。染みてくるぬくもりのおかげで、紅はやっと息をすることができた。
渦巻いていた淀んだ空気が、浄化されていった気がした。次第に、報告書を握る指先や足に痺れが走っていった。心臓が鈍く鳴っている。
「嘘だろ……だって、まさか、そんな術が存在するなんて」
紅は一人、煩悶する。がたがたと煩く鳴る歯を食いしばろうと力むが、紅の意思を嘲笑うかのように、音は大きくなっていく。
紅が狼狽している理由。
それは、目の前の文字が単なる昔話とは思えず、むしろ現実と繋がってしまったからだ。
異能を持つ紅は、あの人物の特異性を理解していた。いや、理解しているつもりだった。
(冷静になれ)
紅は深呼吸を数度繰り返し、自分自身に強く言い聞かせる。
そう、今読み上げているのは古書。昔の話だ。全てを読んでから、どうするべきなのか考えるんだ。紅は、震える唇を動かす。
男性は、自分が既に時間から切り離されている――死人なのだと告げてきた。
生き返ったのではない。
ただただ、命ある者の真似をしている死人としてこの世に縛られているのだと笑ったのだ。いくつもの存在を犠牲にして、と。
紅の声が、広い長官室に響いた。
さほど大きな声ではなかったのに、部屋の隅々に行き届いてしまったような気がした。
紅は顔をあげ、大きく息を吐く。
日が傾き、部屋の中は薄暗い。あれ程までに存在を主張していた窓の煌めく光りは、なりを潜めてしまった。大理石の床には、点々と弱い光が漂うだけだ。ほのかに香っていた干し無花果の甘さは、名残さえない。
「すでに、死人として」
言葉に出すと、紅の中でくすぶっている恐怖が、再び沸き上がってきた。誤魔化すように横目で長官を見るが、悲しそうな色を浮かべるだけで、口を開く様子はなかった。
紅は震える唇を動かして、続ける。
苦しそうに寄せられた眉間が真偽の程を語っていたが、どうして信じられよう。
目の前で動き、苦しそうに微笑んでいる恩人が、既に世に在らずと。
その時、私には男性が口にした『死人』が持つ意味を考える余裕はなかった。がむしゃらに掴んだ手首。触れ合った肌からは温度が伝わり、間違いなく脈を打っているのがわかった。その彼がどうしてすでにこの世のモノならざると信じられようか。
「甘かった。命を留まらせる何かしらの術だとは思っていたけど、根本から違ったんだ」
紅の背が椅子にぶつかる。
(思い出されるのは、あの温度。絡まった腕から伝わってきた温かさ)
紅は重い右手をあげ、左の腕を握りしめた。皺のない上着が、みるみる、形を変えていった。
自分の中にある感情からの行動なのか。それとも、古書の著者の思念が、紅の身体さえ動かしているのか。正直な所、紅には判断がつかなかった。
(これが陽翠や陰翡という友人なら、涙も出るだろうな。蒼やおじい、それに紺兄たち家族たちならば、発狂するかも)
だが、相手は、どちらかと言えば苦手な部類の人間だ。親近感を持ち始めたとは言え、蒼を苦しめる立場の人間。敵対する相手。
(そんなの人としては――関係ないだろ。関係ないはずなのに、感情を切り離している自分がいる)
古書が語る恐ろしい術が、自分の知る人物に施されていると考えると、心臓が凍った。
だが、それはきっと、憤りという感情ではなく未知なる存在への畏怖だ。
「オレは随分と白状な人間みたいです。やっぱり、あの歪んだ血縁上の父と同じ……」
ぽつりと呟いた言葉だけが、紅の脳を揺らした。
(どんなに距離を置きたい人とは言え、自分に好意を寄せてくれる人間に対する気持ちだろうか)
いや、自分が大切に想う家族や友人が無事であれば、それで良い。特に蒼から不安要素を取り除けるのであれば、喜んで受け入れられる事実だと、どこか冷静に考えている。
(やはり、自分は狂気に溺れた実父の血を引いているんだ……!)
茶に映る牡丹色の瞳が、冷たい色で語りかけてくる。
狂人の実父と瓜二つらしい顔で。
紅は舌を噛み切りたくなった。紅が最も危惧している闇に、触れてしまった気がした。
「距離感を考えれば、紅の反応は至極当然なのですよ」
頬を撫でる小さな手。長官の小さな手が、何度も紅の肌を滑る。
「――っ、でも、オレ、は」
「むしろ、わたしは紅がそう思ってくれていて、安心しているのです。もし、紅があの人物ともっと近しい関係になっていたなら、こんなのは到底受け入れられる現実ではないのですから」
長官が慰めてくる。その度、ぽろりぽろりと流れていく雫。ひんやりとしていた長官の指が、熱を増していく。
(これは。頬を伝う熱が安堵からなのか、生まれ来る葛藤からなのか。ただ単に著者の思念に共鳴したからなのか)
紅自身にも、全くわからなかった。
✿✿✿
「気分は落ち着いてきましたのです?」
長官から手渡された茶杯からは、白い湯気が立ちのぼっている。
紅が茶杯を両手で包み込むと、茶の熱が掌から優しく染み込んできた。少し熱いくらいだが、今の紅にはちょうど良い。
「とっておきの隠しおやつなのですよ」
出された練り菓子を口に押し込むと、あんの甘さが広がっていった。こしあんを包んだ練りきりは、薄い桃色や若草色の花で飾られている。
本音としては、食べ物は喉を通らないと思っていた。けれど、見覚えのある練り菓子は、あっさりと裏切ってくれた。激甘党の長官専用に、茶房を管理している叔母と蒼が作った菓子だ。
「すみません、取り乱してしまって。……お恥ずかしいところを、お見せしてしまいました」
古書に宿る著者の思念に引っ張られただけではなく、自分の私情まで吐露してしまった。
いくら長官が紅の身の上を知っているとしても、場所が場所だ。
紅がすっかり乾いた目元を擦っていると、長官はころころと笑いを転がした。
「一気に古書を読んでもらっていたので、ちょうど良い区切りだったのですよ」
長官の気遣いが、余計に羞恥を刺激してくる。紅は、脇に置かれている古書に、視線を落とした。
「夕日だけでは、古書の文字は読みづらくなっていますですね」
長官の細い手首が、玉を撫でるように動いた。長官の動きにあわせて、ぽっと部屋中の角灯に明かりがともっていく。竜胆の花を模した硝子。中心に抱いたアゥマを凝縮した玉が、光を放った。
最後に天井の花にも光が宿ると、部屋全体が明るくなった。
「ありがとう、ございます」
紅は何となしに、茶杯を両手でいじる。じっと茶を見つめていると、不思議と心が落ち着いてくる。それと同時に、先ほど茶に映った自分の目が、脳裏に蘇ってきてしまった。
自分の血縁上の父親を思い出し、胸がつきりと痛んだ。
「紅、話を進める前に、ひとつだけ伝えておきたいのです」
長官の真面目な口ぶりから、余計な考えを捨てろと忠告がくるかと思われた。しかし、かち合った長官の表情は、紅の予想に反して、とても柔らかかった。
紅は無言のまま、小さく頷く。
「血が繋がった親子だからといって、全てが似るわけではありませんのです」
紅の身体がこれでもないくらい強張った。
「もちろん、紅の実父があの人だという事実は変わらないのです。能力や容姿、様々な場面で父親の存在を感じるでしょうし、生きている限り付きまとうことなのですよ」
わずかに、紅の頬が硬くなる。長官が語る内容は、毎日嫌と言うほど実感しているからだ。
紅は実父から受け継いだ特殊な能力を持っている。
今でこそ意識して抑えられる力だが、それまでは視界全部が父親の目の代わりとも思えて、紅を苦しめていた。
ただ、紅の外見は、母親似もしくは白龍似だと評されることが多かった。どちらかと言えば、蒼の方が、父家系を思わせる顔立ちだ。
しかしながら、両親が亡くなった直後に蒼と再会した時、驚くほど母親に似てきたと息を呑んだのも実際だった。
逆に自分は鏡を覗くたび、育ての父親越しに実父の面影に侵食されている気がして仕方がない。
大好きな育ての父親に似る幸せと並行して、どうしたって実父の存在がつきまとう。
「けれど、紅はあなたが信じる自分、それに蒼や白をはじめとした大切な人たちが信じてくれている紅に誇りを持って、『紅の人生』を歩めばいいのですよ。だれかの人生をなぞっているなんて、自分を追い詰める必要はないのです。……紅に限らず、みんなみーんな、そーなのです」
口にしている内容は、とてつもなく心強く凛然としている。だが、当の長官は、両腕で大きく円を描き、溶ける様な甘い笑顔を浮かべていた。
「長官。その、あの」
あまりに差のある光景に、紅は口元を押さえ喉を震わせていた。
「こほん。善処します」
「ぶー! とってーも素敵な台詞を言ったのに、ずいぶんと曖昧なお返事なのですよぉ」
「長官。自分でおっしゃったとたん、オレの中で『善処』から『覚えておきます』に程度が変わってしまいました」
もちろん、本音ではない。紅の目の前で、鬼灯のように頬を膨らませている長官も、冗談めかしているのだろう。
紅は微笑むと、茶杯をあおった。
「すみませんでした、長官。話を戻しましょう。つまり、古書の男性は死後、妻の手によって元の姿を取り戻した。けれど、それは生き返った――いわゆる『反魂の術』とは違うのでしょうか」
「紅は、そう考えたのです?」
質問を質問で返され、紅はたじろいでしまう。
反魂の術は、古書に記載のある術だ。実際に施行されたという文献は存在しない。
「オレは『反魂の術』について、全くと言っていいほど知識がありません。それでも、引っかかる点が、いくつかはあります」
「例えば?」
「えっと、その。本当に素人目線というか、人として基本的な部分ですけど……」
紅が抱いた違和感は、術の本質を語る理論の形を成しているかは疑問だ。それも、子どもの間違え探しのようなモノだ。口にするのは気が引けてしまう。
「はい、なのですよ」
しかし、言いよどんだ紅におかまいなしにと、長官は笑顔で先を促してくる。観念するしかなかった。
紅は、自分の表情がどれほど情けなく崩れているのかを想像し、内心でため息をついた。
「えーと、ですね。まず、本当に生き返ったのであれば、食物を口にしないのは可笑しいかなと、単純に思ったんです。水関係もですが、むしろ最後に特殊っぽい酒だけを飲んだって記述も、それを助長してきました」
まず口をついて出たのは、確信部分だった。
紅が知る人物と重なった点だ。
紅は出オチだったかと汗を掻きつつも、本を指さす。
「それに、生き返った時点で記憶をなくしているのであれば、まだ納得できそうですが、若い男性が徐々に、しかも戻ったり忘れたりしながら記憶をなくすなんて聞いたことありません。それどころか、そもそも男性自身が『生き返ったのでもなく、死人としてこの世にある』的なことを言っているわけです。彼が定義する『生き返った』という概念自体が真実からずれているのかも知れないって思って」
もごもごと口を動かしていた紅から、長官が視線を外すことはない。かと言って、厳しい目つきをしているわけでもなく、ただ紅の考えに耳を傾けているだけに見える。
どちらつかずの態度に、紅は居心地が悪くなってしまう。
紅とて、男性の『死人として』という箇所を丸呑みしているわけではない。文学的な表現や本人の心情を語っている可能性もあるので、そこに真実を重ねるのは、いささか残慮な気がする。
だが、可能性として提するくらいなら許容範囲だろうと思った。
「そうですか」
笑みを浮かべたまま、そっと瞼を閉じた長官。とても落ち着いた雰囲気を纏っている。
紅は急にこみ上げてきた羞恥を隠すように、頭をかいた。
「すみません。考察どころか、矛盾探しもできていないですよね」
「いえいえ、なのですよ。紅の着眼点は、悪くないのです」
「え? どういう意味ですか?」
てっきり、的場ずれだと笑われる覚悟をしていた紅は、間抜けな声を出してしまった。
肯定ともとれる、予想外の言葉に首が傾く。
「どうって。音通りの意味なのですよ」
長官は、ゆっくりと目を開いていく。白く柔らかそうな皮膚の間から姿を現していく瞳は、とても赤く、血を連想させた。その瞳は、至極愉快そうに細められている。
つい先ほども感じた違和感に、紅の背中を冷たい汗がどっと流れていった。
(そもそも、なぜ、長官はオレに禁書である古書を読ませたんだ?)
紅は空になった茶杯へ茶を注ぎながら、思考をまわす時間稼ぎをする。
古書を読ませた意図。
それは、最初に依頼された通り、紅の異能を使って手助けをして欲しいからだろう。紅に依頼がきたのには、独立した機関であるはずの魔道府が受けている圧力が関係している。
(魔道府を辞めているオレなら、長官や副長である紺兄よりも、幾分かは自由に動ける。しかも、フーシオの一族という名目もある)
それに、もうひとつ。
古書の男性と紅の身近にいる人間を重ねた時、長官は『距離感を考えれば、紅の反応は当然だ』というような慰めの言葉をかけてきた。ということは、つまり、長官はあらかじめ、その人が反魂の術ないしはソレ相応の術が施されている可能性を加味していたと予想できる。
(もっと言えば、既に確信さえ抱いていたのだろう)
考えすぎだと、紅は奥歯を噛み締める。
可能性で言えば、紅の反応を見て確信を得た方が高いだろう。
(だからこそ、オレに古書を見せたのだと、思う)
そこで、ふと依頼の話を始めてから間もなく耳にした会話が思い出された。
円卓に触れていた指が、小刻みに震えていく。
「長官」
よくよく考えれば、とてつもなく恐ろしい存在だ。
死人が生き返る。
その言葉が物事の核心をついているかなどは、どうでもよい。反魂の術などというモノが存在すること自体、生命の理から外れた脅威なのだ。
術を手中に納めた人間は、ある意味では永遠の命を約束されたも同然。そんな術を権力者が欲しないはずが、ない。
(可能性があれば縋る。それが人の真理だ)
紅の強張った様子を見ても、長官は顔色を変えはしなかった。
「確か、国の中央に新しく発見されたアノ溜まりの守人を選出したのは、皇族だとおっしゃいましたよね。管理を担う皇族が、あの店の後見人になっているとも……!」
「はい、いいましたのですよ」
反魂の術、というものがどんな術式を得て発動されるのか。紅の知識を遥かに超えた域の話だ。けれど、術の性質から考えて、人智の及ばない領域と言って良いほど、高等な術だという想像くらいはつく。
紅は古書を次々めくっていく。が、目当てのモノが書かれた項目はなかった。
「長官、手元にある古書は、これで全部ですか?」
「今ここにあるのは、それが全てなのですよ」
一歩ずれている返答に、紅の体温が上がっていく。




