禁書③―発していないか、持っていないか―
冷え込んできた空気が、より一層下がった気がした。
紅は自分の中に浮かんだ考えに戸惑っていた。
(思い浮かぶ人物がいる)
自分が知る人間の中に、該当する可能性を見つけたのは驚愕だった。
けれど――。
(きっと、オレが何よりも驚いているのは……古書に書かれた人間と同じ存在な人物がいるかもしれない、ってことだ)
紅の心の揺れが伝染したのか。円卓に触れている長官の手も、微細に震えていた。
赤みを増した頬は、緊張か。
紅には、どこか興奮しているようにさえ見えた。もしかしたら、単純に自分の姿を長官に重ねているだけかもしれない。
「紅、この著者は、『発していない』と述べているのです」
「でも、長官も。それに……」
「わたしが言った『繰る能力』と著者がこの時点で記している『発していない』は、同義語なのです。でも、紅が口にした『持っていない』とは、全く似て非なるものなのです」
確かに、古書に書かれた『発していない』という一部分だけ切り取れば、長官の説明と同じ意味になる。
「つまり、『繰る能力』とは、生命活動を維持するアゥマは持っているけれど、魔道として応用できないということ。『発していない』とは、その生命活動を維持するアゥマを保有すらしていないということ、なのです。ということは、古書の男性に施されているのは――」
長官は、紅が抱いている恐怖より何歩も先を行ってしまっているように思われた。
紅は前屈みで、長官に詰め寄る。
「長官待ってください。そもそも、この男性って――」
続くはずだった言葉は、軽妙に鳴った『パンっ』という音に弾かれ、粉々になった。半分浮いた腰から、力が抜けていった。目の前にある長官の姿に、拍子抜けしてしまった。
紅の前には、掌を合わせた長官がいた。その手の震えは、止まっている。
「ごめんなさいなのです。そっちの疑問なのですね。先走ってしまったのです。ちょっとわたしも動揺しているのですよ」
「え?」
「あぅ。こっちの話なのです。今は、関係ないのですぅー」
紅は問い詰めようと身体を傾ける。が、長官は頭巾をすっぽり被り、
「後で話すのです、順番があるのです! 間違えたのです!」
と言い放ち、口を尖らせた。
紅が顔を合わせようとしても、頭巾を掴んだまま腰を捻ってしまった。
(いまはオレも混乱しているから、深く追求するのは諦めよう)
わずかに垣間見えた長官の瞳に浮かんだ高揚の色が胸に引っ掛かったが、長官が後で話すと宣言した以上は無駄だ。感じた色は、紅の思い違いだろう。
それよりも、自分の中にある恐怖への答えが欲しい。
「紅が欲している答えは、わたしではなく、古書が持っているのです」
長官は真っ直ぐ紅を見つめてくる。少し前までの高揚は欠片もなかった。
紅の手が硝子杯に伸びる。きんっと、耳に痛い音が鳴った。喉から落ちていく茶は、味がしなかった。
話を戻そう。とにかく、男性自身が結界を張るのは不可能なのだ。つまり、男性意外の人間が、男性を人目から避けるために、この場所に留まらせていると考えるのが自然と言える。
男性が、紅の考えている有り得ない存在であれば、事情はどうであれ、隠されているのは当然だろう。あの人物が特殊なのだ。いや、その人物という特定も避けるべきだ。今しがた、著者の思念に引っ張られてはいけないと、反省したばかりなのに。
男性に救われてから二ヵ月半ほど過ぎ、私の身体は完全に回復していた。一時は命さえ危ういと思われた怪我も、跡を残さず綺麗に治癒していた。たったこれだけの時間で回復するなど奇跡に近い。先に述べた通り、男性が治癒の道具を使った可能性は皆無。
私は最悪の場合、身体の自由がきかなくなる覚悟はしていた。それに、どんなに軽く見積もっても、数年は機能回復訓練を要する状態であったはずだ。しかし、今はむしろ、以前よりも体調が良くすら感じられた。
それと時を同じくして、男性は人里へ戻るよう進言してきた。
驚くことに、その時の彼の瞳は、初めて見る凛々しい輝きを放っていた。勿忘草色の綺麗な色が、私を捕らえていた。
気圧された私は、言葉もなくただ素直に頷いていた。正直、彼に抱き始めていた好意が後ろ髪を引っ張りはしたが、頭のどこかでは、ほっとしていたのかも知れない。時間が経つにつれ、自分が人間から離れていくような錯覚を覚え始めていたからだ。
辺境の地で人との交流が途絶えているという理由と違う。意識の範囲ではないのだ。己のアゥマの質が、身体が内側から変わっていったような、掴みどころのない不思議な感覚に陥っていた。
最早、何に驚いていいのか迷子になるほどだ。
「個人が纏うアゥマの性質が変わるなんて、あるんですか?」
紅は自分の中にある確信から逃れるように、簡単な疑問を口にした。
「よほどでない限り、性質自体……というよりも、核は不変なのです。古書の著者が述べる変化が、核なのか、それとも表面的な性質の揺らぎなのかは、内容だけでは判断ができかねますねー。特に古書の時代においての常識はあいまいなのです。麻薬を摂取した状態の意識的な錯覚を受けているのか、何らかの影響で本来の性質が隠れてしまっているのか、本当に核が変わっているのか……」
長官の声は冷静だ。反応も静かなモノだ。
著者が纏うようになったアゥマの話は、今後の展開にさして重要ではないのだろう。紅の視線が、再び古書へと落ちた。
旅立つ前夜、私は彼と杯を交わした。
私はこの日、初めて彼が何かを口にしたのを見た。私のために森で木の実や山菜を採っては来てくれるものの、本人が飲食しているのを見たことがなかったのだ。
その日の新月は明るく、森に響き渡る虫の声が印象的な夜だった。夜風は心地よく、月の光を受け止めては揺れる湖の水面に心癒された。酔いも回り始めた頃、それまで私の話に相槌を打っていただけの彼が、澄んだ声で己を語ったのである。
澄んだ瞳の陰に闇を隠し、彼は独りごとのように零した。どうやら、彼はふとした瞬間にだけ記憶を取り戻すらしい。しかし、それも長くは続かず、すぐ己が何者なのかわからなくなるそうだ。最初にその状況に陥った時は大変だったが、次に己を取り戻した際、自分宛に走り書きを残すようにしてからは、取り乱すことも少なくなっていったらしい。とは言え、我を忘れる間隔が段々と長くなり、次に正気を取り戻せるのか、怪しくなってきた頃、私が現れたのだという。
(どうやら、単なる記憶喪失とは違うみたいだな)
しかしながら、徐々に自分がわからなくなる、自分が忘れてしまっている事実に気がついてしまう恐怖とは、いかばかりだろう。
紅の胸が、ぎゅっと締め付けられた。それも、一人で何とかしようと努める男性。さきほど古書に書かれていたように、全くの独り身というわけでもなさそうだが、それにしても、孤独である時間は長いとは予想がつく。
(悩みの種類は別物だとしても、一人悩みを抱える辛さは身に覚えがある)
彼の口から語られたのは、にわかに信じがたい話であった。
けれど、それまで誠実そのものだった彼が、別れ際になって、しかも二度と会う機会もないであろう私に作り話をする理があるだろうか。私は彼を信じることにした。
彼は、普段は一人で暮らしている。これは、先に聞いていた話と同じだった。しかし、実は三ヶ月に一度は妻が街から訪れるらしい。揃えられた食器や洗面具から、確信に近い可能性として持っていた考えとは言え彼の口から『妻』という単語が出た時は多少の衝撃を受けた。それと同時に、このような辺境の地に夫を一人残している妻に呆れ怒りさえ覚えてしまった。
その衝撃もすぐに薄れてしまった。なぜなら、彼は「しょうがないのさ」と愛らしく笑ったから。初めてみる、愛しさを称えた微笑みだった。
そうして、彼は続けた。自分の時間がすでに――。
紅は、そこで言葉を切った。いや、声が出てこなかったのだ。
頭をがつんと殴られたように、世界がぐらりと揺らいだ。こぼれ落ちそうなくらい開かれた牡丹色の瞳。
紅は視線を古書から逸らせない。
「紅、呼吸をしましょうなのです」
長官に言われて初めて、紅は自分の呼吸が止まっているのを知った。無理にでも息を吸おうと試みるが、喉に薄い膜がはったようで叶わない。苦しさで顔中が歪んでいくのがわかる。
息をしなければと頭では理解できるのに。自分の意志とは別のモノが、喉を、首を締めてくる。浅い呼吸の中、瞳が乾いていくのだけはしっかりと自覚していた。
指先から流れてきていた著者の黒い思念。それが紅という媒体を必要とせず、空気中のアゥマと溶け合って、外からも紅を取り囲んでいる。そんな幻覚が見えた。
いや、実際に『視え』た。視えてしまった。




